第1話 陰と陽の転生
午後十一時四十七分。
駅前から少し離れたコンビニの自動ドアが開くと、真夏の蒸し暑さから逃げ込むように、葉亜渡麗緒が店内へ入ってきた。
「涼し〜……生き返る」
肩までの髪を軽くかき上げながら、そのまま迷わずアイス売り場へ向かう。制服のスカートは少し短めで、耳には小さなピアス。派手すぎないメイクに長いまつ毛がよく映えていて、学校ではかなり目立つ方だった。
男女問わず友達が多く、誰とでもすぐ打ち解ける。告白されることも珍しくなく、恋愛相談までよく持ち込まれる。
麗緒自身も、女心なんてだいたい分かると思っていた。
「バーゲンダッシュ、残っててよ〜」
今日のお目当ては、期間限定の濃厚ピスタチオ&キャラメル。
昼休みに友達が食べているのを見てから、ずっと頭に残っていた。
「……あった!」
冷凍ケースの奥に、最後の一個が残っている。
「勝ちじゃん」
麗緒が笑って手を伸ばした、その時だった。
「あ」
横から別の手も伸びてきた。
「え?」
顔を上げると、見覚えのある男子が固まっている。
「……田中?」
「……葉亜渡さん」
同じクラスの田中建だった。
前髪は少し長めで眼鏡をかけ、休み時間はだいたい漫画かスマホを見ている。クラスではかなり目立たない方で、麗緒とはまともに話したこともほとんどない。
「田中もこれ?」
「いや……僕は違うけど」
「じゃあ何?」
タケルは手に持っていた本を少し上げた。
漫画の最新刊だった。
「あー、今日発売のやつ?」
「……うん」
「こんな時間に買いに来たの?」
「売り切れるかもしれないから……」
「ガチじゃん」
麗緒は茶化すでもなく、素直に感心した。
「漫画めっちゃ好きなんだ?」
「まあ……」
「へー。なんかオススメある?」
タケルが目を瞬く。
「……僕に聞いてる?」
「他に誰いんの?」
タケルは一度、後ろを確認した。
「いや、マジで田中しかいないから」
「……ごめん」
「なんで謝んの?」
麗緒が笑うと、タケルはさらに困った顔になった。
「で、何系読むの?」
「えっと……色々」
「色々って一番困るやつじゃん」
「……ごめん」
「だから謝んなくていいって」
麗緒は笑いながらバーゲンダッシュを持ち上げる。
「これ欲しかった?」
「いや……値段見ようと思っただけ」
「買う気ゼロじゃん」
「うん……」
「じゃあ私のね」
「……うん」
「素直すぎ」
タケルが少しだけ笑った、その瞬間。
店の外から、腹に響くような低い音が近づいてきた。
ゴォォォォォ――。
「何?」
麗緒が窓の方を見る。
タケルもつられて振り返った。
道路の向こうから、やけに眩しいヘッドライトが迫っている。しかもその光は、まっすぐこちらへ向かってきていた。
「……え」
一台の大型ダンプカーが道路を外れ、そのまま歩道へ乗り上げる。
「ちょ、待っ――」
「葉亜渡さん……!」
「田中!」
麗緒は反射的にタケルの制服を掴んだ。
「伏せて!」
次の瞬間、凄まじい衝撃音とともにガラスが砕け、棚が次々と倒れた。照明が弾け、店内が白い光に飲み込まれていく。
その中で、麗緒が最後に思ったことは。
バーゲンダッシュ、食べてない。
だった。
◇
「……ん」
目を開けると、そこは一面真っ白だった。
「何ここ」
上も下も分からない。足元には確かに地面らしき感触があるのに、どこまで続いているのか境界が見えない。
「……葉亜渡さん」
「うわっ!」
隣を見ると、タケルがいた。
「田中!」
「……よかった」
「生きてるじゃん!」
「たぶん……」
「たぶん?」
麗緒は自分の身体を見る。傷も血もなく、制服すら綺麗なままだった。
