意外とスパルタですのね
授業が終わり、放課後のこと。
両手に教科書を抱えたキマイラは、一度自室に戻った後、約束通りリヒトの部屋に足を運んでいた。
リヒトの部屋と言うのは勿論、男子寮だ。
彼もクロノス中等学院の生徒である以上は当然、寮生活である。
男子寮の造りも女子寮の構造と全く変わらない。
リヒトが寮長に話しを付けていたため、何の問題もなく中へ入ることはできたが年頃の令嬢としてはやはり少し気が引けた。
廊下を歩いている間、誰とすれ違うこともなかったのは二階の部屋が全て王族専用の階になっているからだ。
二階へ上がる階段は男子寮に入ってすぐの所にある。
クロノス中等学院に通っている王族は全員で二人。その内一人はリヒトであり、もう一人はいつも図書室に入り浸っている男子生徒らしい。
そのため、キマイラは寮長である三年生のジャック・スーメルにしか会っていない。
ジャックはスーメル家の伯爵子息だ。三年生である。
同学年だけでなく、下級生からも信頼が厚い兄貴肌の優等生。学年では常に上位の成績を保ち続け、最早来年の王立ハインリヒ高等学園への入学が確定している生徒の一人だ。
キマイラが気まずそうに男子寮の前をうろうろしていた時、助けてくれたのも彼だった。
「ん?君、新入生だよな?ここは男子寮だぞ?」
「はえ!?え、ええ、存じてますわ・・・その、ハ、ハインツさんに用があって・・・。」
「ハインツ・・・?ああ!!リヒト・ハインツ・ベルンの事か!!」
「は、はい!!」
「じゃあ君がキマイラ・イエリエリ嬢?」
「はい!!」
「そうか、リヒトから話は聞いてる。一緒に行こうか。」
「あ、ありがとうございます、スーメル先輩。」
「あれ、俺のこと知ってるのか?」
「はい。先輩は入寮式の時、前で説明をしてらっしゃいましたから。」
「ああ、成程な。そう言えば、君の成績見たぞ?あれは凄いな、正直びっくりだ。」
「うう、情けない限りですわ。」
「まあまあ、まだ一年生だしこれから頑張れ!!何か解らないことがあったら俺も教えてやるから。」
「ありがとうございます。」
「あ、あと一つ言っておくことがあったんだ。」
「何でしょう?」
「今回は君の学院在学の為、リヒトの部屋への入室を許可したが本当は駄目だぞ?」
「はい、本当にご迷惑おかけしますわ・・・。」
「はは、キマイラ嬢は素直だな。いや、変な気さえ起こさないでくれればそれで良いんだが。」
「へ、変な気!?」
「ん?」
「そ、そんなの絶対に起こしませんわ!!有り得ませんもの!!彼とはあくまでも学友ですわ!!学友!!」
「なんだそうなのか?」
「ええ!!」
「顔赤くして二回も学友っていう所が怪しいけどなあ。」
「そ、そんなことありませんわ!!」
「冗談だよ、冗談。キマイラ嬢はからかいやすいなあ、あはは!」
「え・・・やっぱりそうなんですの?」
「え?」
「だからあんなにあの人に遊ばれるんですの・・・?私、誰から見てもからかいやすい女なんですのね・・・。」
「えっ、いや、冗談!!冗談だぞ!?キマイラ嬢!!」
と言うことがあった。
私、やっぱりからかいやすいんですわね・・・。
いつかウィリアムからもからかわれる日が来るのかしら?
