第045話 二匹の妖狐
頭上の天窓より満月が見下ろす丑三つ時。二匹の妖狐が対峙をする。
片や齢一千を超える大霊狐、片やそれに輪をかけ齢経た強大な霊力を持ちし妖狐。
「然りとてこんな夜分に暴れて皆の眠りを妨げる必要もなかろうて。ここは一つ飲み比べで勝負といかぬかや?」
「……お前、何を企んでいる」
「さて、な」
殺気を抑える事も無く、しかしどことなく戸惑いの様子を見せるサキ、その詰問に対し肩を竦めシズカは泰然と応じていた。暫し無言で対峙し続ける両者であったが、不意にシズカがソファへと座り直した事により、些か張り詰めた空気に解れが見えた。そしてシズカは杯を取り、未だ目の前に立ち続けるサキへと言葉を投げかけた。
「まぁ、そうじゃな……ならば童に飲み勝てたその時は、童の知る全てを語るとしようぞ」
「――お前が勝った場合は?」
「なに、その場合も酒の摘まみとしてある程度は語ってしんぜよう」
「……はぁ?」
その言葉にサキの殺気が霧散……とまではいかないが大分和らぎ、代わって戸惑いの気配が色濃くなる。
それはそうだろう、亡くした筈の愛娘の容を取る不届き者が未だにその有り様のまま、どちらかと言えば旧知に対する接し方で会話を求めてきているのだ。常であれば腸が煮えくり返る状況である筈だが、怒りの着火点となるべきその仕草一つ一つが妙に胸を打ち、何故だか不快になる事も無いのだから。
「はぁ、とは何じゃ。どちらに転んでも汝に不都合はあるまい?」
「そりゃぁそうだけどさ。お前一体何しに…いや、本当に悪意が無いってんなら付き合わんでもないけどね」
「その辺りも追々語っていこうぞ。して、返答は如何にや?」
未だ戸惑いを残るサキに対しその眼を細め、シズカはまるで返事が分かり切っているかの如くニンマリと笑いかける。
「……扶祢に危害を加える意思は無いんだね?」
「それこそまさかじゃな。つい先日にも似た言葉を口にした覚えはあるが、可愛い身内を害する程に外道へと堕ちたつもりはないわ」
「もし、アタシを酔い潰してから事を起こそうってのなら――いや、無いか」
サキはそう言いかけ、しかしシズカの顔に浮かぶ明らかな落胆を見て取って思わずその言葉を飲み込んでしまう。一体何なんだこの気分は?と、答えの出ない自問をしながらも目の前の娘の似姿へと向き直るサキ。
「昔と比べ随分と弱気になってしまった様じゃな……これが心の傷を抱えてしまった母上殿、という事かや」
「……一々あの子の仕草を似せてくるね、お前。それだけは許し難いよ」
「――と、言いつつも口にする程には不快になってはおるまい?」
その問いかけ、いや確信を持ったかの指摘にサキは思わず息を呑む。
「動揺の気配が駄々漏れじゃな。元権現の名が泣いておるぞ」
「アタシはもう引退して悠々自適の身さ。にしても本当に何者だいお前……?」
「ま、童もお主の話を聞いてからでなくばまだ確証も持てぬ事であるしのぉ。猜疑心に囚われるのも詮方無い事かや……」
溜息を吐きながら、独白するシズカ。
「では、まずは酒の肴に昔語りといこうぞ―――」
童は平安の世とある稲荷の眷属神と汝との間に産まれ、暫くは汝の元で育てられた。あの男とは結局五十年も経たず喧嘩別れしたのじゃったか……その後父方へ預けられ、一通りの修行をこなした後に地狐となり、再びお主の下で御先稲荷の真似事に励んでおった訳じゃが―――
何?飲み比べじゃなくて既に話し始めてるじゃないかとな?……案外鈍いんじゃのぉ。飲み比べなど口実じゃ、童はただこの満月を眺めながらお主とゆるりと語らいとうのみよ。まぁ、この後に語る事には異論もあるじゃろうが、まずは最後まで聞いてはくれぬか?ほれ、一献……うむ。では続けるとしよう。
詳しい年号などは覚えておらぬがあれは九郎一行の時代じゃったか……あの夜にあの子が出かけるのを止めてさえ居れば、か――やはりそこじゃな、転換点は。まずは話を進めるとしよう。
あの夜、童はあの童天狗と出会い、以降十年程か……旅路を共にした訳じゃが。鎌倉の横暴見るに堪えず、最期は無惨なものよ。
彼奴の想い人は鎌倉方に囚われ、その落とし子は生まれ出でてすぐ母と引き裂かれ、浜にて沈められた。童は九郎の奴に護りとして乞われ彼の娘の影におったが、あの連中め落ち目となりかけていた陰陽師共まで連れ出しおってからに……見事に出し抜かれたわ。
