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「基己、そこでなにをしてる」
聞き覚えのある声に、琴音は顔を上げました。襖の隙間から漏れていた微かな光は、近づいていた男によって遮られています。
「……龍壬さん、ちょうどよかった。隊長の着替えとか用意しようと思ったんすけど、全然場所わかんなくて」
「お前をここに呼んだ覚えはねえんだがな」
龍壬の声は、冷静でしたが威圧を帯びていました。いつもパパとお酒飲んで、大笑いをしている龍壬とは思えません。緊迫した空気の中、基己と呼ばれた男は芝居がかったように大きなため息をつきました。
「あーあ、やっぱ龍壬さんには敵わないっすわ。お察しのとおり、狩りに来ました」
「お前の独断か? それとも――」
「独断っすよ。まあ、俺以外にも隊長を引き摺り下ろそうとしてる奴なんか、大勢いると思うっすけどねえ」
「……もういい。失せろ」
龍壬はこれ以上基己の顔を見ることも、声を聞くことも不快だとでも言うような声を発しました。
「はいはい、失礼します。でもまあ、ここで妖気を感じたのは確かっすから、隊長もあんたもただでは済まないっすよ」
不気味な笑い声をあげながら、基己はゆっくりとした足取りで部屋を出て行きました。龍壬は基己が家を出たのを確認すると、玄関の鍵を閉め、直ぐに琴音と静のいる押入れの襖を開けます。
「無事か?」
龍壬の顔を見た途端、安心から琴音の目からは涙が溢れ出しました。
「怖かったよお!」
琴音は押入れから這い出ると、涙と鼻水でめちゃくちゃな顔を龍壬の胸板に押し付けました。静はその様子を呆れたように眺めています。
「よしよし、よく頑張ったな。静も、お前のおかげで助かった」
琴音は涙を流しつつ、龍壬の台詞に疑問を抱いてずびずびと鼻を鳴らしながら問いました。
「静のおかげって?」
「あんたねえ。わたし、座敷童子よ? わたしがいるんだから、家内安全は保障するわよ」
「さすがに、いきなり駐車場から車ごとこの家の前にテレポートした時は驚いたがな。周りに人がいなくて助かった」
龍壬は苦笑しながら頬を掻きます。車ごとテレポートしてそれだけの反応で終えられるのですから、やはり龍壬も普通の人間ではありません。
「とにかく、早くここから離れましょう。ほら、あんたもいつまで泣いてんの」
「そうだな、説明は後でしてやる。今はここを離れよう。琴音、立てるか?」
龍壬は少しだけ落ち着いた琴音の顔を、洋服の袖で拭ってやりながら問い掛けました。わけがわからないものの、とにかく龍壬に従うことにした琴音は無言で頷きました。
龍壬の家は、車で五分ほどの所にあります。琴音と静は、必要な物だけをハンドバッグに詰め込み、家の裏口から出て、龍壬の車に乗り込みました。
「ねえ、パパは? パパは大丈夫なの?」
琴音は鼻をすすりながら、車を発進させた龍壬に問い掛けました。家は次第に後方へと遠く小さくなっていきます。
「詳しいことはまだわからない。急に胸を押さえて倒れ込んじまったんだ」
「結界破り」
ふいに、静が口を開きました。
「結界が破れた瞬間に、術の気配を感じたわ」
結界破りとは、複数の術者が結界に術を集中させて破るという遥か昔から存在する方法でした。結界を張るには媒体が必要であり、結界破りをされた場合、その媒体が直接的に損害を受けるのです。
「まさかパパ、自分自身を結界の媒体にしてたの!?」
結界の媒体に使うものは、念を封じ込めた物などが一般的でした。しかし、パパが自分自身を媒体に結界を張ったのなら、結界破りの損害を受けたのも納得ができます。
「ほら、あんたが勝手に家から出ようとすると、あの人、直ぐに飛んで来たでしょ。自身が媒体になると、結界の出入りを直接感じ取れるらしいの。大半は媒体を作るのが面倒だっただけだと思うけど」
