月夜
「あー、今日も月は綺麗だなあー」
酔うと変わるタイプなのだろうか。さっきまでとは別人のように生き生きとしている。僕の腕に手を絡ませてきたり、ニコニコ笑顔を見せて話しかけてきたり……。ヒョイっと川の堤防に上がって歩いて見せたり。
息苦しい水槽の中から自由な海に出た……トビウオのようだ。
「ああ~、今、私のこと、カマスみたいって思ったでしょう?」
――なんだ、そんなぶっ飛び妄想!
「おも、思ってないよ! ええっと、さっきとは別人みたいに生き生きしているねって思っただけさ」
「うん」
にこやかに笑顔で頷く。よほどお店で飲むのが辛かったのだろうか……。なれないお酒を飲まされるのが嫌だったのだろうか。それとも……ひょっとして、僕といるのが楽しい……?
ゴクリと唾を飲んでしまう。
「辛いこととか悲しいことってさ、あり過ぎるとなんかマヒしちゃうのよねー」
小さな川の堤防を、空を向いたまま歩き呟く。どことなく悲し気な横顔が月に照らされてドキッとさせる。僕も堤防へ上がり二人で並んで歩いた。
瑠奈ちゃんのことはまだ何も知らないが、きっと僕なんかよりも辛い幼少時代を送ってきたのだろう……。彼女の「身内がいない」って一言に、自分が不幸だと思い込んでいたことが恥ずかしかった。
「でもね、そんな時は月を見上げて歌うのよ。涙がこぼれないように」
「上を向いて歩こうってわけだ」
昔、よく聞いたことがある歌だ。
「うん。おっとっと――」
ずっと空を見上げて歩いていたものだから、足元の段差にけつまずいた。
「危ないよ。ちゃんと足元も見ないと」
思わず手を出しバランスを崩した彼女の体を支えた。ふわりと短い髪からいい香りが漂う。
「えへ」
「……段差なんてどこにもないのに。おっちょこちょいだなあ」
見つめ合うと綺麗な瞳に月の優しく青い光が映りこんでいる。
「うん。ねえ、月ってさあ……、
――落ちてくると、どうなると思う?」
――はあ?
なんだその突拍子もないなぞなぞは――! 急に聞かれて分かるわけないじゃないか、勉強そんなにできないし。スマホで調べれば分かるんだが……そんなことを今、求められているわけじゃない……と思う……。
「ドッポ~ンと海に落ちて……大きな山ができるんじゃないかなあ?」
「ふーん」
三十点くらいの回答を得たような顔だ……。僕の答えに納得できていないのが伺える。
「だったら、落としちゃおうっかなあ~」
瑠奈ちゃん、もしかするとまだ厨二病?
自分のことを神様か特別な存在とでも思っているのだろうか。本気で。
「ハハハ、やるんだったら地球の裏側でお願いします」
酔った彼女が口ずさんだ鼻歌は、どことなく寂し気で、懐かしいような歌だった……。
「ホワニタマニタ〜……」
酔って歩くと、いくらでも歩けるのかもしれない。二人で肩を並べて歩き始めてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
遂に僕は、最終目的地に――辿り着いてしまった。
二階建ての彼女のアパートは、僕が勝手に思い描いていた想像とかなりかけ離れていた。……僕の住んでいる男子寮と同じくらい古くて汚い……建物全体が。
耐震強度に不安を抱きそうになる錆びた赤茶色の階段を上がり、二階の一室の前で立ち止まった。
表札の所には「望月」と書かれた厚紙が挟んである。手書きで書いたのだろうか。
「片付いてないけどゴメンね。どうぞ」
「お、お邪魔します」
高鳴りっぱなしの鼓動を悟られないよう玄関の扉から中へ入ると……。部屋の中も外見と同じように古かった……。
むっと外より暑い部屋……。
薄明るい紐の付いた蛍光灯器具……。
到底、若い女の子が一人暮らしをしている部屋には見えない。ドラマや映画とかでもこんな部屋に住んでいる女子なんて……見たことがない。
部屋の奥の窓を開け、網戸を閉めて扇風機を「強」にして首振りで回す。網戸も所どころに穴が開いている。
この部屋……クーラーがない。じっとりと汗ばんでくる。
隣の部屋との壁は、薄いベニヤ板一枚くらいじゃないだろうか……。喋り声やテレビの音、振動も伝わるかもしれない。隣は玄関上の電灯が点いていなかったから、空家なのかもしれない……。
あまり使っていない台所には、洗っていない食器や食べ終えたカップ麺の残骸が目に付いた……。
「散らかっててゴメンね」
「……いやあ、急だったから仕方ないよ」
部屋には小さな四角い座卓とベッド、プラスチックの洋服ダンスが一つだけ。……本当に必要最小限の物しか置かれていない。
趣味や興味の雑貨的な物が置いてない。テレビも……ない。どうやって情報収集しているのだろうか。
趣味かどうかは分からないが、壁に引っ掛けられているビニールの帯のような物が一際異色に感じた。登山する人が身に付けて、ロープとかを繋ぐ金具が付いている安全ベルトみたいなやつだ。
「これはなに?」
「商売道具のハーネスよ~。命綱を体に付けるための器具なの」
命綱?