当時の「静」の慟哭、恨みの念は凄まじく近隣の負の情を全て巻き込み鬼と化してしもうた。童も護り切れなんだ負い目を感じ、せめて隠に囚われた静を解放しようと試みはしたものの……引き換えに魂魄までに至る傷を負い、死線を彷徨う事となったのじゃ。
……言いたい事は解るがまずは全てを話し終えるでな。その後、偶然に通りかかったとある者の手により後遺症は残ったものの、かろうじて百年の後には再び動けるまでに傷も癒えた。そして更に二百年程の後、仙狐へと至り、恩人への恩返しの意味も込め世界を渡り始めることとなった――こちらの歴史からは姿を消したという訳じゃ。
「――とまぁ、その後様々な世界へ流れ着いて今に至ったのじゃ」
そう言ってシズカは話を終える。暫しの沈黙の中、シズカが傾ける杯の中の氷の音が響く―――
「……言いたい事は色々とあるがね。アタシの知っている『静』と、その『静』は別物だってことなのかい?だとすればアタシの静は……」
「ふむ、やはりその辺りに齟齬が生じておるか」
「――ならその齟齬ってやつを教えて貰おうかね」
「落ち着けぃ。本来童が『サキ』に対してこんな事を言うのは世界が終わっても有り得ん事ではあるんじゃが。少なくとも今現在童は汝には親愛の情がある。言うのも憚られる程の赤面モノの台詞じゃがな」
「えっ……?」
成程、本人の言葉通りシズカの顔色は心なし赤く染まっていた。シズカはそれを誤魔化すかの如くコホンと一息。そして―――
「この山荘への道行きにこの端末にて当時の状況を探ってはおったのじゃが、如何せん古い記録故な、詳細に不備が見られての。一つ確認をしたい。お主の言う『静』とは、童、いや……汝の娘の事かや?」
「……そうだね、アタシの娘。表向きは『静御前』と呼ばれた白拍子。叶わぬ恋に焦がれてしまい、人の悪意に飲みこまれ鬼と成り果てた、アタシの娘さ」
「やはり、か――」
サキの言葉を受けたシズカは納得した様子でそう零し、三度その場へ沈黙が降りる。二度目の沈黙と同じ程の時が、サキにより傾けられた杯の氷の音を響かせ流れていった。
「……さぁ、アンタの質問には答えたんだから、そろそろアタシの疑問も解消して貰っても良いんじゃないかねぇ」
「そうじゃな、大体は把握した。結論から言えば、童は汝の娘であって娘ではない――我ながら謎かけじゃな、これ」
「はァァ~またそのパターンかい。扶祢と言いお前と言いアタシの血筋は不思議ちゃん要素に塗れてんのかね……」
「言い得て妙、と言いたいところじゃが実際には悲しい現実じゃな」
「余計なお世話だよ……それで、具体的にはどういう事なんだい?」
既に先程までその場に満ち満ちていた殺意の空気は微塵も無く、二人は気軽な様子で語り合う。
「うむ。時に汝、ifについてどう思うかや?」
「if…って『たられば』とかのアレかい?」
「じゃな」
不意に話題の方向性が変わったシズカの質問に訝しがるも、サキは少し考えた後にはっきりと口にする。
「この世界にifなんてモノは有りはしないさ。過ぎ去った過去、それが全てさね」
「然り」
「……本当に何が言いたいんだいお前。いい加減腹が立ってきたんだけどさ」
「それは済まぬな。お主程ではないが齢を取るとどうにも話が長くなってしまうわ」
「アタシはそこまで長話好きじゃないよ」
「じゃったな」
そこでシズカは一度言葉を止め、瞼を閉じたまま天窓より二人を見下ろす真円へと顔を向けた。そして僅かな間気持ち良さ気にその淡い光を受けていた顔が、再びサキへと向き直り言葉を紡ぎ出す―――
「――この世界にifは有り得ぬ、道理じゃな。しかし、『この』世界では無いとすればどうじゃ?」
鋭い中にも温かみを含む、そんな視線をサキへ向ける。
「……まさか」
「では三度自己紹介と参ろうぞ。童は、『静御前』には成り得なかった世界、地元では『シズカさん』などと土地神の真似事をした事もあったの。御先稲荷筆頭として長らく拝された、空狐『サキ』の娘。天狐シズカじゃ」