「警戒心があるんだかねえんだか。あれだけちゃんとした媒体を作れと言ったのに」
複数の術者の術を受け止めたパパの心臓は、相当な負担が掛かったことでしょう。最悪の結末が琴音の脳裏を過りました。信じたくありませんでした。昨日まで夜のバラエティ番組を観て豪快に笑っていたパパが、まさか死ぬなんて、とても信じられませんでした。
「……辛いだろうが、助かったとしても心臓はもう正常には戻らないだろう。走ることも、長く歩くこともできなくなるかも知れない」
龍壬の言葉は、琴音に厳しい現実を突きつけました。静は俯いたままでなにも言いません。肩までの黒髪の間からは、血が滲むほど噛みしめられている下唇が見えました。
「どうしてパパがそんな目に遭わなくちゃいけないの?」
車は赤信号で停車しました。目の前の横断歩道を、お年寄りや母親と手を繋いで歩く子ども、外回りのサラリーマンという様々な人たちが渡って行きます。
そこには、その人たちにとって変わらない日常があるのに、まるで自分たちはそこから弾き出された存在のようで、とてつもなく遠く感じました。
「こうなったからには、お前に全部話さなくちゃならない。――が、ゆっくりお喋りしてる余裕もねえみたいだ」
龍壬は車のバックミラーに視線を向けていました。
信号が青になります。それが合図かのように、車はさっきまで日常があった横断歩道を物凄い勢いで踏みつけ、先頭車両を抜いて走り出しました。
「たたたた龍壬さん!?」
車の速度は物凄い勢いで上がっていきます。
六十――七十――八十――! 周りの景色が忙しなく流れていき、前を走る車を次々と抜いて行きました。その度、龍壬の行動を批判するかのようにクラクションが鳴ります。
しかし、一般車道を時速八十キロメートルで走行する当の龍壬の表情は、いつもとなんら変わっていませんでした。むしろ、そのクラクションに煽られるようにして車の速度を上げていきます。
琴音と静は、急発進した際に後ろへと身体を持っていかれ、そのまま後部座席の背にひっついていました。
「しつけえな」
そこでようやく、龍壬が忌々しげに表情を歪めて舌打ちをしました。後ろを見てみると、黒い車が二台、龍壬の車を追うように猛スピードで迫って来ています。
「琴音」
「は、はい!」
「見てのとおり、俺たちはお尋ね者だ。俺とお前のパパに限っては、捕まったら死刑になりかねない」
「パパと龍壬さん、なにしたの!?」
「仕事だ」
前々から怪しい仕事をしてるとは思っていたが、こんな命に関わるような危険な仕事だったとは思ってもいなかった。琴音はいつの頃か見たことがある、パパの背に描かれた刺青を思い出しました。あれを見た時から、堅気の人ではないと思っていたのです。
「まあ、ちょっと組織に盾突いちまったんだけどな」
そんな会話をしている間にも、龍壬はハンドルをぐるぐる回しています。その度に、琴音と静の身体は遠心力で左右に倒れました。
後ろからは、クラクションと共に衝突音も響き出します。思わず確認すると、追って来ていた黒い車一台が一般車両と衝突していました。あと一台は、それを避けるようにして追跡を再開します。
「ったく、ほんとにしつけえな」
龍壬は、「仕方ないか」と肩を竦めて車のどこかから紙切れを取り出しました。そして速度を少し落とし、窓を開けると、札のようなその紙切れをひらりと捨てました。琴音はその札を目で追います。
龍壬の手から離れて直ぐ、札からはむくむくと水が湧き出し、そのまま黒い車のフロントガラスに張り付きました。札から溢れる水によって視界を遮られた車は、ガードレールに接触して停車します。
車の中から人が二人びしょ濡れで下りてきたところから察するに、札から出た水の水圧は、黒い車のフロントガラスを突き破るほどのようでした。