「……あれ?」
「僕も、そう思ってた」
二人が顔を見合わせる。
すると、遠くから静かな足音が聞こえてきた。
やがて白い空間の向こうから、一人の男が姿を現す。長い髪を背に流し、白い衣をまとったその男は、穏やかな目で二人を見ていた。神々しい見た目なのに、妙に達観した雰囲気がある。
男は二人の前まで来ると、静かに口を開いた。
「よく来た」
麗緒はその顔を数秒じっと見た。
「……死の神きたじゃん」
「そのトートではない」
「え?」
「我が名はトート。知恵と記録を司る者」
「トートって死じゃないの?」
「それは別のトートだ」
「いるんだ、別に」
「いる」
「そこはちゃんといるんだ」
タケルが小声で割って入る。
「……僕たち、死んだんですか?」
トートは静かに頷いた。
「そうだ」
「マジで?」
麗緒が固まる。
「ダンプカーで?」
「そうだ」
「バーゲンダッシュ食べてないんだけど」
「これもまた宿命」
「アイスまで宿命にすんなよ!」
トートはまったく動じない。
「二人には、新たな世界へ赴いてもらう」
「転生?」
「そうだ」
麗緒の目が一気に輝いた。
「異世界じゃん!」
「……順応早いな」
「だって漫画とかであるじゃん。勇者とか魔法とか」
タケルも少しだけ身を乗り出す。
「どんな世界なんですか?」
「剣と魔法が存在する世界だ」
「ほら!」
麗緒がタケルの肩を叩く。
「王道じゃん!」
「痛い……」
「魔王とかいんの?」
「いる」
「ダンジョン?」
「ある」
「ドラゴン?」
「いる」
「完全に冒険RPGじゃん!」
しかしトートは、そこで静かに二人を見た。
「ただし、それだけではない」
「何?」
「行けば分かる」
「いや今言ってよ」
「己の道を進め」
「説明放棄じゃん!」
「これもまた宿命」
「便利すぎんだよ宿命!!」
その瞬間、二人の足元が眩しく光った。
「え、ちょっと!」
「葉亜渡さん!」
身体が浮いたかと思うと、そのまま真下へ落ちていく。
白い光に飲み込まれながら、麗緒の叫びだけが響いた。
「せめてバーゲンダッシュ食わせてぇぇぇぇぇ!!」
◇
「……ん?」
頬に冷たい感触があった。
麗緒がゆっくり身体を起こすと、そこは薄暗い洞窟の中だった。ごつごつした岩壁には淡く光る苔が生え、奥の方からは獣のような低い唸り声まで聞こえてくる。
「ほんとに異世界じゃん……」
そう呟いた瞬間、麗緒は止まった。
「……ん?」
声が低い。
違和感を覚えて喉に触れ、そのまま自分の手を見る。
「え?」
指が長い。
手の甲にはうっすら筋が浮き、女だった頃より明らかに骨張っている。
「は?」
慌てて身体を確認すると、着ているのは男物の服だった。身体つきは細身で、長い手足とすっきりした肩の線が、完全に男のものへ変わっている。
「ちょ、待って」
近くにあった水たまりへ駆け寄り、覗き込む。
そこに映っていたのは、高い鼻と涼しげな目をした、やけに整った男の顔だった。細身の体格に長い手足、さらりと落ちる髪まで妙に色気がある。
麗緒は数秒、水面を見つめた。
「……億プレイヤーホストみてぇじゃん!」
「……葉亜渡さん?」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、タケルが立っていた。
ローブをまとい、手には杖。服装こそ完全に魔法使いだが、顔はほとんど元のままだった。
「田中! ほら! トラック走ってんの見た事あるでしょ?!」
「……何の話?」
「顔ドーンって載ってるやつ! 新宿行かねぇーのか?!」
「いや……あんまり」