そう宣言したシズカは定番のドヤ顔をサキへと向ける。その顔を見て、驚愕に染まり凍結しかけた頭の中のどこかで、あぁ…昔どこかでよく見た、扶祢とも似たドヤ顔。間違いなくこの子はアタシの娘だな、と納得してしまうサキであった。
「ちなみにじゃが、童の呼び名に漢字は充てられてはおらぬでな。静、ではなくシズカと呼んでたもれ?」
「そのあざとい首の傾げ方も、ええ…ええ…お前は間違いなくうちの娘のシズカだわ」
「理解してくれた様で何よりじゃ」
そう言いにぱっ、と笑うシズカの顔にサキの緊張の糸は完全に絶たれ、ソファへと深く埋もれてしまう。
「あ"~~無駄に力入れて損した……」
「ご愁傷様じゃな」
「誰のせいだい……」
「まぁ、本来の童の世界でのサキはもはや行き着く所まで行き着いて、妖怪婆という現象の一つと化しておるでな。不謹慎な言い方になるが、こちらの傷心で大人しい母上殿の方が余程好感が持てるというものじゃ」
「そっちのアタシは一体どんな化け物なんだか……でも空狐ってそんなに世界に呑まれるのが早いモンなのかい?だとするとアタシもそろそろ構えておかなくちゃいけないけれども」
サキの言う世界に呑まれるとはどういう事か。ここで妖狐の世界の格付けの大雑把な説明をするとしよう。
阿紫:1~100歳迄の狐さん、阿紫霊狐とも言う。まだ赤ちゃん~幼児並。モフモフラブリー。
地狐:100~500歳程の妖狐さん。皆大好き玉藻前さんもこの位。あまりよろしくない性質を持つと言われる野狐はどれだけ霊力が高くても、尻尾が多くても地狐止まりで次の位へ進むことは出来ないのです。
仙狐:500~900歳位、気狐とも呼ばれる。この位までは霊力に応じ尻尾の数が最大9本に増える。所謂お稲荷さん。
天狐:推定年齢1000歳超えの大ベテラン。尻尾は何故か4本固定になります。神通力超すごい!ぶっぱー!
空狐:天狐となって更に2000年を生きると(つまり3000歳以上)肉体の縛りから解き放たれ、現役としての御先稲荷を引退します。でも実は一番偉い。後は世界の機構として組み込まれ、いずれ新たな神の一柱へ―――
「呑まれるとは言うても彼方の糞婆曰く、世界に縛られ界渡りが出来なくなるだけで、即消滅といった訳ではないそうじゃがな。それも空狐に至った後数百年単位をかけて徐々に世界に浸透していくとの話じゃ」
「なんだ、じゃあまだまだ気にする事は無いのか。アタシが空狐に至ったのはつい最近だから身構えちゃったよ」
ほっとする様子のサキ。だがそれを聞いたシズカは思わぬ大事を聞いたといった真剣な顔になる。
「何じゃと…最近とはいつじゃ?」
「扶祢を産んで間もなくだから、大体十八年前位かねぇ」
「ほんに最近じゃな…その辺りにも齟齬がありよるか。彼方のサキは三百年前には既に成っておったが。それならば今から処置すればあるいは世界に縛られなくとも済むやもしれぬな」
「ほぅ、そりゃ有難い。有難いが…こっちの世界に干渉しちゃったりして良いのかい?」
「干渉と言うならば既に此処で童と母上殿が面しておる時点で干渉になっておる。文明レベルの極端な差異がある場合でもない限り多少の介入は別に禁止されてはおらぬでな。タイムトラベルの類をしとる訳でもあるまいし」
「そりゃ便利な事だねェ。ま、世界の縛りについてはまた今度聞かせて貰うよ。そろそろ夜明けも近いし」
「そうじゃな……結局出歯亀が六人程かや」
そう言いシズカはジト目で客間の外を睨み付ける。シズカとサキが話をしている間に、熟睡したピノピココンビ以外の全員が仲良く聞き耳を立てて居たらしい。
「あ、あはは……」
「ちーっす、面白い話聞かせて頂きました!あれですかね時空パトロールとかそんな感じですかね?」
「道理で色々世界を巡っていられたって訳かぃ」
そろそろ夜明けも近い時間帯だ。シズカは一つ可愛らしい欠伸をしてみせる。
「いい加減寝るとするかや」
「あいよー。アタシも今日は昼前までは寝てるからお前等朝飯抜きね」
「「「そんなー!?」」」
「いや、お前等たまには作りなよ……」
初夏のある日の夜明け前、山荘内はようやく眠りの時間へと―――
なお、『シズカさん』の呼び名は近所の悪ガキ共の悪戯への報復に追い掛け回したりして脅かしていたら、いつの間にか当時の都市伝説風に呼ばれてしまったらしいとのことです。




