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誰かが来る。一人のようでした。琴音は慌てて隠れられそうな場所を探し、拝殿の裏に身を潜めます。
「着いたぞ――そうだな、少し探ってみる――ああ、わかった。じゃあな」
階段を上って来たのは男でした。端末で誰かと連絡を取っていたようです。
しかし、その男の台詞を最後に、辺りはしんと静まり返りました。足音も、人の息遣いも聞こえてきません。
もしかして、もうどっかに行ったのかな。琴音はそっと拝殿の裏から顔を出してみました。
「――!」
琴音は声にならない悲鳴をあげました。そして、直ぐさま顔を引っ込めます。
男は拝殿の前に立って真っ直ぐこちらを見ていたのです。ばっちり目が合ってしまいました。見るものを射抜くような、鋭い目つきでした。歳は二十代の若い男。とにかく目つきの悪い男でした。
殺される! そう思った琴音はこの場から去ろうとしました。しかし、恐怖のあまりうまく立ち上がれません。諦めて、咄嗟に死んだふりをしてみました。足音が数歩、こちらに近づいてきます。
あたしはさっきのショックで心臓が止まって死にました。あたしは死んでいます。死んでいます。
胸を押さえて倒れ、心の中で唱え続けます。しかし、それ以上向こうからの反応はありませんでした。気配も感じません。
たっぷり三分はそうしていました。それから、やはりさっきのは見間違いだったのではないかと思い始めます。
今度こそもう帰ったのかも知れない。琴音は目を開けて、上半身をゆっくり起こしました。そして、もう一度、慎重に顔を出して様子を窺います。男はいませんでした。
よかったあ。と、胸を撫で下ろします。
でも、ここにはあまり長居できないかも知れない。やっぱり大葉城址公園まで戻るか――
「おい」
低い声は上から降ってきました。反射的に上を見上げると、そこには、あの男の顔がありました。拝殿の屋根の上から、こちらを覗き込むようにして見ています。
「ひっ……ひいいいいい!」
琴音は我ながら情けない声が出てしまったと思いながら、走り出していました。
とにかく神社から出る為に石段を目指します。
しかし、後ろから追いかけて来る足音がしたかと思うと、琴音の身体は次の瞬間にはもう地面に捻じ伏せられていました。
「確保」
感情の籠らない男の声が聞こえます。
「放して! 誰かー! ……痛い痛い痛い痛い! 腕もげる! もげちゃう!」
琴音が暴れると、男は琴音の腕を更に捩じ上げました。もう、自分が今どんな体勢になっているのかすらわかりません。術を解いて狸の姿に戻ろうにも、上に乗られているため戻ったら潰されるのは目に見えていました。
「暴れるな。悪いようにはしない」
「もうされてます!」
琴音の非難もまともに聞かず、男はかちゃかちゃとなにかを取り出して琴音の手首に装着させました。硬くて冷たい感触から、手錠だとわかります。男は琴音に手錠を掛け、拝殿の階段に座らせると「直ぐ戻る」と言ってどこかへ行ってしまいました。
日は完全に落ち、拝殿の近くに設置された街灯だけが視界を確保するための役目をはたしています。その街灯の光の下、琴音は不満げに頬を膨らませていました。
「おかしい……戻れない」
本当なら、こんな手錠など元の姿になればいとも簡単に抜けるはずでした。それなのに、さっきからどんなに戻ろうとしても戻れません。更に不運なことに、さっき男に捻じ伏せられた時に足を捻ったらしく、左足がじんじんと痛んでいました。
これでは遠くに行けません。琴音は諦めてこの場に留まることにしました。悪いようにはしないって言ってたし、きっと大丈夫だろうと自分に言い聞かせて気分を落ち着けます。
「……はあ」
