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と、廊下に繋がっている襖がすっと開けられ、涼香が座敷に入って来ます。涼香は父親の顔を覗き込む二人が目に入ると、ふふふと微笑みました。
「おはよう、涼香。パパの治療してくれてありがとう」
「どういたしまして。――随分顔色がよくなったわね。氷月さんの薬のおかげだわ」
琴音は自分の隣に移動して、同じように乾の顔を覗き込む涼香の横顔を見つめます。
昨夜、約百人分の夕食を作り、隊員たちの治療を一人でこなしていたにも関わらず、きちんと化粧までして身なりをしっかりと整えている涼香からは、不思議なことに疲労の気配が少しも感じられませんでした。
「乾さん、朝ですよ。お加減はいかがですか」
涼香は乾の肩に手を置いて、軽く揺さぶって乾を起こします。と、乾は「ふがっ」と間抜けないびきを最後にかき、薄く目を開けました。その目で涼香を確認した乾は、ため息をついて額に手を当てます。
「最高です」
美女に起こされて感無量だったらしく、その声とだらしなく鼻の下が伸びた表情からこの上ない喜びが伝わってきました。どうやら、娘二人が近くにいることに気づいていないようです。涼香は乾の顔を覗き込み、天使のように微笑みました。
「それはよかったです」
「でへでへと朝から気持ち悪いのよ、この変態」
乾の気持ち悪さに耐えかねた静は、暴言を吐きながら乾の枕を引き抜きます。乾の頭はがくんと敷布団に落ちました。
「お前ら、いたのかよ――ちょ、枕を顔に押し付けんな」
「いたのか、じゃないわよ。どれだけ心配したと思ってんの! ……琴音が!」
「あ、あたし?」
いやまあ、心配はしてたけども。突然巻き込まれた琴音は、なんだか納得いかないというような表情で乾と静を眺めます。
「うふふ、乾さんは幸せですね。お父さん想いの娘さんが二人もいて」
そんな三人のやりとりを見ていた涼香は、微笑ましげに笑ってこう言います。乾は静が押し当てている枕から顔を逸らし、涼香の方を向きました。
「ええ、こいつらは俺の命より大切な娘ですから」
乾のこの言葉は、琴音の胸をちくりと刺しました。自分が乾の命より大切な娘に相応しいか自信がなかったのです。
また、自分がやってきたことやこれからやろうとしていることが、乾の想いに反したことだと認識しているだけに、面と向かってそう言われてしまうと心苦しいのでした。
「朝から賑やかですね」
と、仏のように穏やかに微笑む時雨と、それとは対称的に不機嫌そうな目つきの薙斗が座敷にやってきました。
「時雨さん、おはようございます。パパが朝から涼香をいやらしい目で見ていたので、静が成敗したところです」
「そうでしたか。元師匠殿のために忠告しておきますが、うちの看護師は迂闊に手を出すとロケットランチャーを持ち出しますよ」
「手を出したこともないのによく言うわね」
「おや、出して欲しかったんですか」
「刺殺するわよ」
いつものように、涼香と時雨の間に冷たく鋭い空気が流れ出しました。涼香が簪を自分の髪から引き抜くと、艶めいた漆黒の髪が肩に流れます。
この時、時雨の言葉を冗談としか受け取っていなかった琴音は、なぜ時雨がいきなり「ロケットランチャー」という単語を持ち出したのか不思議でなりませんでした。
一方、乾には思い当りがあったらしく、はっとした表情を浮かべています。そして、簪を握る涼香の手に自分の手を添えました。
「ありがとう」
意識を失う直前、凄まじい爆音を聞いていた乾は、時雨の言葉で自分が涼香に救われたことに気づいたのでした。しかし、涼香は「さあ、なんのことでしょう」と首を傾げてすっと立ち上がります。
「お礼を言われるようなことはしていません。わたしは、仕事をしただけですから。――掃除に行ってきます」
そう言うなり、涼香は逃げ去るように時雨と薙斗の間を通って座敷を出て行ってしまいます。一連のやりとりをぽかんと眺めていた琴音でしたが、乾から礼を言われた時、涼香の表情が微かに暗くなったのを見逃していませんでした。




