かつての婚約者の罵倒
心の準備も何もあったものではない。
扉が開くと同時に、一組の母娘が雪崩れ込んできた。
「リュクシーヌ……」
久しぶりに見たその美しさに、俺はつい見惚れてしまった。
指通りの良さそうな金白色の髪。
蒼く深く、大きな瞳。
陶磁器のような滑らかで白い肌。
控えめな身長に、均整の取れた体つき。
そんな彼女を、上品な絹のドレスが包んでいる。
会わなかった期間が長かったが、その間美しさにはさらに磨きが掛かっていた。
俺の心は奪われ、彼女がこの部屋へ何をしに来たのか一寸忘れてしまった。
「……リュクシーヌ、本当に久しぶりだ」
「……リュクシーヌ?」
「カタリナさんも。俺自らが招いた不手際とは言え……本当にご無沙汰をしました」
「……カタリナさん?」
「何ですか?」
二人とも、久々の再会にふさわしくない渋い表情をした。
視界の隅で、ロイス公爵がおろおろしている。
ミアは冷静さを保っているが、その両手はぎゅっと握られており、これから起こる嵐に備えている。
その時初めて、俺は彼女たちから向けられている敵意に気付いた。
「……下僕の分際が、偉そうに」
「はっ?」
「何が『リュクシーヌ』よ! これから私の事はお嬢様と呼ぶのよ! 分かった?」
「リュクシーヌ待ちなさい。君の怒りはもっともだが……ネロ君はネロ君で苦労をだね」
「あなた! 下僕に向かって君付けなどと、ロイス家末代までの恥です!」
「い、いや……でも、ネロ君には昔からさんざんお世話になっただろう」
「お世話にですって!? それはもしかしてレンヌ街道の討伐の事かしら?」
「そうだよ。元をたどれば、それがきっかけで我が家とネロ君の縁ができたんじゃないか」
「おぞましい記憶だわ。そう、あの時現れた醜悪なモンスターよりもね!」
「あの時の事を必要以上に恩に着る必要はありませんわ。ネロが仕事をしなければ、冒険者ギルドの誰かが同じように依頼をこなしただけの事ですもの」
「しかし……」
「いいえロイス公爵、俺が悪いです。……お嬢様、大変失礼致しました」
「それでいいわ。お母様にも、心からの謝罪をなさい」
「はい。お母様、大変失礼しました」
「お母様ではありません。奥様と呼びなさい!」
「失礼しました、奥様」
面倒くさいなぁ、もう。
意味が通じればいいじゃないかと思ったが、正しく呼ばないとカタリナさんはカンカンに怒った。
しかし、ここまでのやり取りですっかり把握したぞ。
ある程度覚悟はしていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。
俺という存在は、蛇蝎のごとく嫌われてしまっていた。
「ま、まぁ二人とも。王様の命でもあるし、今後はネロ君に我が家で働いてもらうことになる。過去の事は忘れ、新たな関係を築き上げようじゃないか」
「フン、過去の事などとうに忘れました。いーえ、忘れてなるもんですか!」
「どっちだよ」
「ネロ、下僕のくせに言葉遣いがなってないわよ!」
「……どちらですか?」
ネロ、と来たか。
婚約云々の話をしていたときはネロ様と呼んでくれていたのに。
あの時の熱っぽい視線は今はなく、すっかり生ごみを見るような目になってる。
「リュクシーヌ、ネロ君との婚約破棄は仕方のない事だ。納得いってないのかい?」
「破談がどうこうと言った話ではありません! この子がどれだけ恥をかいたか、あなたも知っておいででしょう!」
「恥を、かい? それはよく知らないなぁ」
「知らないのなら教えて差し上げますわ。ネロの滅茶苦茶なお金の使い方と間抜けな破産、自堕落な生活は貴族の間では全て筒抜けです」
「あなたのおかげで受けた辱めを、体中を切り刻んでその傷に塗り込んであげたいわ……!」
悔しそうに拳を握るリュクシーヌ。
いわゆる有名税だ。
国を救った俺の行動は、その後逐一新聞社のメシの種になっていた。
それは俺だけじゃなく、俺と婚約していた彼女にも迷惑が及んでいたらしい。
例えば──。
『フォート・リアの英雄ネロ・アーデルハイト、高級武具店をたったふた月で潰す! 経営者としての才覚はナシ?』。
『救世主ネロ、賭場に出入りする! 今日もタコ負け』。
『ネロ・アーデルハイトは毎日外食三昧! 英雄の食事は肉ばかり! 管理栄養士が解説する偏食のリスク』。
『天才の証明? ネロの剣術指南は分かりにくいと王国騎士が本紙激白!』。
『冒険者ギルド会長、ネロの復帰に難色! 〜彼の冒険者ランクが高くなりすぎて、報酬が払えないですよ〜』
『かつての同僚、ポンズに金を無心しに行くネロを独占取材!』
……などなど、覚えている三流新聞の見出しはこんな感じだ。
放っといてくれと言いたい事ばかりだし、虚実入り乱れていると言いたいが、だいたい全部本当だ。
貴族の間どころか、俺の行動は国民の間にも筒抜けだった。
さぞかしいい笑いの種になっただろうから、誇り高い貴族のリュクシーヌには大した苦行だったと想像できる。
「ネロ、リュクシーヌの恨みつらみがお分かりかしら?」
