8.まだ遅くない
子供扱いをするなと何度言っても聞かない涼が「夏祭りに行こう」と言ったのは、祭りの日の当日だった。
こんな暑い日に出かけたくない、と言ってもそれを許さないのだから、どっちが子供なのだと言い返してやったが、聞きやしない。
でも、仕方ないと折れてあげた。だって、ベアトリクスは誰かさんのようにお子様ではないし、やることもなく暇だ。
そんなに言うなら付き合ってあげようと思ったのである。
それなのに、いざ出かけてみれば涼は仕事の電話に捕まってしまった。
空で手を縦に切るのは『ごめん』のことだと、ベアトリクスは知っている。
仕事は大事だ。しっかり励みなさいと小声で言って、彼が通話の為にその場を離れていく背中を見送る。
境内の前。
行き交う人々を観察しながら、ベアトリクスは涼を待つ。
幼い子供が父親らしき若い男に肩車されてはしゃぐ様子を見て、ふ、と口元が緩む。
不思議だ、普段なら目を背ける光景なのに。
喧騒の雰囲気が似ているせいだろうか。
まだ自分が幼かった時分に建国祭へ行った時のことを思い出す──両親と兄から逸れたベアトリクスをエヴァンが見つけてくれたのだ。
あの頃のエヴァンは優しかったし、ベアトリクスも今のように意地の悪いことを言うような子供ではなかった。幸のように、素直で明るい、普通の……。
「あれ、さっちゃん?」
ただ、分かる、と思った──目の前で、幸を愛称で呼ぶ花崎 凛恋という女の気持ちがベアトリクスには分かった。
要は嫉妬だ。
いい子だから。
しかもそれが飾っていない素のもので、失敗しても許されて、皆から愛されているから。
だから、貶めた。
「わー! 久しぶりだねえ」
「……そうね、久しぶり」
目の前に現れたら、言ってやろうと思っていた言葉はすんなり飲み込めた。というよりも、引っ込んだというのが正しいのだろうか?
ベアトリクスは、いつの間にか顎に指を当てていた。
今日は不思議なことばかりだ。
「帰省中?」
「……ええ」
あたしもー、と言って笑う凛恋に、ベアトリクスも笑顔を返す。
「あたし、ここから家が近いじゃない? 聞こえてくる祭り囃子が懐かしくて、一人で来ちゃった。同級生に会うかもーとは思ってたけど、まさかさっちゃんに会えるなんて思わなかったなあ」
もう昔のことだ。
蒸し返して、言い負かさなくてもいい。このまま、気安く手を降って幸のような笑顔で別れよう。そう思った。
怒りや恨みを、長く持つ必要はない。
きっと、これが正解だ。
「さっちゃんは? ……誰かと、待ち合わせ?」
てっきりすぐに離れていくと思った凛恋が、左右を一回ずつ見た後で問うてきたので視線を合わせたまま頷いた。
「もしかして、國光君と?」
「……え」
「なんて、ね。それはないかー。だって、さっちゃんは嫌われてるんだもん。気不味くって会えるわけないよね?」
「……」
「國光君言ってたもん。さっちゃんのこと、嫌いだって。大嫌いだって、言ってたもん。あはは! ねえ、何か言いなよ。あたしに言いたいこと、あるんでしょ?」
怯えて、怖がって、もしかしたらほんの少し後悔もしたのかも知れない。
ベアトリクスも、いつもエヴァンに対してそう思っている。
言い過ぎた、そこまで言うつもりなんてなかった、と。いつも、後になってから悔やむ。
八つ当たりして、酷く傷付けて、言い負かすことができれば悦に入って、嗤って、馬鹿にして、後悔して、それを繰り返す。
本当はそんなことしたくないのに。
「涼は、今仕事の電話中なの。休み中にもかかってくるなんて大変よね」
ベアトリクスは、先程の凛恋の言葉は聞いていなかったかのように振る舞った。
しかし、これはベアトリクスが優しさからとか、幸のように、振る舞おうと思ったからではない。
彼女を可哀想だと思ったからだ。まるで、自分のようだと思ったから。
凛恋のように嘘を吐いて計略にかけることはしていないが、気が付かないままだったらベアトリクスも同じことをしていたかも知れないと思ったから──許されて前に進みたい。そして、許したいと思った。
「二十一時に上がる花火でハートの形の、」
「あんたって、大人になっても相変わらずあたしを苛つかせる天才! ほんとムカつく! ほんっとに、大嫌い……っ!」
涼から二十一時にハート型の花火が上がると聞いていたので、話題にしたのだがまずかったのか。単に幸が嫌いな気持ちが溢れたのか。
もしくはそのどちらもかなのか。理由は不明だが、凛恋が物凄い形相を見せてきた。
「幸って、本当に嫌な女だよね。……そうやって余裕かまして、あたしのことを見下すのはさぞや楽しいことでしょ? ってか、何なの? ハートの花火のことわざわざ話題にしてさあ。どうせ『一緒に見たら結ばれるジンクス信じるあたしってば可愛い』的なこと考えて、計算で國光君誘ったんでしょ? なんで? なんで、あんたみたいな馬鹿ばっかり……っ!」
なんで! と叫びながら振り上がった腕を見つめたまま、ベアトリクスは兄のことを考えていた。
兄も、こんな悪意を向けられているのだろうか?
少数でも、いやたった一人からでも、こんな負の感情をぶつけられたら……そう思うと、後悔が襲ってくる。
心は、ままならない。
自分のものなのに、手足のように自由に動かすことができない。
体が傾いだ時、罰が当たったのだと思った。
そして直後、また後悔した──この体は幸のものだ。
「ごめんなさい」
幸に謝罪した言葉だったが、凛恋は自分に言われたものと勘違いしたのだろう。はっと、後悔を滲ませた瞳で彼女は手を伸ばしてきた。
しかし、伸ばされた手は届くことはなかった。
ベアトリクスは次に来る衝撃に備えて、目を強く瞑った。