そんなことを考えながら廊下を進んで行き、一番突き当りの部屋の前で足を止めた。
ここがハインツさんの部屋ですわね。
キマイラは息を飲んだ。
持ってきた教科書と筆記用具を左手に抱え、右手で三回ノックする。
こんこんこんとドアを鳴らすと扉は直ぐに開いた。
手前に引かれたドアの中からリヒトの顔が覗く。
「キーマ?」
「他に誰がいるんですの?」
「早かったんですね、迎えに行こうと思っていたんですが。」
「心臓が止まりそうでしたわ・・・。」
「それは申し訳ありませんでした。どうぞ。」
リヒトに招かれ、部屋の中に入った。
彼の部屋はキマイラとウィリアムの部屋の二倍はある。
一人部屋なのでこのリビングに加え、寝室と応接室まであると言うのだ。
普通の生徒ではここまでの部屋には入れて貰えないだろう。
彼が王族だからだ。
リビングにはガラス造りのテーブルと椅子が四脚。他にも本棚や花瓶など多くの家具が並んでいる。
リヒトにエスコートされ、キマイラはそのまま椅子に腰を下ろした。
「今、お茶を入れてきます。」
「従者はいらっしゃらないんですの?」
「はい、連れてきませんでした。常に誰かが傍に立っていると言うのは如何にも苦手なんです。」
「そうなんですの、お手伝いしますわ。」
「いいえ、貴方は客人です。手伝いをさせる訳には、」
「お勉強を教えてほしいと頼んだのは私ですもの。この位、手伝わせてくださいな。」
「・・・そうですか。では、お願いします。」
了承を得たキマイラは席を立ってお茶を入れるのを手伝った。
二人が勉強を始めたのはそれから十分後のことだ。
テーブルにハーブティーを乗せ、配布されたプリントで試験範囲を確認していく。
向かい合うように席に着いた二人は教科書とノートを開いた。
「今回の範囲はどの教科も60ページ前後ですね。まずは数学から行きましょう。どの辺りが解りませんか?」
「ここから先が全く解らないんですの。基礎も解けなくて。」
「成程。50ページ分は一切理解できていないと。」
「はい・・・。」
「解りました。では、これからこの公式を覚えてください。」
そう言ってリヒトは自分のノートに次々と公式を書き連ねて行った。
二行をびっしりと埋め尽くした公式にはXやy、aやbと言った文字が羅列している。
キマイラの知っている数学の公式なら普通は一行も埋まらない。しかし、この世界の公式は軽く二行や三行を使い果たすらしい。
目の前に突きつけられた文字列にキマイラは顔を引きつらせた。
「こ、これが一つの公式ですの?」
「はい。」
「これを全て?」
「覚えてください。」
「ち、因みに、これを使ってどこまでの問題が解けますの?」
「そうですね、ここまででしょうか?」
リヒトがめっくた教科書のページはたった2ページほどだった。
こんな公式が残り23個はある。
キマイラは考えるだけで目が回りそうだった。
しかし、これを覚えないと退学になってしまうのもまた事実。
ノートを見て、公式を覚えようと頭の中で何度もXやyを唱えた。
そんな彼女にリヒトが言う。
「見て覚えてもすぐに忘れてしまいます。同じことをノートに書いて下さい。」
「解りましたわ!!」
「では20回ほど。」
「わか・・・20!?」
「はい。」
リヒトはいつもの笑顔でにこやかに言った。
「後半の10回は口で唱えながら。そうしたら、応用問題を含めて参考書の問題を20問程解いてもらいます。解けなかったらもう20回公式を書いて、更に解き直しです。勿論、上手く理解できなかったら質問してください。細かく説明しますから。今日は一教科で10ページ分の問題を覚えて帰ってもらいますよ。」
「一教科!?日が暮れてしまいますわ!!」
「そうですよ。だから頑張ってください。もしできなかったら、このまま僕の部屋に泊まることになります。」
「スパルタですわ!!」
放課後に来ているため今はもう夕方だ。
春なので多少日は長いが、あと4~5時間もすれば辺りは真っ暗。
さらに、遅くなればなるほど男子寮には人が戻ってきてしまう。そうなれば、キマイラはリヒトの部屋から出られなくなるのだ。
ペンを握りしめたキマイラの顔がみるみる青くなる。
しかし、リヒトの目が本気だと言っているのを見て、やるしかなくなった。
そんな彼女に追い打ちをかけるように笑顔のリヒトが続ける。
「それだけでは頑張れませんか?では、もしできなかったらそれに加えて罰ゲームを科すことにしましょう。」
「これ以上の罰ゲームがありますの!?が、頑張れますわ!!頑張れますから、もうこれ以上は!!」
「こうしましょう。今から日が完全に落ちるまでに指定のノルマをクリアできなかったら、僕が貴方にキスをします。」
リヒトはいつにも増して楽しそうな笑みで言った。
言われたキマイラは硬直する。
「はい?」
「キスをすると言いました。どこに、とは言いませんが。」
リヒトがニヤリと笑ってキマイラを見ると彼女は一瞬で顔を真っ赤にした。
頭から湯気が上がりそうなほど体が熱い。
彼が目を細め、笑っているのを見るとそれが嘘ではないと解ってさらに恥ずかしくなった。
な、何なんですの!?このマセガキ王子!!
