ショッピング・オン・高天原③
隣のフロアに向かう通路からいくつもの足音が近づき、吹き抜けのホールに次第に人が集まり始めた。
僕は少し迷ってから、市長が座るベンチの反対側の端っこに座った。
「ずいぶんお疲れのようですね。よければお一つ」
意味深な笑みを浮かべた市長が手にした二本の缶ジュースの片方を差し出す。ちょっと迷ってから黙って受け取り、蓋を開けて一気に半分喉に流し込む。
本当は梨玖ちゃんを探しに行かないといけないんだけど、このまま立ち去るわけにもいかない。
高天原市長、菅原天命。僕をこの学園に導いた張本人。
この人には、聞かないといけないことがある。
どうして僕を推薦したのかっていうのもそうだし、そもそもどうやって僕のことを知ったのかっていうのもそうだ。
祖父ちゃん──「秋葉直哉」は十年前の終戦を最後に軍を退いて、拾った僕と一緒に東北の小さな村に引きこもって、神社の神主として一生を送った。
その間に高天原からは何度も招待があったみたいだけど、祖父ちゃんは全部断ってた。僕も横から手紙を盗み見たことがあるけど、内容は「秋葉大佐に後進の指導にあたって欲しい」っていうものばっかりで、僕のことなんかどこにも書いてなかった。
たぶんだけど、祖父ちゃんは僕の存在を高天原の誰にも伝えなかった。
単に必要がなかったからなのか、わざと隠そうとしたのかはわからない。だけど、高天原で会った人の中で僕と祖父ちゃんの関係について一度でも口にしたのは学園長だけで、他の先生や生徒は「秋葉神社」は知っていても、「秋葉直哉」や「御厨宗一郎」の名前に心当たりはないみたいだった。
なのに、この人は僕に名指しで入学許可証を送ってきた。
それも、祖父ちゃんが死んだすぐ後に。
「あの……市長は、どうして僕を高天原に?」
「大したことではありません。秋葉直哉氏にはお世話になりましたから、その恩返しですよ」
思わず瞬き。
そんな僕の隣で、市長は冷えたジュースの缶を蓋も開けずに手の中で転がし、
「直哉氏には東方戦線で何度も助けられましてね。……実は、生前の彼から相談されていたんです。自分に何かあったら、孫を頼むと」
「そう……なんですか?」
うなずく市長の顔を僕はまじまじと見つめる。はっきり言って、ものすごく怪しい。祖父ちゃんが誰かにそんなことを頼んでる気配はなかったし、もしそういう約束があったなら祖父ちゃんは僕に説明してくれてたはずだ。
だけど、じゃあ何のためにって言われたらわからない。僕は火之迦具土神しか呼べないちょっと変な神職見習い。僕みたいに学園に通わず田舎で修行してる子は少ないけどいないわけじゃないって先輩に聞いたことがあるし、そういう子の中にはもちろん式神とか符術とかもちゃんと使える僕より優秀な子だっていたはずだ。
わざわざ市長に名指しで招待される理由が、僕には思いつかない。
だけど、実際に僕の学費も生活費もあのとんでもない額の奨学金も、全部この人の指示で支給されてるわけで──
「おや、そろそろ始まりそうですね。せっかくですからご覧になってください」
市長の声に我に返る。見下ろすホールの中央、円形のステージに七色の光が灯る。
わあ、って歓声を上げる子供達の前で、光が集まってアニメ調の大きな立体映像を形作る。
電子合成された雅楽のゆったりとした音色。
映し出されるのは日本神話の一幕、伊邪那岐と伊邪那美の国産みの物語だ。
世界の始まり──「天地開闢」によってこの世界は天と地に分かれた。だけど、最初の大地は混沌としていて、生き物どころから神様でさえも降り立てる状態じゃなかった。
そこで神々は男女の神、伊邪那岐と伊邪那美に大地を安定させるように命じた。
二人、いや二柱の神は天沼矛でどろどろの大地を掻き回して最初の島「淤能碁呂島」を作り、そこで結婚して多くの神々と国そのものを産んだ。
これが日本誕生の神話──「国産み」だ。
十分くらいの短い映像が終わって、静かに見ていた子供たちが賑やかに話し始める。どうも、このステージでは特別なイベントがない時は決まった時間にこういう小さい子向けの映像を流すらしい。
祖父ちゃんと過ごした田舎にはもちろんこんなのなかったから、すごく新鮮だ。
「──御厨君は、日本神話はきちんと学んでいますか?」
と、急に隣の市長の声。
慌てて顔を向ける僕に、菅原市長は静かになったステージを見下ろしたまま、
「日本の神話を記した書物には『古事記』と『日本書紀』の二つがあります。合わせて『記紀』。実際にはこの他にも各地の伝承を記した風土記やそこにさえ残らない多くの言い伝えがありますが、まずこの二つが量子神道において最も重要な書物と言えるでしょう」
言葉が途切れる。
穏やかなくせにちっとも笑っていない二つの目が僕をまっすぐに射抜き、
「問題はここからです。──御厨宗一郎君。あなたは、古事記と日本書紀の最大の違いを知っていますか?」
「……えっと、もしかして天之御中主神の話ですか?」
