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琴音は迫り来る恐怖に、ただ目をきつく閉じました。激しく揺れる水面と共に、ばしゃばしゃという水音が聞こえてきます。
「よく頑張りました」
その水のように透き通った声に、琴音は目を開きます。
目の前に広がった光景は、見覚えのある人物に水馬が前脚を上げ、襲い掛かる瞬間でした。しかし、その馬が襲い掛かるよりも早く、その人は行動していました。持っていた短刀を黒光りする鞘から抜き取り、水馬に斬り掛かったのです。
琴音はその俊敏な動きを、素人には到底できないだろうと、どこか客観的に眺めていました。死を覚悟した瞬間は、これほどまでに冷静になれるのかと自分で驚きます。
しかし、水馬がたちまち形状を崩し、溶けるようにただの液体へと姿を変えると、その途端、死への恐怖がぞわぞわと蘇ってくるのでした。
「これはなかなかの優れ物ですね。後日、開発部に礼をすることにしましょう」
その人はこの場に不釣合いなほど暢気な口調でこう言い、蛍光灯の明かりできらきらと輝く刀身を眺めました。
「時雨、さん」
時雨は笑顔で振り返ると、琴音の頭をそっと撫でました。その手の温もりは、琴音にまだ生きていることを教えてくれます。
――が、それも束の間。時雨の指先に力が籠り、琴音の頭はがしりと掴まれました。
「……琴ちゃん、僕は逃げろと言いませんでしたっけ。君は、ここで一体なにをしているんですか」
「ご、ごめんなさい!」
目が笑っていない笑顔を至近距離で向けられ、琴音は再び命の危機を感じました。青ざめた琴音の顔を見ると、時雨は「まあ、いいでしょう」とその手を放します。そして、振り返って琴音に術を放った龍壬を見据えました。
龍壬は無表情でこちらを眺めています。攻撃を仕掛けてくる気配はありません。
「間一髪だな……」
「わっ!」
ようやく辿り着いた薙斗はそう言うなり、琴音を荷物のように小脇に抱えました。水面が琴音の顔ぎりぎりの所まで迫ります。水面に映った少女は、情けない顔をしていました。
「薙斗くん、確保した隊員たちを地上の後方支援に引き渡してください。あと、琴ちゃんもお願いします」
「了解」
「ちょ、ちょっと! あたしはここに残る! 放して!」
頭上で勝手に話を進めないでほしい。琴音はじたばたと薙斗の腕の中で暴れました。
「お前がここに残ったって、足手まといになるだけだろうが!」
琴音はプラスチックの骨だけになって、本当の役目すらもはたせなくなってしまった扇子に目を落としました。確かにこれでは、時雨の役に立てそうにありません。
しかし、琴音はなにがあっても龍壬のそばから離れたくなかったのです。離れてはいけない気がしていました。
「琴音は俺に任せろ」
と、琴音の背後から乾の声が聞こえました。琴音の位置からでは乾の姿は見えないものの、ちょうど地下三階へと下りて来たようです。
「水道管の栓は閉じた。水嵩がこれ以上増すことはないだろう」
薙斗はそれを聞くと、渋々といった様子で琴音を解放します。
「パパ!」
琴音は薙斗の腕の中から抜け出すと、一目散に乾の方へ駆け出しました。見ると、乾の軍服はなにかで斬られたように所々破れています。しかも、胸や腕には赤黒いシミが付いていました。鉄の臭い――血でした。
「琴音、よく頑張ったな」
乾は琴音を、その大きな身体で抱きしめました。
「パパ、怪我してる」
「こんなもん掠り傷だ。なんともねえよ」
そう言って、乾はにっと明るく笑います。「もう、大丈夫だ」。乾の笑顔は、そう言い聞かせているようでした。
薙斗は隊員たちの指揮を担うことになりました。確保された隊員たちは、ぞろぞろと地上へ連れられて行きます。その間も、龍壬は仲間を助けようとするような動きを見せることはありませんでした。