まだ12ですのよ!?一体どんな育ち方をしたらこんな台詞が出て来るんですの!?
ああもう!赤面止まって下さいなああああ!!
がたんと音を立てて椅子から立ち上ったキマイラが眉を吊り上げてリヒトを見た。
しかし、彼は表情一つ変えずにキマイラに笑いかける。
「どうしましたかキーマ?あれ?もしかして、嬉しかったですか?」
「そんな訳ありませんでしょう!?スーメル先輩にも変な気を起こすなと言われているのに!」
「言わなければバレません。」
「そう言う問題ではありませんわ!!」
「嫌なら頑張ってください。ほら、そうこうしている内に時間は過ぎて行きますよ?」
「~~っ!!」
リヒトが窓の外を指さした。
それを見たキマイラは顔を真っ赤にしたまま椅子に座り直し、ノートに書き取りを始めた。
彼女の書くペースに合わせて、リヒトも新しい公式や問題をノートに書いていく。
勉強をしている間、質問とそれに対する回答以外、二人の間で私語が交わされることはなかった。
キマイラ・イエリエリは元々、暗記が苦手ではない。
現に今まで多くの礼儀作法や言葉遣いに関する知識を頭に詰め込んできたのだ。今まで実際に使わなかっただけで、知識だけは長年頭の中に残っていた。
覚えてしまえばそう簡単には忘れない。
キマイラが前世でプレイしていたゲームでも、キマイラ・イエリエリは王立ハインリヒ高等学園に無事合格している。
つまり、やればできるのだ。
本人がそのことを知らないだけで。
リヒトのスパルタ授業は本当に日が暮れるぎりぎりまで続いた。
日が暮れるまでに授業が終わったのはキマイラがどうにか指定された範囲のことを全てやり終えて見せたからだ。
国語・数学・地学・歴史・言語学を各教科10ページ、合計で50ページ分の知識を頭に叩き込んだのである。
ノート一冊を使い果たしたキマイラはテーブルに突っ伏して死んでいた。
「見事です、キーマ。まさか本当にやって見せるとは。」
「本当は出来ないと思ってたんですの!?」
「はい。全く理解できていない状態からここまでやるとは、上出来です。」
「お、鬼ですわ!!ここに鬼がいますわ!!」
テーブルに顔を乗せたまま叫ぶキマイラを見て、リヒトがクスクスと笑っている。
もう冷めてしまっている紅茶のカップに手を伸ばしたリヒトは教材を一つ一つ閉じて、まとめた。
「どうでしょう?僕の教え方で理解できましたか?」
「ええ、とても解りやすかったですわ。」
「それなら良かったです。」
「帰ったら、復習してから寝ることにしますわ。明日も50ページ分ありますし、今日教わったことを忘れないようにしないと。」
「熱心ですね。でも、僕は少し残念です。」
「何がですの?」
「貴方は今日、帰ってしまいますし、キスも出来ませんでした。」
「な!?」
「はは、冗談です。」
「もう!止めてくださいな!!」
席を立ち、教科書と筆記用具を抱え込んだキマイラがふと自分の持っていた教科書に視線を落とす。
「そう言えば、地学の試験範囲の中に図書室の参考書から出題されるものがありましたわ。」
「ああ、そうでしたね。」
「私、明日、その参考書を探しに行くのですけど、良かったら明日は図書室で勉強を、」
「図書室には行かない方が良いかと。」
またしてもキマイラの言葉を遮ってリヒトが言った。
キマイラはリヒトの言葉に首を傾げる。
「どうしてそんなに図書室に行きたくないんですの?」
「少々、面倒な奴が入り浸っているんですよ。」
「会いたくない人がいると言ってもあそこはかなり広いですし、会うことなんて滅多にないんじゃありませんの?」
「兎に角、図書室には行かないでください。ろくなことにならないので。」
「はあ。」
「外まで送ります。もう寮生も帰ってきている時間ですから。」
「ありがとう、ございますわ。」
キマイラの抱えた謎は拭えないまま、リヒトはキマイラを女子寮の前まで送ってくれた。
しかし、リヒトの思いとは裏腹にキマイラは思う。
あの参考書は図書室にしかない物ですし、ないと勉強できませんわよね。
それにあの様子だとハインツさんも貸りていないようですわ。明日行って彼の分も貸りてきましょう。
今日のお礼もありますし!
キマイラは、やっぱり明日は図書室に行こうと思った。