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時雨は洗面所の扉の前で足を止めると、ゆっくりとした動きで扉を開きます。琴音の目には、まず大きな鏡が目に飛び込んできました。
隣には洗濯機が置かれており、洗面台には歯ブラシに歯磨き粉という必要なもののみが置かれ、相変わらず髪の毛一本すら落ちていません。
「ここが洗面所です。真っ直ぐだし居間が近くだから覚えやすいでしょう」
「はい」
そういえば、昨日薙斗が玄関から居間に向かいながら逐一部屋の案内をしてくれていたな。琴音はまだ完全に覚えられていないことが薙斗に知られたら、さぞ罵られるだろうと想像して勝手に腹を立てました。
「はい、歯ブラシとタオルはこれを使ってください――どうかしましたか?」
知らぬうちに苛立ちが顔に出ていたらしい。琴音は慌てて首を横に振って笑顔を向けて新しい歯ブラシとタオルを受け取りました。
「君はわかりやすいですね。薙斗くんのことでも考えていたんでしょう」
やはり、この屋敷の人間はみんな人の顔色を読むことに長けているようでした。琴音は観念して考えていたことを話します。
「屋敷の場所、ここら辺は昨日のうちに薙斗にあらかた教えてもらってたんですけど、未だに覚えきれてなくて。そんなこと知られたら、また『馬鹿狸』って罵られるだろうなって思ってました」
そう言ってから、琴音は違和感に気づきました。確か、薙斗には自分が化け狸だとは伝えていないはず。それなのにどうして薙斗は狸だと知っていたのだろう。
「化け狸の琴音。陰陽隊員の中で知らない人間はいませんよ」
琴音は自分がそれほどまでに有名であったことよりも、時雨の察する能力の高さに驚きを隠せませんでした。
「時雨さん、人の心が読めるんですか」
「君の顔がわかりやすいんですよ。それじゃ、僕は外で待ってますから」
時雨はそう言って洗面所から出て行きました。
琴音は顔を洗い、歯を磨きながら先ほどの時雨の言葉を思い返します。
あたしのことを陰陽隊員の中で知らない人間はいない。陰陽隊……確か、パパと龍壬さんが所属してる組織だ。それなら、パパは出会った時からあたしが清才様に仕えていた化け狸だと知っていたのだろか。
知っていて、元弟子である清才の子孫の時雨さんの存在を隠していた? そうだとしたら、どうしてそうまでしてあたしと時雨さんを引き離したかったのだろう。――駆け落ちしてしまうとでも思ったのだろうか。
「……ないない」
琴音は口に溜った歯磨き粉を吐き出します。琴音は清才に関しても抱いている感情は、恋慕ではなく敬愛だと自信を持って言うことができました。たとえ清才の子孫であったとしても、それが変わることはない。
パパがもしかしたらこんなことで悩んでいたかも知れないと考えると、自然と苦笑が浮かびます。
「なにがないんですか?」
声に顔を上げると、鏡に時雨の姿が映っていました。琴音は口に含んでいた水を慌てて吐き出してタオルで口を拭きます。
「いいえ、なんでも」
「朝食の用意ができたみたいですよ」
「今行きます」
琴音は歯ブラシとタオルを洗面台の隅に置いて、洗面所を出ました。
時雨と一緒に居間へ向かうと、既にテーブルの上には湯気が立った朝食が用意されていました。
「涼香さん、お嫁さんに欲しいですね」
人間ではないものの、生物学上同じ女であるはずなのに、ここまで女子力の高さに差が出るものか。琴音はパパや龍壬がいなければ、規則正しい食事を摂ることさえ億劫に感じる自分に酷く落胆していました。
「いつでもどうぞ」
時雨が席につきながらこう言うと、どこからともなくなにかが時雨の頭めがけて飛んできました。時雨は頭を引いて避け、飛んできたそれを掴み取ります。
あまりに一瞬のことでなにが起きたのかわからない琴音は、その場に立ち尽くしました。時雨の手には、先端が鋭利な棒が握られています。反対の先端には、可愛らしい桜色のトンボ玉が刺さっていました。
「ごめんなさいね、そっちにわたしの簪が飛んでいったでしょう」
と、お茶が入った湯呑を盆に乗せ、涼香がにこやかに居間に入って来ました。
「君の簪は、いつも僕の頭を狙って飛んできますね」
「そうね、今度は心臓をしっかり狙うわ」
時雨は何事もなかったかのように簪を涼香に手渡し、涼香も当たり前のようにそれを受け取りました。
「すみませんね、うちではこういうのが日常茶飯事なので、気にしないでください」
帰りたい。琴音は心の底からそう思いました。
「さあ、琴音ちゃんはこっちにどうぞ」
涼香に時雨の向かいの席を勧められ、琴音は言われるがままその席に腰を下ろします。琴音と時雨の前には、昨晩と同様に和風ハンバーグに白米が並べられていましたが、一品だけ小松菜のお浸しが肉じゃがに変わっていました。
「今って、葉物がどこも高いのよね。琴音ちゃん、肉じゃがは好き? これ、昨日琴音ちゃんが寝た後に作ったからきっと味は染みてると思うわ」
「うん、好き。ありがとう」
「そう、よかった。――それじゃあ、わたしは家事に戻るわね」
涼香はもう既に食べ終えたのか、琴音と時雨の朝食の支度を終えると居間から出て行ってしまいました。
「大丈夫ですか」
やはり、時雨は琴音の表情を読み取っていました。
「肉じゃが、パパが好きだったんです」
琴音はいただきます、と手を合わせると肉じゃがを口いっぱいに頬張りました。甘めの味付け。味までパパの好みです。
「あたし、パパと離れ離れになる前、喧嘩したんです。だから、どうしても仲直りしたくて、パパが好きな肉じゃが、作ってあげようと思ってたんです。パパ、肉じゃが食べるとご機嫌になるから」
「子どもらしいお父さんなんですね」
琴音は目を潤ませながら、次々と料理を頬張ります。
甘めだったはずの肉じゃがは、いつの間にかしょっぱくなっていました。