「ひょっとして、怪盗ルパンみたいに金銀財宝を狙うのに使うのかい?」
「ブッブー。そんな仕事していたら、こんな部屋に住んでるはずがないでしょ」
「ハハハ」
……たしかにそうだな……。
「……そこ、シャワーあるから……」
「……」
ゴクリと唾を飲む。それだけ言って瑠奈はベッドに座った。
狭く薄汚れた台所の端に扉があり。前にはタオルや彼女の着替えが置いてある。
下着類や得体の知れないサニタリーも一緒に置いてあり、思いっきり見えているのだが……いいのだろうか。
女の子と二人っきりの空間で裸になることに抵抗を感じながら服を脱ぐと、浴槽のないシャワー室へと入った。勢いのない温いシャワーを浴びる間、僕の心臓はずっと高鳴りしたままだった。シャワーが顎から体を伝い落ちていくのが心地良い。
念入りに……。念入りに何度も何度も石鹸を付けて洗った。
体をタオルで拭いて出ると、さっきまで着ていた服を全部着る。
……どうせ脱ぐのに……着る必要なんてあるのだろうかと自分の行為に疑問を抱いてしまう――。
部屋の照明は落とされていた。ベッドに彼女の姿はなく、見ると床の上で服を着たまま静かに眠っていた……。
……。
「ああ、あああ」
思わず声が漏れるが、ピクリとも動かない。
なんなんだこれは――!
――いったい、どうなっているんだ、この世の中は――。寝てしまってどうする! 酔ったからって、先に眠ってどうする――! 男を部屋に呼んでおいて……これからもっと親交を深め合うんじゃなかったのか――?
先にシャワーを浴びさせておいて、その隙に寝てしまうなんて――。
どうしていいか分からずそこに座り込む。酔いのせいか視点がさだまらず、天井がグルグル回るように気持ちが悪い。
今日は飲み過ぎたな……。仕方がない、僕も……寝よう。
ふらつく足元に意識を集中し、ベッドへと彼女をそっと抱き上げて寝かせた。女の子って……思っていたよりも軽くて驚く。これが世に言う「お姫様抱っこ」てやつか。
本当は起きていて、狸寝入りをしているのだろうか……。ひょっとすると、パッと目が開いて抱きついてきて……いい感じにことが進むとか……。
せめて、キスくらいしてもいいだろうか……。
――いやダメだ。それは僕のプライドが許さない。ファーストキスが眠る女子とだなんて……男の美学に反する――!
野神先輩に……情けない奴だと笑われてしまう――。
いやいや、僕には明日がある。今日はお互いに酔い過ぎてしまったけれど、明日、目覚めてからゆっくり時間を掛けて二人の関係を深めていけばいいはずだ……。
焦ることはないんだ。時間はたっぷりある。
ああ、考え過ぎて……ぜんぜん……眠れな……い……。




