14 先代を知る老人
バルナバーシュが戻って来ると、エリザベータとミルシュカは机いっぱいに広げられた地図を覗き込んだ。
馬車で見せてもらった地図とは違い、高低差も記載されている。これでもロビニエ王国の南東部だけというのだから驚きだ。
「これが僕たち」と言って、バルナバーシュは木製の駒を右端に描かれた集落に置いた。
そこから西へ、西へ、スターリッヒ王国へ続く道を指でなぞっていく。そのまま地図の左端から飛び出したところに、2つの駒を置いた。
「こっちが敵軍と第三騎士団。両軍は現在大きな川を挟んで睨み合っているよ」
スターリッヒ王国は続々と増援を出しており、ソレイユ王国へ攻め込む準備をしているという。
第三騎士団は南部の軍の勢いを抑えるために防衛戦を強いられている。自国領でも敵国領でもないこの地域で強引な取り立てをするわけにもいかず、行商たちポセルボフ商会が物資の確保に奔走している。
「とにかく輸送ルートが伸びすぎているんだ。ロビニエ王国が中立を保ってくれているうちに、早急にハロスト砦まで後退してもらいたいね」バルナバーシュは不満げに溜め息を吐いた。「さぁ二人とも、いいかい?」
彼の指が来た道を戻り、水辺の近くでくるりと円を描く。
「ここの野営地が、君たちの戦場だよ」
「私たちの戦場……いいわね。《月の巫女》として力を尽くすわ」
「私も協力するけれど、休憩はちゃんと取るんだよ」
「ええ。もちろんよ」
「うん、気合いは十分なようだね」
バルナバーシュは満足そうに笑った。
* * *
気になる点をバルナバーシュに質問していると、部屋の外が騒がしくなった。
賑やかな声と共に、勢いよく扉が開かれる。
「やっ! みんなおまたせ〜!」
「ヤロミール!?」
現れたのは首にタオルをかけたヤロミールだった。いつもふわふわな髪は湿っていて、服装も変わっている。彼の後ろには金髪の行商たちが集まっていた。
「どうしてまた濡れているの……」
ミルシュカがいつもの人見知りを発揮して、エリザベータの背後に回り、呆れた声を漏らした。
「えへへ。動物たちと外でいっぱい遊んで〜。川で洗ってここに戻ってきたら〜。ずぶ濡れのまま入るなって注意されて――」
「うおーー!! 本物だーー!」
廊下から唸るような歓声が上がった。《月の巫女》を目の当たりにして興奮したのか、行商たちは今にもヤロミールを押し退けて入ってきそうだ。
エリザベータは思わず後退った。
「ここには近づかないようにと通達を出しただろ!」
バルナバーシュがヤロミールの肩越しに彼らを叱責する。
「にいさ……バルナバーシュ、そんなに怒らないであげて。このおじいちゃんが、どうしても巫女様に会いたいって言うから、俺が連れて来ちゃったんだ」
ヤロミールに支えられて白髪の老人が部屋に入ってきた。エリザベータに気付くと深く腰を曲げて手を合わせ、地鳴りのような声でぼそぼそと呟きはじめる。
「ひっ、何? 怖いよこの人……」
怯えたミルシュカに腕を強く掴まれたエリザベータも、この老人が何と言っているのかわからず首を傾げるしかない。
「じいさんだけが巫女様に会えるのは不公平だ!」
「そうだそうだ!」
「はぁー……そんな理由で商人が命令を無視しないでくれ! さあ、早く戻った戻った!」
何度注意してもこの場から離れようとしない彼らに、バルナバーシュが苛立ちはじめる。
このままではいけない。《月の巫女》としてこの場を収めなければ。
エリザベータが覚悟を決めて一歩踏み出したその時、人込みの奥からよく通る低い声がした。
「見世物じゃねーぞテメェら!! さっさと持ち場に戻らねーと減給だ!!」
その声を聞いた見物人たちは、顔を青くして散り散りに去っていった。廊下に残ったのは一人だけ――バルナバーシュがその精悍な男に抗議する。
「支部長、困りますよ!」
「弁解の余地もない! 奴らには厳しく言っておきます! 坊っちゃん。それで、そちらの方が……」
「ええ。月の巫女様です」
支部長と呼ばれた男は大股でこちらに近づいてくると、エリザベータに深々と頭を下げた。
「部下の非礼をお詫びします。誠に申し訳ございません!」
「あ、頭を上げてください。こちらも随分勝手をしたようなので……ご迷惑をおかけしました」
ヤロミールを横目で見れば、呟く老人の側にしゃがみ込んで子犬のように目を潤ませている。
「おじいちゃんの話を聞いたら、俺、ねえさんが喜ぶかなぁと思ってさ……」
「話?」
「ああ、その者は先代の月の巫女様がご存命中にザペス支部に所属しておりました。実際にお会いしたこともあるそうですよ。確かに巫女様にとって有意義な話が聞けるかもしれませんが、歳のせいか物忘れと思い込みが激しくなっておりますので、どこまで信じてよいものか……申し訳ありません! 私も仕事が押しておりますので、これで失礼致します!」
