第21編「ゼロ点環に花束を」(この世界を補完するため、私たちは円環の外へ歩み出す)
その少女――槻本繭――は、幾何学の端に住んでいた。
具体的に言うと、彼女は近所の数学塾の裏手にある廃倉庫で、あらゆる円と線と点の交点だけを辿って生活していた。繭が歩く軌跡は円錐曲線のように美しく、それはあたかも彼女がこの三次元のルールそのものを歪ませているかのようだった。
一方で私は、その「歪み」を観察することに興味を持つ高校生、紫峯樹音だった。観察といっても科学的というよりは個人的な興味――単に、彼女に取り憑かれたと言ってもいい。
最初に繭を見たのは、放課後の校庭だった。数学の補習から逃げ出して草むらに隠れていた私の視界に、繭が入り込んできた。彼女は、何もない空間に向かってゆっくりと手を伸ばしていた。まるで、そこに何かがあると確信しているように。
「何をしてるの?」思わず声をかけてしまった。
繭は振り返り、しばらくの間じっと私を見つめてから言った。
「世界の裂け目を、調べてるの。」
その答えは理解不能だった。だが、同時に完全に私の心を奪った。繭の言う「裂け目」はただの比喩ではなかった。後日、彼女について回った私はそれを目撃することになる。
ある日、放課後の夕暮れ時、彼女が通う廃倉庫の前に立っていた私は、意を決して中へ足を踏み入れた。その瞬間、空間の法則が揺らぎ、私の視界は一瞬だけ収縮し、次に膨張した。奥にいた繭が、何かの「裂け目」に手を差し入れているのが見えた。彼女の手が掴み出したのは、鮮やかな花だった。
「それは何?」私は喉を震わせながら尋ねた。
「これ? これはきっと、世界の余剰物。」繭は無表情に答えた。
「余剰物?」
「この世界は完全じゃない。全ての点と点を繋いでも、何かが足りない。その足りないものが、ここに現れるの。」
その言葉の意味は、直感的には理解できなかったが、深く心に突き刺さった。私はそれから繭に近づき、彼女の行動を観察し、ついには一緒に「裂け目」の探索をするようになった。繭の世界観に取り込まれたのだ。
彼女が言うには、この裂け目は数学的に完璧な世界の「外側」だという。現実は円環のような構造をしていて、点から始まり点で終わる。そして、その点と点が閉じる瞬間、そこに一瞬だけ余剰が現れるのだと。
ある日、私は尋ねた。
「その裂け目の向こう側には、何があるの?」
繭は少しだけ考えてから、答えた。
「そこには……私の居場所がある。きっとね。」
彼女の答えに、私は妙な胸の痛みを覚えた。彼女はこの現実に「居場所」を持たないのかもしれない。だからこそ、裂け目を通じて自分を確認しようとしているのだと感じたのだ。
そして私は気づいた。繭の「裂け目」に手を入れる行為そのものが、私にとっては一種の救いでもあった。私は、彼女を通じて「生きる意味」を見つけようとしているのかもしれない、と。
その日、繭は言った。
「紫峯、ねえ、一緒にもっと遠くまで行ってみる?」
その言葉が何を意味するのか、私は正確には分からなかった。だが、私は頷いた。




