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琴音と静が薙斗の車に乗って逃亡をはたした頃まで、やや時を戻しましょう。旅館の地下のとある一室。龍壬は隊長室として設えられたその部屋で、入隊手続に追われていました。
どこで嗅ぎつけて来るのか、毎日のように呆れるくらいの人数が入隊希望を出してくるのです。その入隊希望書に貼り付けられた写真の中には、見たことがある顔もありました。龍壬は見知った顔を見つける度、精神力が磨り減っていくのを感じていました。
と、隊長室の扉が激しく叩かれます。龍壬は力なく返事をしました。
「隊長! 化け狸と座敷童子が逃亡しました」
「……そうか」
「いかがいたしましょう」
「放って置け。どうせ、行き先は山中の屋敷だろうからな」
「屋敷へ向かった別働隊も未だ戻りません。出撃準備をしたほうがよいのでは」
放って置けといったのが聞こえなかったのだろうか。龍壬は頭を掻きむしりたい衝動に駆られるも、息をついて平常心をどうにか保ち、冷静に答えます。
「今はまだその時じゃない。下手に動くな」
「では、屋敷へ向かって帰って来ない別働隊はいかがなさるおつもりで?」
人質交換として捕らえていた琴音と静が逃げ出し、その材料を失った今、屋敷に捕らえられているであろう別働隊を解放する手立てはありません。
「あいつらにとっても大事な人質だ。簡単に殺したりはしねえだろ。今は、ここを手薄にするわけにはいかない。もう少し待て」
「……はっ」
あからさまに顔に不服そうな表情を浮かべた伝達役の隊員が去ると、龍壬は琴音の持っている端末に予め取りつけておいた発信機の居場所をパソコンで追いました。この発信機のおかげで、時雨の屋敷の場所を大方、特定することができたのです。
しかし、屋敷を覆うように張られている結界は、電波をも遮断しており、屋敷の正確な場所はわかりません。そこで、その確認も含め別働隊を動かし涼香というお抱えの看護師を人質にするべく誘拐させる計画だったものの、その別働隊が帰って来る様子はありませんでした。
別働隊は十人で編成された小部隊です。以前から写真のみで見知っていた涼香という看護師には直接会ったことがありませんでしたが、女一人でこの十人を捕縛できるとは思えません。
だとしたら、時雨が前もって対別働隊用部隊を要請したとしか考えられませんでした。
滅多に表に立たない時雨が部隊要請したということは、恐らく衝突は免れないだろう。そう思いつつも、馴染みの顔がいるであろう屋敷を攻めようとは思えませんでした。攻めた所で、敵うとも思っていなかったのです。
「地の利ではどうしても劣るからな」
ならば、ここで迎え撃つしかない。対別働隊用部隊を要請したということは、きっと時雨はここへ攻めにやって来る。――その時、琴音と静は、どうするのだろうか。
と、パソコンの横に置いてある電話が鳴りました。龍壬は全身に電流が走ったように感じます。地下でも繋がる電話に掛けてくる人間は一人しかいませんでした。龍壬は意を決して、その電話を取ります。
「はい」
「琴音と静が逃走したそうだな」
「……申し訳ありません、鎌利様」
開口一番、痛い所を突かれた龍壬は、謝ることしかできませんでした。
「なぜ、部隊を出さない」
「今はここを手薄にするわけにはいかないと判断致しました」
琴音と静を取り逃がしたこと、そして部隊を出さないという現状をこの短時間で把握しているということは、さしずめあの伝達役は俺のお目付け役か。龍壬は先ほど不服そうに出て行った伝達役の顔を思い出します。
「なら、こちらから部隊を出そう。あの方も時雨の力量を測りたいようだからな。それなら文句はないだろう」
電話の向こうの男は、龍壬に迷いがあることを察しているようでした。龍壬は舌打ちしたい気持ちを押さえて、口を開きます。
「願ってもない申し出です。しかし、契約は守って頂かなければ困ります」
「ああ。では、また連絡する」
電話の回線が切れると、龍壬は静かに受話器を戻しました。
「覚悟を、決めるか」
龍壬は自分の両手を見つめて呟きます。共存陰陽隊において、反逆罪は死刑。それでも、龍壬は後に引き返すつもりはありませんでした。
乾は怒るだろうな。
龍壬は目を吊り上げて怒鳴り散らす乾を想像して、苦笑を浮かべます。
――なにも失わないことは、全てを失うことだ。
かつて、自ら命を絶とうとした龍壬に、乾が放った言葉でした。
わかってる。だが、俺は全てを犠牲にしてでも守りたいものを見つけちまったんだ。時雨を殺すことでどんなに恨まれようが、どんなに蔑まれようが構わない。
「すまない、琴音」
こんな形で、お前を自由にさせるつもりじゃなかった。どうか……どうか、隠世に帰ってくれ。龍壬は祈るように目を瞑りました。




