第23編「夢断片、もしくは彼岸の白百合」(夢は断片、君はその全て)
朧月夜の下、紅村はその静謐を保っていた。だが、誰もが眠りに落ちた深夜、川沿いの古い橋に立つ一人の少女の姿だけが、その静けさを僅かに揺るがせている。その少女――天宮鏡子は、手に一本の白百合を持ちながら、橋の上でただ虚空を見つめていた。
「今日も来たのね。」
声をかけたのは、同じ村に住む少女、御影澄佳だった。澄佳は、月明かりを浴びて川面に映る鏡子の影をしばらく見つめていたが、やがてその横にそっと歩み寄った。
「君はどうして、そんなに白百合が好きなの?」
澄佳の問いに、鏡子は一瞬だけ考え込んだように見えたが、答える代わりに持っていた白百合をそっと彼女に手渡した。その指先が触れた瞬間、澄佳は不思議な感覚に襲われた。まるで、その花がこの世のものではないかのように冷たく、同時に温かい。
「これは……?」
「夢の断片よ。」鏡子はぽつりと呟いた。「ある人が私に教えてくれたの。夢というのは、現実の裏側に隠れた、もう一つの世界だって。そして、この百合は、その世界で咲いていた花だって。」
鏡子の言葉には、現実と非現実の境界を曖昧にする響きがあった。澄佳はその目をじっと見つめたが、彼女の瞳には何も映っていないようにも見えたし、全てを見透かしているようにも思えた。
「そんな話、信じられないわ。」澄佳はそう言いながらも、その白百合から目を離すことができなかった。
「信じなくてもいいの。ただ、覚えておいて。夢は、私たちをどこかへ連れていくものだって。」
その晩、澄佳は奇妙な夢を見た。鏡子と並んで歩く彼女の前に、果てしなく広がる白百合の野原が現れる夢だ。その花々の香りは甘く、しかしどこか切なさを孕んでいた。鏡子はその中を歩きながら、ただ黙って先を指差した。
目が覚めたとき、澄佳は心臓の鼓動が早まっているのを感じた。枕元には、昨日渡された白百合が無傷のまま横たわっている。それは現実なのか、夢の続きなのか、彼女には分からなかった。ただ、一つだけ確かなことがあった――鏡子が何かを知っている。
数日後、澄佳は再び鏡子を訪ねた。彼女は村外れの古い神社の境内に座り込んで、手のひらの中にある小さな石を見つめていた。その石には、奇妙な模様が刻まれていた。
「それは何?」
「夢を閉じ込めた石よ。」
「夢を閉じ込める?」澄佳は眉をひそめた。「それって、どういうこと?」
鏡子は石を澄佳に手渡した。冷たく滑らかなその表面に触れた瞬間、澄佳は胸の奥から言いようのない感情が溢れ出すのを感じた。悲しみとも喜びともつかない感覚――それは夢の断片が呼び起こす記憶のようだった。
「私、いつかこの村を出る。」鏡子は静かに告げた。「でも、君だけにはこれを託しておきたいの。もし、私がいなくなった後で、夢の続きを見たいと思ったら、この石を握りしめて。」
「いなくなるって、どういうこと?」澄佳は慌てて尋ねた。
鏡子は答えなかった。ただ、彼女の顔には儚い微笑みが浮かんでいた。それがどういう意味を持つのか、澄佳は理解できなかったが、その場を去る鏡子の背中が、どこか現実味を感じさせないものに見えた。
その夜、鏡子は村を去った。誰もその理由を知らなかったし、その後の行方を知る者もいなかった。澄佳だけが、彼女の置き土産である白百合と夢の石を手にしながら、彼女のことを思い続けた。
ある夜、澄佳は夢の中で再び白百合の野原に立っていた。そこには、笑顔の鏡子が待っていた。




