6 小野明衡の欠点
7章ラストです。
「それならば、犯人は一人しかいないでしょう?」と土筆が尋ねると、御簾の向こうの時峰の目が瞬いた。いまいちピンときていないらしい。
「時峰さま。そもそも、これは謎解き遊びなんですよ。私たちは事件を調査しているのでも、何でもないのです」
姫は『母親は無実』だと言い、母も『私は犯人ではない』と主張した。侍女は『妾が犯人ではないか』と言外に告げ、妾は自身の見聞きした情景と侍女への煽りから『犯人は母親か侍女だ』と言った。そして、このうち二人の証言は間違っていると言う約束事が前提にある。
「それは、分かっていますが……では、犯人は誰だとおっしゃるのですか?」
「この家の娘、つまり姫様ですよ」
事もなげに答えれば、時峰は「うーん」と唸って考え込む。
「しかし、誰からも姫を疑う証言は出ていません。てっきり私は、母親か愛人が犯人で、嘘をついているのだと思ったのですが?」
「それだと、前提と条件が合いません」
母親が犯人だとすると、「母は無実だ」という娘と母親自身、そして「犯人は愛人だ」という侍女の三人の証言が間違っていたことになる。
また、逆に犯人が愛人だと仮定すると、その三人の証言は全て正しかったことになる。
この中で正しい証言をしていたのは二人、間違っているのも二人。
「その条件を満たすのは、娘である『姫様本人』が犯人である場合だけなのです」
その場合、姫と母親の証言は正となり、侍女と愛人の証言は偽となる。
からくりを丁寧に明かしてやると、時峰はさらに戸惑うように「そんな……」と呟いた。
「それでは、この謎解きというのは、各々の証言の中から『どうやって罪を犯したのか』を探るではなく、ただ話の矛盾点から結論を導くだけの問題、ということですか?」
「そうなりますね。でも、どうやったのかも、想像がつかないわけではありません」
男が落ちたのは池だ。庭の池では、いくら立派だといっても、即座に溺死するほど深くはないだろう。姫の腰程度の深さだという話だった。
にも関わらず、男は比較的短時間で亡くなっている。
「全ては語られていない部分ですけれど……姫が池に入ったのは、父を助けるためではないのでしょう」
父親の背中を押して水に落とした姫は、池に飛び込み、顔を上げないように押さえつける。だから彼女の身体はぐっしょりと濡れていたし、手には父がーーー
「ということは、三毛猫姫は自分の罪を明衡に告白していたのですか? 何のために? 明衡はそのような女子と毎夜、床を共にしていたということですか?」
左近衛中将を務める程に勇敢な時峰が、気味悪そうに身を震わせた。
「なんて恐ろしい女だ。わざわざ自らの罪を暴かせようとするなど、正気の沙汰ではない。明衡も明衡だ。女好きなのは知っていたが、警戒心がなさすぎる」
「それは誤解です。この話をした三毛猫姫は、ここに出てくる姫様ではないと思います」
呆れと怒りの混じった声で呟いた時峰を、土筆が即座に否定する。時峰が眉を寄せ、不可解な表情を浮かべた。
「姫が明衡に嘘をついたというのですか? しかし、この話を聞けば自分のことが分かると、持ち出したのは姫の方ですよ?」
「嘘ではありません。これだけ正確に語れるのですもの。三毛猫自身も、この話の登場人物なのでしょう」
「登場人物? では、三毛猫姫は……」
「『姫』ではなく、『侍女』だと思います」
年齢からすれば、当然、母ではない。
妾の女は、姫と年が2つか3つ違いだというから、年齢的にはあり得ないこともないだろう。だけど……
「姫や母親の視点で語られる『妾』の女性の姿は、あまり好意的とはいえず、距離を取っていたようです。一方で侍女は、彼女とも接点があったようだから、『妾』の状況や心情を推し量ることも可能でしょう。それに、例の詩を覚えていますか?
