第822編「シュレディンガーの恋人」(量子の重ね合わせのように、私たちは無限の可能性を孕んでいる)
生物量子学を専門とする研究者である橘玲奈は、窓際の書棚に並んだ論文の束を眺めながら、微かに唇を噛んだ。彼女の研究室は、量子生物学の最先端技術を駆使し、生体分子におけるコヒーレンス現象や量子トンネル効果を研究する場所だった。
そして、その隣で同じくパソコンに向かっているのは、彼女の共同研究者であり、恋人でもある篠宮透子。
「玲奈、このフォトンエコー分光データ、やっぱりコヒーレンスが予想より長く保持されてるわ」
透子がモニターを指し示す。そこには、人工光合成系での励起子コヒーレンスを示すデータが並んでいた。通常ならば熱環境のノイズで速やかに崩壊するはずのコヒーレンスが、意外なほど長時間維持されている。
「まさか、生体内のデコヒーレンス時間がこんなに長いなんて……量子もつれの影響かしら」
玲奈は、透子の手元のデータを覗き込みながら、小さく息を呑んだ。
「もしかしたら、シュレディンガーの猫の比喩は、私たちの生体システムにこそ適用されるべきなのかもね」
シュレディンガーの猫——量子の重ね合わせ状態が観測されるまで持続するというパラドックス。もし生体システムが量子的な状態を維持し続けられるなら、人間の意識や生命現象そのものが、量子レベルでの相互作用に依存している可能性がある。
「つまり、私たち自身が重ね合わせの状態にあるってこと?」
「そうかもしれない。たとえば、私たちの意識の状態も、量子レベルで干渉し合っているとしたら……」
玲奈は思わず透子の瞳をじっと見つめた。彼女の虹彩が、研究室のLEDライトを反射しながら淡く揺れる。
——まるで、観測されることを待つ電子のように。
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夜、研究室のソファに並んで座る玲奈と透子。
「ねえ、量子テレポーテーションって知ってる?」
「もちろん。二つの量子ビットをもつれさせ、一方の状態を遠隔地のもう一方へ転送する技術。まだ生体レベルでは応用されていないけど」
「でも、もし私たちの意識が量子的に絡み合っていたら……私がどこにいても、玲奈のことを感じられるかもしれない」
透子の指先が、玲奈の手にそっと触れる。指先の感触が、不思議と肌を超えて、もっと深いところにまで響く気がする。
「量子もつれみたいに?」
「ええ。私たちの心は、どんな距離にいても観測し合う限り、繋がっていられる」
「……でも、観測しなかったら?」
玲奈が問いかけると、透子は少しだけ微笑んだ。
「そのときは——私たちは無限の可能性の中にいるのよ」
玲奈は透子の手を握り返す。
二人の間に流れるこの感覚は、古典的な物理法則では説明できないものだった。おそらく、それは量子的な「恋」の形なのかもしれない。
シュレディンガーの猫が生きているのか死んでいるのか、その箱を開けるまで決まらないように——。
玲奈と透子の関係もまた、無数の未来を孕んだ、ひとつの重ね合わせの中にあった。