「あっ、アキバしか行かねぇか!」
タケルが少しだけ眉を寄せた。
「秋葉原行くし……最近は池袋も熱いよ?」
「急に詳しいじゃん!」
「普通に行くけど……」
「普通の基準がもうオタクなんだって!」
「……そうかな」
麗緒はもう一度、水面に映る自分を見る。
「てか顔強っ」
「自分で言うんだ……」
「いや言うでしょ。これ俺に言わせる?」
言ってから、自分自身が止まった。
「……俺?」
タケルも気づいたらしい。
「今、俺って」
「いやでもさ」
麗緒は水面に映る自分の髪をかき上げる。
「この顔で『私』は違くない?」
「そこなの?」
「今日から俺でいくわ」
「適応早すぎるよ……」
その瞬間。
頭の中に、機械的な声が響いた。
【転生者・葉亜渡麗緒】
【新たな名を設定します】
【レナード】
「レナード?」
麗緒――いや、レナードは少し考えたあと、すぐに口元を上げた。
「いいじゃん。売れてそう」
「何が?」
「名前」
「その基準なんだ……」
続けて文字が浮かぶ。
【職業:勇者】
「勇者!」
レナードが拳を握る。
「勝ったじゃん!」
今度はタケルの頭上にも文字が現れた。
【転生者・田中建】
【職業:魔法使い】
「……魔法使い」
「田中も当たりじゃん!」
「そうかな……」
「勇者と魔法使いだよ? もうパーティー完成してんじゃん」
「二人しかいないけど……」
「あと女の子仲間にしたら完璧っしょ」
「もうそういうこと考えてる……」
その時。
洞窟の奥から、低い唸り声が響いた。
暗闇の中から現れたのは、巨大な牙と爪を持つ魔物だった。赤く光る目が二人を捉えた瞬間、タケルの顔から血の気が引く。
「……あれ、たぶん序盤の敵じゃない」
「マジ?」
「かなり強そう……」
「じゃあ逃げる?」
「うん」
そう言いながら、レナードは腰の剣を抜いた。
「その前に一発だけ」
「なんで!?」
魔物が地面を蹴り、一気に飛びかかってくる。
レナードは反射的に剣を振った。
ズバンッ!!
次の瞬間。
巨大な魔物は、そのまま勢いよく吹き飛んでいた。
「……」
「……」
二人とも固まる。
タケルは倒れた魔物を見て、レナードを見て、もう一度魔物を見た。
「……強すぎない?」
「え、そう?」
「いや……今の絶対おかしいよ」
「勇者ってこんなもんじゃないの?」
「そんなわけないと思う……」
その時、洞窟の奥に光が灯った。
【最初の試練を突破しました】
【冒険システムを解放します】
「ほら!」
レナードが笑う。
「やっぱRPGじゃん!」
さらに、その下へ新しい文字が浮かんだ。
【恋愛システムを解放します】
「……ん?」
【攻略対象ヒロインとの好感度イベントが開始されます】
「……は?」
その下にも次々と文字が並ぶ。
【好感度】
【デート】
【選択肢】
【爆弾】
【個別ルート】
レナードが完全に固まった。
「何これ」
隣では、タケルも同じように画面を見つめていた。
だが次の瞬間。
その表情が変わる。
「……このゲーム」
「ん?」
「僕、やったことあるぞ……」
レナードの目が一気に輝いた。
「マジ?!」
「たぶん……」
「勝ったも同然じゃん!!」
「いや、そんな簡単じゃないんですけど……」
レナードは自信満々に胸を張った。
「前世女だし? 女心余裕ー!」
タケルは何とも言えない顔でレナードを見る。
「……そんな簡単じゃないんですけど」
「楽勝っしょー!!」
洞窟の中に、レナードの能天気な声が響いた。
この時。
彼はまだ知らなかった。
この世界で本当に苦戦するのは、魔王でもドラゴンでもなく。
女心だということを。