ぬばたまの 夜渡る月を留めむに
西の山辺に 関もあらぬかも
明衡さまを輝く月に喩えて、引き留める関でもあればよいのにと嘆く詩です」
「三毛猫が最初に時峰を引き止めた時に詠んだ詩ですね。万葉集、でしたっけ?」
「ええ、そうです。確か件の侍女は、学者肌のお父さまに和歌や漢詩を叩き込まれ、その教養高さを見込まれたと言っていましたね。一方で、話の中の姫は、勉学は好きではなく、身にならなかった。明衡さまを引き留めるために万葉集を引用するという姿は、姫よりも侍女のほうが近いと思いませんか?」
多分、この問題を考えたのも侍女だろう。複雑な内容を矛盾なく纏めて話をできるのだから、聡明な女性に違いない。
「なるほど。おっしゃる通りかもしれません」
どうやら時峰の腑に落ちたらしい。明衡の相手が咎人でなかったことに安堵している。
「だから、父親殺しの犯人は三毛猫姫ではない、ということなんですね」
「えぇ……でも、三毛猫が何のために、こんな話を、それも四日に分けてしたのか。それが分からなくて、先程から考えているのです」
分からない、と明言したにも関わらず、時峰は土筆の口調から僅かな機微を感じ取ったようだ。
「土筆姫には、何かしら思うところはあるのですね? 三毛猫姫は、何のためにこんな話をしたのか。土筆姫の意見を教えてください」
時峰に請われ、少し考えてから、土筆なりの推察を口に出す。
「三毛猫姫は、何らかの事情で明衡さまを足止めしたかったのでしょう。それも、出来ればまとまって数日の間。例の万葉集の詩からも、その意図は読み取れます」
「何らかの事情、というのは?」
「明衡さまは、話の中の姫様と何らかの繋がりがあったのではないですか? 姫には恋仲となった男性がいたはずです。そのお相手が明衡さまではないか、と思うのですが……」
地方で知り合い、理無い仲となった男。あれが明衡ではないか。明衡の記憶にも似たような姫がいたようだし。
「それは……正直、ありそうな話です」
大真面目に、時峰が頷く。
「であれば侍女は、明衡さまと主である姫を会わせないようにしたかったのではないでしょうか?」
理由は、明衡を慕う主人への嫌がらせ、とも取れなくはないが……
土筆は改めてそれぞれの証言に思いを馳せる。
三人の不幸な女と侍女。
妾は侍女を傍観者だと罵った。わざわざそんなことを話したのは、妾の口を借りて言っているだけで、実は彼女自身もそのことに罪悪感を持っていたのかもしれない。だから、主である姫を助けるために、明衡の足を止めに協力した。
「会わないように足止めさせる? 明衡は余程、その女性に酷いことをしたのでしょうか? あいつにしては珍しいことですが……」
すべからく女性に好かれる明衡に、会いたくない女性などいるのかと、驚いている。
「時峰さま。会いたくない理由は必ずしも、相手を嫌っているからだとは限りません」
これまで耳にした明衡の様子や、三毛猫姫の証言、振る舞いについて聞いているうちに、土筆は小野明衡という人間の魅力と、そして、どうしようもない短所ーーー欠けたる点に気がついてしまった。
それは、土筆のことを恋い慕ってくれた時峰がいたから、今、彼の寵愛を真っ直ぐに受けていると自覚しているから、分かったことだ。もし時峰に会わず、恋慕という感情を知らなかったら、理解できなかったかもしれない。
「私は……この度のお話を伺って、私が巡り会えたのが、想いを寄せてくださったのが、時峰さまで良かったと心の底から思いました」
突然変わった話題に、時峰は一瞬、虚を突かれたように「は?」と、数度瞬きをした。
それから、すぐに土筆の言葉の意味を理解して、「……そう言っていただけると、嬉しいです」と、珍しく照れた様子で答えた。
◇ ◇ ◇
もし、正直に話していたとしても、決して引き留められたりはしないだろう。
宮中の誰もが憧れる公達、小野明衡がそういう男であることは、初めから重々承知している。
いくら父が地方の国司を歴任していたとしても、都にいては一生出会う機会などなかった男。大柄な美丈夫で、品と色気が満ちている。そのくせ、無邪気に笑う姿がとても可愛らしい。
初めて明衡と床を共にした時、痣だらけの自分の身体は、惨めで恥ずかしかった。
そんな気持ちを慮ってか、明衡は優しく慈しむように抱いてくれた。
幸せだった。
自分に、このような幸せが訪れるなどと思いもしなかった。まるで夢のようだった。……それが、続かないと分かっていても。
明衡から「助けてやろう」と声をかけられたときには、一瞬、心が揺らいだ。
もしかして私は、一生この人の側にいられるのかしら。側にいても、いいのかしら。
だけど、すぐに思い直した。
そんなワケはない。
この人は……小野明衡という人は、誰に対しても平等に想いを寄せてくれる。誰のことも同じように大切にしてくれるし、優しく、愛しんでくれる。
けれども決して、たった一人を想うことのできない人だ。
彼には唯一無二がいない。
連理の枝も、比翼の鳥も、持たない人。
憎らしいほど当たり前に、そういう人なのだ。
本気で愛すれば愛するほどに、それが分かる。思い知る。この人にどれだけ思いを寄せても、私だけに同じものを返してはくれないのだと、嫌でも気づいてしまうのだ。
そして彼を愛した人は、独占欲も嫉妬も、いつの間にか捨てさせられてしまう。小野明衡は不思議な程に女性の恨みを買わない。
もし明衡に助けてもらったとして、その後はどうなるのだろう?