支部長は捲し立てるようにそう言うと、もう一度深くお辞儀をして足早に去っていった。怖い人かと思えば、意外と礼儀正しい人だった。
それにしても、このおじいさんが……
先代は、おばば様が若い頃に亡くなったと聞いている。このおじいさんが当時森の村に来ていたとしたら、おばば様よりも年上かもしれない。
ゾルターンは幼少期に行商に引き取られたから記憶にないというし、行商から見た印象にはとても興味がある。
「おじいさん。先代の月の巫女様のお話を聞かせてくれませんか?」
近寄って問いかけるが、反応はない。けれど老人の呟きを聞き取ることはできた。
「ありがたやありがたや――」
「おじいさん! 先代の月の巫女様のお話を、聞かせてください!」
「ありがたやありがたや――」
「月の! 巫女様の! お話を!」
「えーえー覚えていますとも!」
突然老人は背筋を伸ばし、はきはきと話しはじめた。
「夜の宴。皆と踊る貴女様の美しさときたら、まさに空に輝く月のようでございました! 私のような行商の半端者にも優しく接してくださり、悩みまで聞いていただいた。貴女様から賜った心強いお言葉。片時も忘れたことなどございません!」
どうやら銀髪を見て先代と勘違いしているようだ。過去の記憶がはっきりしているうちに話を聞いておきたい。
「月の巫女様は、何とおっしゃったのですか?」
「それはもう慈愛に満ちた笑顔で…………えー……あー? 《土の加護》しか持たない私に、巫女様は…………あー?」
せっかく真っ直ぐに伸びた背中が、みるみると曲がっていく。
「おじいさん?」
「あー巫女様は……おかわりなく、澄んだ湖のような目をしていらっしゃいますなぁ……お世話係のあの子たちは、今日はいないのですか? ……土は良いです……孫は目に入れても痛くありませんなぁ」
老人は断片的で脈絡のないことを語りはじめた。残念だが、この調子では先代の話はまともに聞けないだろう。けれど老人はとても楽しそうに笑っている。エリザベータもその姿を笑顔で見守った。
「――まさかこの命が尽きる前に、もう一度巫女様とお会いできるとは……この老いぼれ、もう何も思い残すことはありません」
「そんなこと言わず、もっと長生きしてください。あなたに月の祝福を……」
エリザベータは老人の両手を優しく握り、祈りを込めた。銀色の光が老人の全身を包み込む。
「おおぉ……お懐かしい。癒やしの……光……月神の……」
老人の目からボロボロと涙が溢れた。
「ああ……皆のように《風の加護》があれば、噂話や秘密の話を逃さず聞けただろう。《土の加護》だけでは商人として役に立つことはできない。そう不貞腐れる私に、『ないものを望むより、あるものを誇れ』と、そして『悔いのないように生きよう』と励ましてくださった。今日まで私が胸を張って生きて来られたのも、貴女様のおかげです。ありがとうございます。ありがとうございます……」
老人は淀みなく語ると、清々しい表情で去っていった。
『ないものを望むより、あるものを誇れ』、『悔いのないように生きよう』……か。
おばば様もそうやって、先代の月の巫女様に励まされたのかしら。
先代が病床に伏して以来、マグ族は農作物の不作や獣害、病やけがにも《月の加護》に頼らずに対処しなければならなかった。
行商の協力のもと、様々な作物の種苗を試し、肥料を試し、森の野犬を手懐けて猟犬として育て、薬草の栽培にも力を入れてきた。
《月の巫女》の儀式は《星の巫女》が代役を務めた。
《月の加護》を得られなくても、古から月神の恩恵を受けてきたマグ族として、月に感謝の祈りと舞を捧げ続けた。
おばば様たちが頑張ってくれたおかげで、私は伝統を引き継ぐことができた。――だから私は、みんなを守るために力を尽くします。
エリザベータは胸の前で両手を組んだ。
「話が聞けてよかったね! ねえさん!」
「ええ……」
「連れてきてよかったでしょ? ねぇねぇ」
「ええ、そうね。ありがとう」
目を輝かせたヤロミールが撫でて欲しそうに頭を寄せてくる。こういうところは身体が大きくなっても変わらない。
エリザベータは湿ったままの髪にタオルを被せて、わしゃわしゃと優しく撫でてあげた。
「えっへっへ〜」
「えへへ、じゃない。迷惑をかけたのだから少しは反省しなさい!」
口では厳しく言いながらも、ミルシュカは《水神の力》を使ってヤロミールの湿った髪をあっという間に乾かした。
「えへへ。ミルシュカ、ありがとう!」
真正面から感謝を伝えられた彼女は、ヤロミールから顔をそらしたが、
「……うん」
と小さく返事をした。ヤロミールに見せないように口元を綻ばせている。
少しは打ち解けたようだ。この調子で森の村の皆とも交流を深めて欲しい。きっとすぐに馴染めるはずだ。
ミルシュカはとても優しい子だから。
ゾルターンとイゴルが戻ってくるまでの間、エリザベータたちは今後のことを話し合った。




