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琴音は乾の背後に視線を移すと、出入口から誰かがこちらへ向かってくるのが見えました。月明かりに照らされ、白衣を羽織った男が現れます。男の手にはメスとなにかが入ったビニール袋が握られていました。
「氷月てめえ、俺の大事な端末を……」
美人看護師たちの連絡先が入った端末を失った乾は、心底悔しそうに片膝ついて端末を握りしめていました。それを静が宥めます。
氷月と呼ばれた男は、その名のごとく冷たく不思議な雰囲気を醸し出す男でした。氷月は眉間に皺を寄せて、憐憫や怒りが籠った表情で乾へと近づきます。琴音は咄嗟に乾の前に立ちはだかりました。
「パパを、つれて行かないでください」
氷月はなにも言わず、ただ琴音を見下ろしていました。なにを考えているのかわからないものの、琴音に対し敵意は抱いていないようです。
すると、氷月は急にメスを白衣のポケットにしまうと、琴音にずいっと顔を寄せてきました。
「涼香には会いましたか」
「えっ? あ、はい」
「あの子は、笑っていましたか」
「はい、まあ」
「そうですか」
氷月は眉間に皺は残しつつ満足げに頷くと、ご褒美と言わんばかりにメスの代わりにポケットから飴玉を二つ取り出して琴音の手に握らせました。そして、呆然としている琴音と項垂れている乾の横を通って傍観している薙斗の元へ行きます。
氷月は薙斗に近寄ると、持っていたビニール袋を手渡しました。
「あそこにいる馬鹿と君の上司の薬です。涼香に渡しておいてください」
「わかりました」
「それから、くれぐれもあの馬鹿を涼香には近づけないでください」
「は?」
「わかりましたね」
「はあ」
薙斗の返事を聞くと、氷月は踵を返して戻ってきました。その氷月に向かって、乾は声をかけます。
「龍壬に、なにか伝えることはねえのか」
「なにもありません」
「……そうかよ」
「睡眠薬を常備していつでも待っていますよ」
氷月は冷たくこう言い捨て、病院の中へ戻ってしまいました。
「パパ、あの人になにしたの」
「いや俺、男色の趣味ねえしあいつにはなにもしてねえよ」
「美人看護師には?」
静の問い掛けに、乾は答えません。
このおっさん、絶対手出してるな。
琴音と静は同時にため息をつきました。制裁を受けた乾の端末は、哀れな姿で地面に転がっています。
「俺もうだめかも。端末ないと生きられねえもん」
「予備の端末がありますから、とりあえず車に乗ってください」
薙斗にまで冷たく言い放たれた乾は、「この端末じゃなきゃ嫌だ」とはとても言えず、子どもたち二人に支えられて車へと乗り込むのでした。
乾を助手席に乗せて後部座席へと移動した琴音は、静に氷月からもらった飴玉を一つあげ、自分も飴玉を口に入れます。薬用シロップのような、甘い苺の味が口いっぱいに広がりました。
「気をつけろよ。その飴、睡眠薬入りかもしれねえぞ」
「市販の飴にどうやって睡眠薬入れるのよ」
馬鹿馬鹿しい、と静は琴音からもらった飴を口に放り投げます。
「出発しますよ」
薙斗は声を掛けると、車を天眼神社へと向けて出発させました。
「ああ、薙斗くん、遅くなっちまったが、娘たちを助けてくれて本当に助かった。ありがとう」
「いえ、任務を遂行しただけですから。――それより、今回の主犯である龍壬さんについてお聞きしたいことがあります」
「……ああ」
「動機に、心当たりはありますか」
車内には、重い空気が立ち込めていました。ミラー越しの乾の表情は、後部座席にいる子どもを気遣っているかのようです。
「パパ、龍壬さんの過去ならもう知ってるから。話して大丈夫だよ」
「時雨が自ら乗り込んで、龍壬本人に勘繰ったそうです」
「そうか――馬鹿なことを」
乾は自らの命を危険に晒してまで、龍壬本人に勘繰りを入れた時雨の行為を嘲笑していました。
「あいつはな、もうそんな過去なんざに振り回されるような男じゃねえよ。だが、脅されて簡単に従うような男でもない。脅されてんだとしたら、相手は相当な外道なんだろう。だが、龍壬を脅せるくらいの外道、俺にはさっぱり心当たりがねえんだ」
「そうですか」
「あいつにはいくらでも心当たりがありそうだけどな」
乾は時雨のことを言っているようでした。薙斗はそれに対しては答えず、補佐から見た上司の様子を伝えます。
「時雨は、龍壬さんの行動を警戒していました」
「警戒だあ? 自分から敵陣に突っ込んでってるくせにか」
「龍壬さんの行動が、不自然なほどわかりやすいと言っていました。そこで、時雨は敢えてそれに乗っかってみて真意を確かめようとした。そんなところでしょう」
「それで、真意はわかったのか?」
「時雨に銃口を向ける龍壬さんから、迷いが見られました。恐らく、桜月さんと過ごしたあの家で、そして大切な家族の目の前で殺すことを躊躇したんだと思います」
薙斗の読みどおり、龍壬は桜月と過ごした大切なあの家で、そして大切な琴音の目の前で時雨を殺すことにより、全てを捨てようとしていました。しかし時雨に勘繰りを入れられたことにより、大きな葛藤に苦しめられ、とどめを刺すことはできなかったのです。
「十中八九、龍壬さんはまだ本気で謀反を起こしているわけではないと思います。でなければ、あれほどわかりやすく自分が時雨を殺そうとしていることを知らせるようなこと、するはずがありませんから」
妖を無許可で保護していた場合、死刑になる。そんな特殊部隊総隊長補佐の龍壬がするはずもない勘違いを理由に、琴音に時雨を探させた時点で、自分が時雨の命を狙っているということを明示しているようなものです。
そして、貴重な人質である琴音と静を簡単に解放したという点でも、龍壬が本気で共存陰陽隊や家族を裏切ろうとしているとは思えません。
「龍壬さんのこと、助けるんでしょう?」
琴音は不安げ二人に問い掛けます。
「当たり前だ。会って、一発殴ってやらねえと気が済まねえからな。一人で全部抱え込みやがって、あの馬鹿野郎」
乾は自分が瀕死状態にさせられたことではなく、龍壬が一人で全てを抱え込んで苦しんでいることに怒りを覚えていました。また、それに気づけなかった自分自身にさえも腹が立っていたのです。
琴音自身も、自分の無力さを悔やみながら、小さくなった飴を噛み砕きます。飴は小さな破片となって、琴音の舌をちくちくと刺激しました。




