第53話 ムーの合図
開店前の見回りで、美帆が棚の前にしゃがむと、ムーが静かに近づいてきた。
白とキジの毛をした、少しおとなしい子だ。
リリーたちと一緒に保護された八匹家族の一匹。家族の中で、よしおとムーだけはずっと人と距離を置いてきた。手を伸ばせば身を引き、しつこくすればシャーと鳴く。前足が飛んでくることもあった。美帆も、遠くから様子を見るだけの子たちだと思っていた。
そのムーが、美帆の膝のすぐ前で足を止めた。じっとこちらを見上げてから、ぐい、と額を美帆の手に押しつけてくる。
「え……」
思わず固まった美帆の手に、ムーはもう一度、頭をこすりつけた。撫でろ、と言っているようだった。
そっと指を動かして、額から耳の後ろへ撫でてみる。ムーは目を細め、さらに頭を押しつけてきた。
「紬さん、ムーが……」
振り返ると、紬も手を止めて、こちらを見ていた。めったに驚いた顔をしない紬が、少し目を丸くしている。
「本当ですね。この数日、私のところにも来るんです。急に、別の子みたいになりました」
ムーはひとしきり撫でられると、満足したように棚へ戻っていった。
「どうして、急に変わったんでしょう」
「はっきりした理由は分かりません。年を重ねて落ち着いたのかもしれないし、ここが安全な場所だと、やっと心から思えたのかもしれません」
紬はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「ただ、猫の性格が急に変わったときは、体の具合が関係していることもあるんです。どこか痛いところがあったり、病気で甘えるようになったりする子もいます。だから念のため、ごはんの食べ方や、トイレの様子、歩き方を、しばらく気をつけて見ておきましょう」
それから数日、美帆はいつもより丁寧にムーを見ていた。ごはんはいつも通りきれいに食べる。トイレの様子も変わらない。棚へ跳び上がる足取りも軽い。
治療師にも診てもらったが、どこにも悪いところは見つからなかった。
「体は元気です。気持ちの方が、変わったんでしょうね」
治療師の言葉に、美帆はほっと息を吐いた。
ムーは、すっかり変わったわけではなかった。急に立ち上がったり、大きな音がしたりすると、今でもさっと身を引く。知らない客が上から手を伸ばせば、するりと逃げていく。それでも、シャーと鳴くことも、前足を出すこともなくなった。
そして、大丈夫だと思えたときだけ、自分から近づいてきて、頭を寄せてくる。
「頭をこすりつけてくるのは、猫にとって、仲間だと思った相手にだけする挨拶なんです。顔のまわりから出る自分の匂いを、相手につけているんですよ」
「じゃあ、ムーは私のこと、仲間だと思ってくれてるんですか」
「そうだと思います。だから、撫でるのは頭や頬のあたりにして、ムーが離れていったら、追いかけないであげてください。ムーが決めたことを守ってあげると、また来てくれます」
昼過ぎ、常連客の一人が猫の部屋で腰を下ろすと、ムーがその足元へ近づいていった。客は驚いて、手を宙に浮かせたまま美帆を見た。
「この子、触って大丈夫なんですか。前は、近づくだけで逃げられたのに」
「今は大丈夫です。頭を寄せてきたら、額のあたりを撫でてあげてください」
客がおそるおそる額を撫でると、ムーは目を細めて、しばらくその手に頭を預けていた。
「何度も通っているのに、初めて触れました」
客の嬉しそうな声に、美帆まで胸が温かくなった。
ふと見ると、キャットタワーの上ではジョーとベスが、客のいる部屋でも気にする様子なく、のびのびと寝転んでいた。少し前までは、人がいる間はなかなか降りてこなかった二匹だ。この店の猫たちは、それぞれのペースで、少しずつ変わっていく。
夕方、美帆は記録帳のムーの欄に書き足した。「自分から頭を寄せてくる。撫でると目を細める。急な音には、まだ少し身を引く」。
これまで、ムーの欄は空白が多かった。近づけない子のことは、遠くから見えたことしか書けなかったからだ。今日、その欄に、初めて自分の手で触れたことを書いた。
「性格って、こんなふうに変わることもあるんですね」
「ええ。何年たっても、猫は変わります。だから毎日見ていると、面白いんです」
紬の返事はいつも通り短かったが、その声は、いつもより少しだけ弾んでいた。
閉店後、明かりを落とす前に棚を見ると、ムーがこちらを向いて座っていた。美帆がしゃがむと、ゆっくり近づいてきて、また額を押しつけてくる。
「おやすみ、ムー」
美帆はその小さな頭を、そっと撫でた。




