第10話 わたくしの選んだ道
すべてが終わったと思った。けれど、物語はもうひとつの層を隠していた。
裁定から三日後、わたくしはカイ殿下から個別の呼び出しを受けた。王宮の私室という、異例の場所で。
「ソフィア殿。裁定は終わったが、伝えるべきことがある」
殿下は窓辺に立ち、右手を顎に当てていた。いつもの仕草。けれど今日はその手が、わずかに震えていた。
「ダリウスの浮気について——最初の数回は、確かにあの男自身の意思だった。だが、それが十五回にまで膨らんだのは、偶然ではない」
「どういうことですか」
「ヘンリク公だ。先代公爵は、息子の浮気を利用した。正確に言えば——浮気を加速させた」
わたくしは息を呑んだ。
「ヘンリク公はダリウスとソフィア殿の婚姻を、最初から政略の道具として設計していた。男爵家の持参金を吸い上げ、公爵家の財務の穴を埋める。そのためには、ソフィア殿が大人しく家に留まり、何も知らないでいてくれることが都合が良かった」
「それで——夫に愛人を与えた?」
「エステル嬢を引き合わせたのは、ヘンリク公だ。息子を妻から遠ざけるために。妻が夫の不在に慣れれば、財務の内側を覗き込む暇はないと考えた」
なんということだろう。
わたくしの三年間の孤独は、義父によって「設計」されていた。夫の浮気さえ、わたくしを管理するための仕組みの一部だった。白い薔薇の庭で一人過ごした午後。紅茶だけが温かかった食卓。暗闘の中で数えた香水の匂い。すべてが、ひとりの老人の計算の上に成り立っていた。
「ヘンリク公の手帳には、その計画の断片が記されていた。あの方は最晩年になって、自分が仕組んだことの重さに気づき始めていた。手帳の最後の走り書きは——」
『あの子を滅ぼしかねない』
「息子を守りたかったのか、それとも自分の罪に怯えたのか。おそらく両方だろう。しかしヘンリク公は、是正する前に死んだ」
わたくしは深呼吸をした。怒りが込み上げる。けれどそれは、ダリウス様への怒りとは少し違った。
ダリウス様もまた、父に操られていた面がある。もちろん、それは免罪にはならない。浮気を選んだのは彼自身だ。わたくしを軽んじたのも彼自身だ。けれど——「すべてが彼の悪意だった」という単純な物語ではなかったということを、わたくしは受け止めなければならなかった。
人間は単純ではない。善と悪がきれいに分かれることはない。ヘンリク様も、最後には罪の意識に苛まれていた。ダリウス様も、最初は好意を持っていたのかもしれない。けれど仕組みが人を歪める。制度が感情を圧し潰す。わたくしが戦ったのは、夫だけではなく、そういう「仕組み」だった。
「ソフィア殿。もうひとつ」
カイ殿下が、わたくしの方を向いた。
「ダリウスは——あなたとの婚姻の初期、本当にあなたに好意を持っていた形跡がある。ヘンリク公の策略が介入する前の、ごく短い期間だが」
「……そうですか」
驚きはなかった。結婚して最初の数ヶ月、ダリウス様が稀に見せた柔らかい笑顔を、わたくしは覚えている。あれが本物だったのか演技だったのか、ずっとわからなかった。
今もわからない。でも——もうそれは、わたくしの人生を左右する問いではなくなった。
◇
裁定から一ヶ月後。
わたくしはアルヴァイン公爵邸を出た。
持参金は全額返還された。母の翡翠の宝飾品も、一点も欠けることなく手元に戻った。小さな領地の権利も。それらを元手に、王都の一角に小さな住まいを借りた。大きな屋敷は要らない。自分の庭があれば十分だ。
ダリウス様は公爵位を剥奪こそされなかったが、財務不正の罰として領地の大幅な縮小と、十年間の社交界追放を言い渡された。過度な処罰ではなく、淡々とした裁きだった。