奈良時代に編纂されたっていう最古の歴史書──古事記と日本書紀。この二つに描かれる世界創生の神話には実は大きな違いがある。
と言っても、僕がたった今見た国産みのあたりの話にはそんなに大きな違いはない。イザナギとイザナミの男女の神が天沼矛で混沌とした原初の大地をかき回して最初の島を作って結婚する。もちろん細かいエピソードの違いはあったり片方にしか出てこない神様がいたりするけど、大筋はそんなに変わらない。
問題はその前。何もなかった世界が天と地に分かれてどろどろの大地が生まれる件──すなわち「天地開闢」。
ここのところの展開が、実は古事記と日本書紀では全く違う。
「古事記だと、最初に現れるのが天之御中主神なんですよね? そこから続けて全部で五柱の『別天津神』が現れるけど、この神様たちは何も語らずにこの世を去って、大地は海に浮かぶクラゲみたいになったって」
「よく勉強していますね。……そうして、別天津神と入れ替わりに降臨したのが神代七代と呼ばれる神々。その一柱目が、高天原の全てのエネルギー、物資生産を司どる超巨大祈願プラント──主祭神『国之常立神』です」
最後は独り言みたいに呟いた市長が、ジュースの缶を人差し指の先で支えて器用にバランスを取る。
遠くで子供達が駆け出す足音。
無言で見つめる僕の前で、菅原市長は缶をくるりと手の中に収め、
「一方、日本書紀においては、世界には原初の混沌があったとされます。その混沌が陰陽に分離し、清浄な物が上昇して天となり、重く濁った物が留まって地となった。──これすなわち天地開闢。そして、この世界創生の最初に現れた神は、天之御中主神ではなく国之常立神でした」
「それは……」
思わず声。確かに祖父ちゃんもそんなことを言ってた。天地開闢の本当に最初の神様、天之御中主神は日本書紀には出てこないんだって。
でも、それってそんなに大事なことなの?
古事記も日本書紀も結局は天地開闢からずっと後になって人間が書き記した歴史書で、本当の神話をそのまま書いたわけじゃないんじゃ──
「高天原は国之常立神を主祭神として崇め、その神威を活用しています。もちろんそれは技術的な理由で、天之御中主神をはじめとした別天津神の神卸に人類は一度も成功していない。──ですが、私はもっと面白い解釈が可能ではないかと考えているんですよ。たとえば、素粒子の存在確率の揺らぎによって時間軸が分岐するように、神話のある瞬間において、この世は『天之御中主神が存在する宇宙』と『存在しない宇宙』に分かたれたのではないかと」
なんだそれ。
僕は思わず、市長の顔を見つめてしまう。
市長が言ってるのはたぶん量子力学の「多世界解釈」の話だ。
素粒子一つのほんの些細な動きの違いによって世界が無数に枝分かれして、可能性の数だけ様々な並行世界が生まれる。
昔の映画に時々出てくる「マルチバース」っていうやつ。
確か、純粋な物理学の分野では単なる式の解釈の間違いとして、とっくに否定されてるんじゃなかったっけ。
「よくわからないですけど……たとえば誰かが天之御中主神じゃなくて国之常立神に祈ったら、国之常立神を中心にした宇宙が出来たとか?」
「その場合、祈ったのは誰なのでしょうね」
市長は目だけは完全に無表情のまま小さく笑い、
「祈るとは名付けること、すなわち観測すること。もし天地開闢の瞬間を観測できる誰かがいたとしたら、その誰かは世界創生そのものをやり直すことすら可能なのかもしれません」
急に、背筋にぞわっと寒気が走る。
真っ暗な宇宙の真ん中に開いた大きな目。
網目みたいに枝分かれして広がり続けるたくさんの並行世界を外から見つめる誰か──
「なんて。どうです? ロマンチックだと思いませんか?」
「え……」
いきなり、笑いを含んだ声。我に返って瞬きし、市長の顔をまじまじと見つめてしまう。
さっきまでの冷たい目はそこにはない。
市長は冗談めかした様子で片目をつぶって見せ、
「そういうことがあったら面白いだろう、というただの与太話です。……人に話さないでくださいよ? 市長の正気を疑われては公務に差し支えますから」
立ち上がって腕時計を確認し、
「さて、そろそろ次の予定です。では失礼」
一方的に言い置いて、行き止まりのはずのホールを奥の壁へと歩き出す市長。
「ま、待ってください! あの、うちの祖父ちゃんとは……秋葉直哉とは友達だったんですか? 東方戦線って……!」
「直哉氏のことなら私などよりも学園長と、あとは軍事教練担当の篠村教諭にお聞きください」
市長は振り返りもせずにひらひら手を振り、
「今は目先の問題です。……尋ね人は、もうすぐそこですよ」
市長の指が僕の背後を──隣のフロアに向かう通路を示す。ほとんど同時に通路の方でざわめきが巻き起こる。
口々に囁き合う人々の声と、駆け寄るいくつもの足音。
振り返って、目を見開いた。
通路の真ん中、天窓から差し込む光に照らされて、オレンジの瞳の女の子が立ち尽くしていた。