生きていくために困るようなことはないだろう。約束した以上、責任を持って衣食住は世話してくれる。
でも、深く愛してくれることはない。
他の女に愛を囁くな、ということではない。ただ、自分だけに特別な愛情を注いでほしいだけなのに、それが叶うことは絶対にない。誰もに配る、たくさんの薄い愛情を、同じようにくれるだけ。
この人を頼りに、この環境を抜け出すことで、自分の心が救われるとは到底思えなかった。
明衡のことが好きだから……だから、助けてやるという明衡の提案は、どんなに魅力的でも断るしかなかった。
なんとかして、自分自身で、この境遇から抜け出さなくては……ーーー
父を手に掛けたのは、単なる衝動だ。血と痣に覆われた母、酷く酩酊した父。心配して手を伸ばした母の横から追い抜くように、背を強く押した。
そして、そのまま一緒に池に飛び込み、藻掻く父の上から体重をかけた。苦しげに手足をバタバタと振る振動も、徐々になくなる抵抗も、今でも全て覚えている。
後悔はしていない。
あの場にいた母も侍女も妾も、初めこそは動転して互いを疑っていたが、すぐに犯人に気づいたはずだ。
だが、そこから先は、誰も何も言わなかった。
父が飲酒による事故として亡くなり、妾は家を出た。
母と二人で生きていくために、少し前に出会い、熱心に自分のことを望んでくれた地方の豪族の元に嫁ぐと決めた。
明衡を前にしたように、心が切なく震えることはない。それでも自分を大切にしてくれる男だと感じた。あの人となら、信頼を築き、穏やかに生きていけるだろう。
そのためには、明衡と別れなくてはならない。
もう二度と会ってはいけない。
そう決心したとき、心の臓が裂かれるように苦しくなった。怨霊にでもなって明衡の夢に現れてしまいそうだ。
もし少しでも引き止められたら、きっと抗えない。振り切って他の男の元へ行ける自信がない。それほどまでに小野明衡を恋い慕っている自分が恐ろしかった。
その不安を引き受けてくれたのは、侍女だった。
自分と同じ年頃だった侍女は、父が亡くなってすぐに、「今まで何も出来なくて、申し訳ない」と泣いた。皆の傷の手当てをしながら、生活のために、ずっと見て見ぬふりをしてきたのだと詫びた。
そして彼女は、自分が明衡を引き留めると言った。
明衡が決して現れないように、心を乱さなくて済むように、自らの持つ全てを使って引き留める。その間に準備を整え、家を引き払い、都を出ていくように言われた。
彼女は、ただひたすらに罪悪感から、好いてもいない男を引き留める役を担ったのだ。
一度は断ったが、結局、押し切られるようにして頼むことになったのは、そうしなければ彼女の気がすまないと分かったからだ。
それほどまでに彼女の罪悪感は根深かった。
渡せるだけの家財や着物を下げ渡し、侍女に礼と永遠の別れを告げた。
侍女が手を尽くしてくれた甲斐あって、無事に母と二人で都を出ることができた。
これから先の人生に小野明衡は要らない。
南の端の出る時、もっと身を裂かれるように辛い気持ちになるのだろうと思った。だけど、覚悟していたよりもずっと、心は静かだった。
一歩足を進めるごとに、都から離れていく。
もう二度と戻ることはないのだろう。
◇ ◇ ◇
忍び歩きに慣れた町で、小野明衡は目当ての家を見つけた。
少し前に火事があったが、今はほとんど復興しており、厄災の名残はない。
数日ぶりに訪れたのは、あの日、もし三毛猫姫に会わなければ、訪ねるはずだった女の家だ。
ようやく三毛猫姫からの連日の出題が全て終わり一段落したから、今日は別の女に会いにやってきたのだ。
「……随分と静かですね?」
訪いを告げた従者が、無反応な家に、戸惑うように首を傾げた。狭い家だ。聞こえぬはずがない。
「つい先日来た時には、確かに姫と母親がいたはずですが……ちょっと中の様子を確認してきます」
「あぁ、頼む」
明衡の命を受けた従者が、家の中に入っていく。外で待っていた明衡には、彼が帰ってくるより先に、なんとなく結果が分かっていた。
すぐに戻ってきた従者は、明衡が予想した通りに報告をした。
「おかしいですよ。誰もいません。全くの無人です。荷物も何もありませんでした」
探しますかと問う従者に、明衡は「いや、いい」と短く答えて踵を返した。
「あの謎かけは、やはり彼女のことであったか…」
ほろ苦い気持ちをため息とともに、小さく吐き出す。
三毛猫姫の出した謎は、中途半端に解けてしまった。
分かったのは、事件の犯人ーーではなく、三毛猫姫の「この問題を解けば、私のことが少し分かる」という言葉の意味。そして、この謎解き遊びの意図だった。