エステル嬢は実家に戻った。ダリウス様を恨む素振りは見せなかった。ただ「次は自分の目で人を選びます」と言い残して。その言葉に、わたくしは少しだけ救われた。彼女もまた、被害者だったのだから。
コンラートは王都を離れたと聞いた。ニーナは兄との決別を選んだ。辛い決断だっただろう。でも彼女は、エプロンの裾を握りしめながらも、前を向いていた。
彼がどこへ行ったのか、誰も知らない。もしかしたら、遠い街で新しい名前を名乗って暮らしているのかもしれない。裏切りの後ろめたさから逃れられるかどうかは、彼自身の問題だ。
「奥様——いえ、ソフィア様。わたくし、これからもお傍にいてよろしいですか」
「もちろん。ニーナがいなければ、わたくしはここにいなかったわ」
ローザは公爵邸を辞し、姉の子どもを探す旅に出た。ヘンリク様の手帳の記録を頼りに。出発の日、あの無愛想な女中頭は、わたくしの手を強く握った。
「ソフィア様。あなたは——わたくしが守りたかった人です」
「ローザ。あなたの姉上が安らかでありますように。そして、その子に会えますように」
ローザは泣かなかった。けれど、鍵束をもう握りしめてはいなかった。旅立つ背中は、初めて見る解放された背中だった。
新しい住まいの庭に、白薔薇の苗を植えた。あの屋敷の庭からこっそり分けてもらったもの。ローザが、最後の贈り物として用意してくれていた。
小さな庭だけれど、わたくしのものだ。誰にも管理されない、誰にも閉ざされない庭。陽当たりは良好。水はけも悪くない。ここで薔薇を育てよう。今度は、孤独を紛らわすためではなく、ただ美しいものを美しいと感じるために。
そしてイサク殿。
マティアス卿の後を継ぎ、王宮の財務監査の要職に就くことが決まった彼は、わたくしの新しい住まいの前に、一輪の白薔薇を持って立っていた。少しだけ背を丸めた姿勢はあの頃と変わらない。けれど目は、あの庭で初めて会ったときと同じ、澄んだ光を湛えていた。
「ソフィア殿。いや——ソフィア」
初めて、敬称なしでわたくしの名を呼んだ。
「これを」
白薔薇を差し出すその手には、仕事の跡がうっすらと残っている。
「花の言葉はよく知りませんが、あなたの庭で咲いていた花と同じものを選びました。あの庭は——あなたが一番強かった場所だから」
わたくしは白薔薇を受け取った。棘が指にあたる。でも、今度は刺さなかった。
「ありがとう、イサク」
それだけだった。告白も、約束も、大げさな言葉もない。ただ、二人の間の距離が、半歩分だけ縮まった。それで十分だった。これから先、この距離は少しずつ、少しずつ近づいていくのだろう。急ぐ必要はない。
三年間、急かされ続けた。跡継ぎを急げ、身を慎め、分をわきまえろ。もう誰にも急かされない。わたくしのペースで、わたくしの道を歩く。
新しい住まいの窓辺に、白薔薇を生けた。小さな部屋に、庭の匂いが広がる。
わたくしは机に向かい、新しい日記帳を開いた。三年間つけてきた観察日記ではない。これからの日々を綴るための、白紙のページ。
左手の薬指には、もう指輪はない。
白い跡も、少しずつ薄くなってきている。
窓から差し込む光が、白紙のページを照らしている。これからここに、わたくしの言葉を綴っていく。誰かのためではなく、わたくしのために。観察記録でも、証拠でもない。ただの、わたくしの物語。
ペンを持つ手は、もう震えていなかった。
最初の一行を書いた。
『今日、わたくしは自分の名前で生き始める。ソフィア・ノイマン。誰の妻でもなく、誰の道具でもなく。わたくし自身として』
――窓の外で、風が白薔薇の花弁を揺らしていた。どこかの寺院の響きが、遠く、やわらかく、新しい季節の訪れを告げていた。
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