絵本であったなら、不思議な生物と楽しく遊ぶはずだったのに。石段を上って本当に直ぐ戻ってきた男を見て、不満そうにため息をつきました。
「不満そうだな」
街灯に照らされた男は、無表情でこちらを見つめていました。琴音はふん、と顔を背けます。
「足出せ」
「は? ちょっ、痛いっ」
男は問答無用で、琴音が捻った左足を掴みました。靴を脱がせると腫れた部分を確かめ、いつの間にか手にしていた包帯で足を固定し始めます。
琴音ははっと男の顔を見つめました。清才と出会った時のことを思い出したのです。
「……清才様?」
琴音が問い掛けるも、男はちらりと琴音を見ただけで直ぐには答えませんでした。足を固定し終えると、包帯を服のポケットに入れて琴音を立たせます。
「残念だが別人だ」
そう言うと、男は踵を返して神主の家だと思っていた小さい一軒家へ向かいました。
そうだ。清才様がこの時代で生きてるはずがない。清才様の生まれ変わりであったとしても、あの方とあの人は似ても似つかない。琴音は心底がっかりと肩を落とし、家の鍵を開ける男の背を見つめました。
「なにしてる」
鍵を開けた男は、振り返って訝しげに琴音を見つめました。
「はい?」
「早く来い」
この人はなにを言ってるんだろう。琴音には状況が把握できませんでした。
というか、そもそも見知らぬ男の家に転がり込むほど、あたしのお尻は軽くないんですけど。琴音は男から少し距離を取りました。
「パパから、知らない人について行ったらいけないと言われていますから」
「別にとって食うわけじゃねえよ。少し話を聞くだけだ」
「名前くらい教えてください」
「……寺井だ。寺井薙斗。これで文句ないだろ」
男は面倒そうに後ろ頭を掻いてそう名乗りました。
琴音は、寺井という苗字に聞き覚えがありました。必死になってどこで聞いたのか思い出します。
「寺井……寺井……寺井……あっ、寺井先生! もしかして、緑旺高校の先生?」
「……なんで知ってる」
薙斗はすっと目を細め、琴音を睨み付けました。琴音は身の危険を感じ、慌てて先ほど買って来たコンビニの袋を見せました。
「さっき、緑旺高校の向かいのコンビニに行ったんです。その時に偶然、緑旺高校の子たちが寺井先生のこと話してるの聞いて――本当ですよ、レシート見ます?」
「いや、いい」
「あ、安心して。寺井先生のことかっこいいって言ってたから。悪口じゃなかったから」
「どうでもいいから早く来い」
薙斗の声は苛立ちを帯びていました。ここで逃げた所で、また直ぐに追いつかれて捻じ伏せられるだけでしょう。琴音は観念して家に上がることにしました。
薙斗が照明を点けると、現れたのは十畳ほどの和室でした。一人暮らしをするのにちょうどいいくらいの広さです。部屋はこの十畳の和室が一間だけでした。
しかし、そこは家具が全く置かれていない、生活感の欠片も感じられない味気ない空間でした。あるのは、冷蔵庫とテレビのみ。最低限の生活ができる環境が整えられているだけです。
「適当に座れ」
そう言われて、琴音は部屋の真ん中に腰を下ろしました。座布団はありませんでしたが、地面よりずっと座り心地はいいものでした。薙斗はその向かいに胡坐をかいて座ります。
「これから問う質問に対し、簡潔かつ素直に答えろ」
「……答えなかったら? ――嘘です、ごめんなさい。だから睨まないで」
琴音の挑戦的な台詞を聞くと、薙斗はまたじろりと睨みました。まったく人相の悪い教師もいたもんだ。この男のどこがいいのか。琴音は女子高生の目を疑いたくなりました。
「いいか、俺もできれば手荒な真似はしたくない。簡潔に、『はい』か『いいえ』で答えろ。いいな」
「……はい」
まあ、手当してくれたし悪い人ではないのだろう。琴音はこれ以上痛い目に遭わないよう大人しくすることにしました。