三毛猫姫の話に出てきた『姫』と、よく似た境遇の姫君に、以前、出会ったことがある。
公用で地方に足を伸ばした時のこと。偶然が重なったともいえるし、深い縁にたぐり寄せられたともいえるのだろう。
女は、元は都の生まれだが、国司を務めることとなった父について、彼の地にやってきていた。
父親が国司を務めているおかげか、生活にはそれなりに余裕があるようで、身分の割には上等な着物を身につけていた。
だが、その美しい着物と柔らかな襦袢を脱がせ、素肌を初めて目の当たりにした明衡は、目を瞠った。
肩や背、脇腹に痛々しいほどの青痣。暗闇の中、真っ白な肌に大きな墨を垂らしたように広がっている。
驚きに手を止めた明衡に、彼女は慌てて隠そうと身体を竦めた。「見ないでください」と消え入るような声で言った彼女の肩は、ぶるぶると震えていた。
先ほど、抱きしめた彼女を床に横たえようとした時、小さく抵抗するように明衡を押し戻そうとしたのは、そういうことか。「お目を汚して、申し訳ありません」と背けた顔に涙が伝う。
明衡は、震える彼女を慈しむように抱いた。
それから、何度か逢瀬を重ねた。そうしているうちに、姫の父の任期が終わり、彼女は都に戻ることになった。
都では、地方にいた時と違い、母親と一緒の部屋を使っていたから、前のように頻繁に会うことはできなくなった。
たまに父親が不在で、母親が寝静まった頃に、顔を出すくらいのことだ。
それも、彼女の父が再び遠方の任地に赴いたことで、途絶えていった。
家庭の境遇を案じた明衡は、「私が助け出してやろうか」と彼女に尋ねたことがある。
明衡からすれば、彼女と母の二人の面倒をみるくらい大した負担ではない。彼女たちのために手頃な家を用意し、衣食住を保証するのは容易い。
そう提案したら、彼女は少しだけ迷うような表情を浮かべた。
しかし、結局は首を横に振った。
交流がしばらく途絶えていた彼女と明衡が再会したのは、少し前のことだ。
彼女たちを虐げていた父親は、不慮の事故で亡くなったと教えられた。
「だが、そうか……何者かに殺されていたのだな」
三毛猫姫の話す『姫』が、彼女のことであることは、途中で気がついた。一方で、何故、三毛猫姫がこんな話をするのか、犯人が誰であるのかは、最後まで分からなかった。
まぁ、犯人に関しては誰であっても、構わないのだけれど。ただ、あの話がどのような決着をするのかを知りたくて、最後まで通ったのだ。
三毛猫姫の意図に気がついたのは、実に間抜けなことに、最後の日ーーー妾の話が終わったあとだった。
「やはり、近隣の家に聞いてきましょうか? 足取りくらいは分かるかもしれません」
思案に暮れている主を案じて、従者が再び聞いてきた。
「その必要はない」
明衡は即答で断った。
三毛猫姫とこの家の姫君がどのような関係だったのかは、分からない。
だが、何日にもわたって彼女の話をしたのは、間違いなく、自分を足止めするつもりだろう。ここに通わせないために、そうしたのだ。
「無理に引き留めたりはしないのだがな……」
彼女が嫌がるのなら止めたりしない。自分から離れた方が幸せになれると思っているのなら喜んで後押しただろう。
明衡の心に小さな寂しさがこみ上げた。
「いつもの、三毛猫姫のところに寄りますか?」
「……いや、今日やめておこう」
恋とは常に、明るく、楽しくあるのもだ。
小野明衡にとって、女の元に向かうのは、このように、なんとも遣る瀬無いような陰鬱な気持ちを慰めてもらうためではない。
明衡は小さく首を振ってから、ゆっくりと踵を返した。
今回の謎解き部分は、論理クイズです。
ここに当てはめて実際の証言を作る。という試みでしたが、いざ書いてみると、いろいろと不自然が出てきて難しかったです。
ちなみに、クイズに矛盾がないかチェックするために、生成AIに出してみたら、ものの数秒で正解でした。流石!なので、とりあえずクイズに矛盾はないはずです。
そして今回の話のメイン、小野明衡について。
明衡は、快活で男気があって、誰のことも虜にする公達なのですが、反面、誰のことも本気で好きにはならない人です。それを土筆は「欠点だ」と指摘しましたが、本人は気づいていないタイプ。彼を好きになった人は歯痒い思いをするけど、人間的な魅力が高いから憎めない。厄介。
明衡については、他にも考えている話があるので、書きたいなと思います。
そして、今回触れられなかった三毛猫姫の視点も、またどこかで。