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 静の言うとおりでした。家族、家族と言ってきたものの、琴音はその家族についてはなに一つ知らなかったのです。理解しようともしませんでした。外に出たい、洋服が欲しい、そんな自分の欲をただ押しつけていただけ。


それでも、たとえ家族ごっこだったとしても、琴音にとっては本当の家族でした。一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、時には喧嘩をして、そんな当たり前なことを与えてくれた乾や龍壬や静は、かけがえのない家族だったのです。


 もう、本当に戻れないのだろうか。もう二度と、みんなで食事したり、他愛のない会話をしたり、お花見をすることもできないのだろうか。琴音は、頭を垂れて考えます。


「……ううん、まだわからないよ」


「え?」


「まだ、間に合うかも知れないでしょ? もし、龍壬さんやパパが捕まっても、あたし、待ってたい。あたしにとっては、みんな本当の家族だから――静、あたし、隠世には絶対戻らない」


 琴音は真っ直ぐと静の目を見返しました。静はしばらく黙って琴音の目を見つめていましたが、やがてふっと笑みを浮かべました。


「なにを言っても無駄みたいね。わかった。わたしはもうなにも言わない。でも、パパと龍壬さんの説得もしないから、自分でちゃんと言いなさいよ」


「うん。――静も残るの?」


「わたしはもう三十年以上こっちにいるのよ。隠世なんて世界、とっくに自分の中から抹消してるわ」


 つまり、残るだの戻るだのいう以前の問題だということのようです。確かに三十年も現世にいれば、隠世の存在は人間と同じような認識になっていくのかも知れません。


「じゃあ、そろそろ脱出しましょう。温泉に入れなかったのは悔しいけど」


「時雨さんのお屋敷に行けば、温泉じゃないけど露天風呂があるよ」


「気合い入れて脱出するわよ」


 二人は堂々と牢の出入り口から出て、椅子に掛けられた自分たちの荷物をそれぞれ持つと、部屋の奥にある地上へと繋がる階段を上ります。階段の一番上には、頑丈そうな扉が待ち構えていました。頂上に着いてから、ふと琴音は思います。


「龍壬さんも、連れ出せないかな」


「はあ? 無理に決まってんでしょ。あれだけ大規模の旅館を経営する組織であれば、恐らく後ろで支援してるのは他主義陰陽隊よ。ということは、ここで働いてる人間全員が他主義陰陽隊員なの。そんな中で龍壬さんだけ見つけ出して連れ出そうなんて、自殺行為に等しいわ」


 静の言っていることは正論でした。しかし、琴音は不服そうに唇をすぼめています。せめて、龍壬の口から真意を聞きたかったのです。妖を恨んではいないという、その一言が聞きたかったのです。


「あんたの気持ちはわかるわ。でも、今はここを脱出して時雨と合流することを優先して」


「……わかった」


 渋々了承した琴音を確認すると、静はそっと扉の取っ手に手を掛けます。慎重すぎるくらいゆっくりと取っ手を下げ、重たい扉を少しだけ開きました。琴音は静の頭の上から辺りを窺います。と、視界に入ったのは室内の光景ではなく、屋外の日本庭園でした。


 静は辺りに人がいないことを確認すると、琴音の手を取り一気に扉を開いて外へと飛び出ます。そして、近くの椿の植木の後ろへと身を隠しました。先ほど自分たちが出てきた所を確認すると、ちょっとした離れのような外見をした木造の建物がありました。


一見すると、物置のようにも見え、とてもその先が地下牢になっているとは思えません。


 日本庭園と言えど、それほど広いわけではありませんでした。二人が隠れている椿の植木の向かい約三メートル先には、旅館の廊下が見えます。廊下では絶え間なく仲居たちが動き回り、時折一般人も往来していました。


「出口はあそこしかないわ」


 琴音は出口を示す静の指を辿ります。静の指は、旅館の入口の方を差していました。よく見ると、旅館の入口を通り過ぎた更に向こう側には手すりのようなものが見えます。


「旅館の玄関前を通って、あの階段を下るしかないのよ」


 どうやら、ここは高い場所に立地しているようでした。しかも、出入りする道はあの階段だけ。なんてお年寄りと脱走者に不便な旅館なのでしょうか。


 と、旅館の裏口から出てきたらしい二人の仲居が、お膳に料理を乗せてやってきます。料理を持って日本庭園へやって来るなど、普通ではありません。仲居二人は、琴音たちのすぐ前を通り旅館の廊下から見えない所に立地している物置の、地下牢へと続く扉を開きました。


「まずいわね、脱走したことがばれるわ。琴音、さっきの仲居のどっちかに化けられる?」


「顔だけなら……」


 琴音は地下へと下って行く、二十代の若い仲居の後ろ姿を見ながら、先ほど見えた顔を思い出します。大きな目に、八の字眉が印象的で、おっとりとした雰囲気の女でした。琴音は目を瞑って、仲居の顔を思い浮かべると、自分の顔に意識を集中させます。


「――上出来よ。仲間の顔でいた方が、少しは誤魔化せるでしょ。さあ、行きましょう」


 静は顔を変えた琴音の手を取って、日本庭園の木陰を伝って階段を目指しました。階段が近くなると、静は小声でこう言います。


「いい? ここから先、親子って感じで自然に演技しなさいよ」


「えぇ、あたしが静の親?」


「わたしにあんたみたいな大きい子どもがいるとでも?」


「……いいえ。思えません」


 琴音はため息をつくと、静の手を取って自然に木陰から出て行きました。旅館の玄関は、階段からの道なりに吊るされた提灯で照らされ、温かい明かりに包まれています。そんな玄関には、年配の方や外国人観光客が続々と詰めかけていました。


これ幸いと、琴音と静は観光客の後ろを通って足早に階段へと向かいます。


「ゆいこ?」


 と、静が階段を一段下りた所で、琴音を背後から呼び止める声がありました。琴音は静を自分の身体で隠しながら振り返ります。日本庭園の方からわざわざ追いかけて来たのは、琴音が化けている仲居と同年代くらいの私服の男でした。


「あれ、もう上がりだったっけか?」


 どうやら旅館の職員のようです。まずい。琴音の背中に、嫌な汗が流れました。静は琴音の背後で息を潜めています。男はゆいこという仲居が、この時間帯に帰宅することを不審がっているようでした。


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