カエレカエレ
目が覚めると、自分がどこにいるのか……しばらく分からなかった。
見覚えのない狭い部屋。カーテンの閉められた窓から朝の日差しが差し込み、涼しい風が古めかしい透明な青い羽根の扇風機から送られてくる。
床の上で寝ていたせいか、体のあちこちが微妙に痛い。身体を起こして周りを見渡すと、安っぽいパイプベッドの上に、白いTシャツとジーンズ姿のままで眠る女の子の姿が目に入り――昨日の出来事を思い出した、
夢じゃなかった。
昨日、僕とこの子……瑠奈ちゃんは酔っ払っていた――。……もし酔いが醒めて昨日の事を覚えていなかったら……。
「ううん……」
寝返りをうつ彼女に驚いて、慌てて床の上でまた寝たふりをする。
狸寝入りを決め込む――! 昨日の夜のように心臓が高鳴るのだが、どこか種類が違う高鳴りだ。
嫌な心臓の高鳴りだ――。
ギシッと背後で彼女が動く音が聞こえる。起きたようだ。目をギュッと閉じてドキドキしながら寝たふりを継続する。大声で騒がれたりでもしたら……ひょっとして警察に連行されたりするのだろうか……。ダラダラと嫌な汗が垂れ落ちる。
ベッドから下り、トットッと散らかった部屋を踏み分けて歩く音。トイレに入って……カラカラとペーパーが巻かれる音と、ジャーっと水が流される音……。
僕が寝ている事には気付いたハズだ。騒がれないで助かった。だが……。
――いつ目覚めたらいいのか――。
物音で目覚めるのが一番自然だ――ナチュラルだ。ってことは……。
今でしょ――!
トイレから出てくる音で気が付いたように、ゆっくりと僕は目を覚まして身体を起こし、痒くもない頭をボリボリとかいて振り向く。
目が合った。
「おはよう……瑠奈……ちゃん」
「……おはよう」
寝癖を手ぐしで整えながら、少し気恥ずかしそうにうろたえる瑠奈。あえて名前を呼ぶことで、見ず知らずの男じゃないのを強調する。
「ええっと……」
少し首を傾ける仕草が、何を意味しているのか分からなかった。
落ち着け、落ち着くんだ――そりゃ、疑問があれこれ湧いて溢れるよな。
一、なんで男が寝ていたの?
二、どうして二人とも服を着たまま汗をかいて朝まで寝ていたの?
三、どうして本来はお客様の男を床でゴロ寝させ、私がベッドを使っていたの?
四、二人は関係を持ってしまった? それとも、まだ?
五、朝食はパン派か御飯派か麺類派かシリアル派?
六、いつ帰るの? まさか、夜までいるの?
七、他になにか質問は?
――どれだ、どれを考えて斜め四十三度に首を傾けているのだ――!
「名前……なんだっけ?」
……。
正解は八番目の、僕の名前を憶えてくれていなかったでした……。正解者がいたなら拍手喝采したい気分だぜ……。
「……僕は、古河文昭。昨日、合コンで一緒に飲んだんだけど……ちゃんと覚えてる?」
「あ、当たり前でしょ。ちゃんと覚えてるわよ」
ちょっと怒っているところが逆に可笑くて笑ってしまった。すると瑠奈もクスクスと笑いだす。名前もロクに覚えていない男を部屋に泊めてしまったのだ。その事実だけを考えれば、昨晩「私は軽い女よ」と言っていたのが頷けてしまい面白い。
「ねえ、付き……合う?」
「え?」
……そうか……。僕達は付き合ってもいないのに、二人で夜を共にしたんだ。
まあ、何もやってないんだが……たぶん。昨夜のことが、部分的にしか思い出せないのが歯痒い。起きても寝る前と同じ姿だった。パン一で寝ていたりすれば……なにかあったかとも期待できるのだが……。
ああ……お酒のバカと言いたい。
「ねえ、聞いてた?」
「え、ああ……。いいよ」
もちろんオッケーだ。こちらこそ願ってもない。こんなトントン拍子に彼女ができるなんて。今までの二十年間はいったい何だったのかと笑ってしまう。
最初にこの部屋に入った時の違和感が、今は嘘みたいになくなっている。まるで自分の部屋みたいだ。一晩中、瑠奈のいる部屋の空気を吸っただけで順応できたみたいだ。
「私は望月瑠奈……。瑠奈って呼び捨てにしていいよ。「瑠奈ちゃん」とか言われると子供扱いされているみたいで恥ずかしいから」
立て掛けてあった四角い座卓の脚を立てて置き、向かい側にちょこんと座る。
「分ったよ、瑠奈」
名前を呼び捨てにされて少し頬を赤くするのを見ていると、こちらも恥ずかしくなってしまう。
「昨日の帰りのこと、よく覚えてないんだ」
このアパートの場所も、駅からどう歩いてきたか分からない。スマホで調べればすぐに分かるのだが。
「……実は、私もよく覚えていないの」
頬がまだ赤い。
女の子なのに、そんなに酔ってしまって大丈夫なのか心配になってしまう。
「飲み過ぎちゃいけないよ」
「ええ。お互いにね」
クスクスと笑う笑顔が可愛いと思った。
野神先輩が「誘え誘え」と言ってくれたお陰なのかもしれない……。それと、その後の一気飲みも……結果としては良かったのかもしれない。
瑠奈の笑顔を見ていると、そう感じる。
「そういえばさあ、昨日、帰り道でなんか歌ってたよ」
「えー! 私が歌ったの?」
驚きようから分かる。普段はあまり歌ったり喋ったりしない大人しい性格なのだろう。
「ああ、確か、「ホワニタマニタ〜」って訳の分からない歌。それと、月が地球に落ちてどうのこうのって力説してたよ……」
笑ってしまうよなあ、と言いかけて――止めた。
話を聞いていた彼女が、急に真剣な表情になっていたからだ――。
「……忘れて。それと……今日は帰って」
「え?」
……言っちゃいけないことを言ったのだろうか。それとも、酒癖が悪いと思われて怒っちゃった?
調子に乗って、からかい過ぎた?
「帰って、――帰れ!」
帰れって……いくらなんでも、ちょっと酷くないか? もう酔いなんて醒めているはずなのに。
「……ああ、ゴメン。今日は……帰るよ」
なんだか納得いないけど……。ひょっとすると二重人格か?
それとも……、
「帰ってよ! 帰れ! カエレ! ――カエレカエレカエレカエレー!」
耳を押さえながら叫ぶように繰り返して連呼する姿は、駄々をこねる子供のようにさえ感じた。
なんなんだよ……。今さっき、「付き合う?」とか言っていたばかりなのに……。
「また連絡していいかい」
連絡先はまだ知らない。聞いていない。
「……」
長い沈黙が狭い部屋を広く感じさせる。
寝癖のついた短めの髪をさらにクシャクシャに引っ掻きながら立ち上がると、散らかっている床から小さな紙切れとボールペンを拾い上げ、なにやら書き始めた。
「……私、個人の携帯電話は持っていないの。会社の携帯で受信だけ……」
番号の書かれた紙を手渡された。
「私って……他の女子とは違うの……。だからごめん。今日は……帰って……」
「……あ、ああ……」
遠回しに、もう会わないでと言われた気がした。だが、渡されたメモの番号や、会社の携帯電話っていうのは嘘じゃないんだと思う。
部屋を出たが、見送ってくれるわけでもなく扉が閉まり、内側から鍵と「ガコッ!」と扉にロックが掛けられる音が通路に響いた……。