「大変申し訳ありません。俺の軽率な行動が、そんなところにまで影響を及ぼすとは思いませんでした」
「愚か者と婚約した我が身を呪ったわ。何が勇者よ!」
「カタリナ、リュクシーヌ。二人ともネロ君と婚約が決まった時には、大層喜んでいたじゃないか」
「ええ。今では一生の不覚ですけども」
「お前たちが笑いものになったのは、ネロ君のせいじゃない。この国の英雄であるネロ君との婚約を必要以上に自慢して回ったからだよ。だから社交界の反感を余計に買ってしまったんだ」
「何ですって!」
「あなた、まさか私たちが悪いというのですか!」
「だってそうじゃないか。私の夫になる人はこの国の英雄だ。娘と結婚するネロ・アーデルハイトより優れた男などいない。貴女たち程度では決して射止められなかった。平凡な娘は平凡な男と結婚する……と、他の貴族の娘や、その夫を蔑むようなことばかり言っていた」
「っ、でもお父様……!」
「リュクシーヌはネロ君との婚約で、少なからぬ優越感も抱いたはずだよ。一時的とはいえ、良い思いをさせてもらったことにも感謝しなくっちゃ公平じゃない」
「……」
ロイス公爵は愛娘に諭すように語り掛け、さすがのリュクシーヌも押し黙る。
当事者の俺は、こういうことはかえって口をはさみにくい。
俺からすれば、ああそんなに喜んでくれてたんだと思うのみだった。
むろん、そんなロイス公爵の説得を聞き入れるほど、カタリナさんは大人しくはない。
「たとえ良い思いをしたとしても、その後にかかされた恥があまりに過ぎると言っているのです!」
「もう過去の話だ。いいじゃないか、今はウォルフガング公という婚約相手も決まりそうだし……」
「ええ、そうですわね! あの方はネロと違って誠実で、大人で、見識が豊かです。リュクシーヌの夫としてふさわしい方です」
「僕としては、まだネロ君推しだけどね。リュクシーヌは考え直す気はないのかい?」
「こんな男と、二度も婚約? そんなのあり得ません!」
「ふう……そうか。カタリナ、言いたいことをいって少しは頭が冷えたかい?」
「ええ。明日からのネロに対する態度と等しく、冷え切ってるつもりですけどもね」
「なぁ、リュクシーヌ」
「っ、2度目よネロ! 私を呼ぶ時はお嬢様! 下僕の身の程を弁えなさい!!」
「本当にすまなかった。あの時も、今も、俺は君にふさわしい男ではなかった」
「何よいきなり……」
「許してくれと言っても無駄だろう。だから今後、君がこの家で不自由なく暮らせるよう、心から仕えさせてもらう」
「……フン。そんなの当然よ」
「私にもよ、ネロ。下僕として忠誠を誓いなさい」
「はい、奥様」
「明日から死ぬほどこき使ってやるわ。王都へ逃げ出したくなるほどにね!」
「はい、お嬢様。ですが、逃げ出したりはしません」
「どうだか」
「王都に住む家ないんで」
「な、なっさけな……! お母さま、もう行きましょう」
「ええ、そうね……では、あなたはまた後で。話したいことが山ほどあるわよ!」
「分かったよ……」
言いたいことを言いつくし、リュクシーヌとカタリナさん……。
いや、お嬢様と奥様は部屋を出ていった。
扉の締め方が必要以上に乱暴だったことは言うまでもない。
「……ふぅ〜。ネロ君、お疲れ様」
「どうも、ご迷惑をおかけしました」
「さっきも言ったが、恥をかかされたというのはほとんど自業自得なんだ。ネロ君のせいだけじゃない」
「でも、俺にも確かに責任はあります」
「……どう思う? ミア」
「私などが口をはさむ余地はありません」
「そう言わず、公平な立場からの率直な意見も聞いてみたいね。主としての命令だ」
「……二人とも少し、ネロ様に払うべき敬意が足りないと感じます。婚約がどうあれ、ネロ様がこの国と、かつてこの町を救ったことに変わりはありません」
「そうだよ! 僕はそれを言いたかったんだ!」
「ネロ様が逆切れしないかとヒヤヒヤしました。おそらくネロ様が本気になれば屋敷ごと消し炭と化すでしょうから」
「するか!」
「はっはっは、本当に率直な意見だねえ」
そんな事したら王にドヤされる上に、また新聞記事に載ってしまう。
俺は俺なりにリュクシーヌに悪いと思っていたし、あれくらいでキレ散らかすほど子供ではないつもりだ。
「とにかくアレだ。ミアはネロ君のここでの暮らしを助けてやってくれ。命令だよ」
「かしこまりました、旦那様」
「リュクシーヌはもうネロ君に興味ないみたいだし。同僚として、恋仲になっても構わないよ! ははは」
「職場に恋愛は持ち込まない主義です」
「ミア。恋愛はね、持ち込むとか持ち込まないとか、自分で決められるものじゃないんだよ」
「お言葉、肝に銘じておきます」
「ネロ君を部屋に案内してやってくれ。僕はカタリナの機嫌を取りに行かなくっちゃいけないから」
「かしこまりました。ネロ様、行きましょう」
ひとまずの波乱が過ぎさり、俺はようやく部屋で休めるらしい。
公爵に一礼し、ミアの後を追った。
窓の外に目をやると、すっかり夜のとばりが降りていた。