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049:涙の地に咲く花

 蜂蜜パントリーの前に戻ると、野乃花の目に入ってきた蜂蜜があった。”菜の花”だ。

 成分中に占めるブドウ糖の割合が高いため、結晶化し易い菜の花の蜂蜜は、春先の気温ではまだ固まっていて、掬い取るのにやや力がいった。

 口に含むと力強い甘さを感じた。

 菜の花は見て美しく、食べて美味しく、そして、花からは蜂蜜、種からは油が取れる有用な植物だ。塩害にあった土地でも栽培できるという強さもあった。

 『孫娘の野乃花という名前は、菜の花をイメージしている』と三ツ橋宗助は人々によく語っていた。どんな厳しく辛いことがあっても、涙の地に花を咲かせ、人々を慰め、役に立つ。そんな人間になって欲しいという思いを込めたのだという。

 野乃花の母親は、それこそ薔薇とか百合のような華やかな名前を望んでいたので、その名を呼ぶのすら嫌っていた。夫が外で儲けた子どもの名前が由利だと知った時、さぞや口惜しい思いをしただろう。


「でも、私は好きだわ」


 そういう人間になりたかった。


『君はそういう人間だよ』


 菜の花の蜂蜜のビンを握る手に力が入る。それと同じくらいの力で心臓を鷲掴みにされたように痛んだ。

 北上東はいつも彼女を肯定してくれた。『そのままでいい』と言ってくれた。

 だが野乃花が欲したのは“そのままでは”得られない両親の愛情だった。今なら分かる。どれほど努力しても得られないものもあるのだということを。


「だったら……少しでも好きになってくれる人の為になりたかった」


 “三ツ橋の庭”に否定された少年に、野乃花は何をしてあげられただろうか。あれほど自分を肯定してくれた人間を、野乃花もまた否定してしまった。それに対し、彼は不平を洩らすことなく、やっぱり肯定してくれたのだ。おそらく、あの時の野乃花に、『君のご両親は何をしても君を愛することはないよ』とは言えなかったのだろう。言われても――「納得出来ないもの」

 野乃花は瓶を棚に戻した。今でも彼女の心はかすかな希望を残しているくらいだ。現に彼女の寝室には父親の通帳があるではないか。母親とはあれから一度も会っていないが、父親は少なくとも彼女を自分の新しい家庭に引き取ることに反対はしなかった。


「でも今は、まだ可能性のある方で頑張らないと」


 牛乳を温め、昨日と同じ夕食とも言えないものを食べてから、蜂蜜パントリーの前にブランケットと枕を持ち込み、そこで眠った。布団よりも蜂蜜に包まれて眠りたかったのだ。

 その日の夢は、甘い蜂蜜の中に囚われたと思ったら、いつしか琥珀に閉じ込められて、海の中を漂うというものだった。

 最後に、彼女の入った琥珀は海岸に辿り着き、大きな手で拾われた――。


***


 次の朝。

 星陵子の予想では野乃花は泣きはらした酷い顔をしているというものだった。アイシング用の保冷剤と蒸しタオルをそれぞれ、保冷温バッグに持ってきたというのに、野乃花は表情こそ固かったが、綺麗な顔で彼女と、一緒に来た片平光を招き入れた。 

 なんて可愛げのない子なのだろう。

 光は心から感心し、続く野乃花の行動に気を引き締めた。

 野乃花はハーブガーデンの作業には参加したものの、「モーニングの時間になりましたら、食べに下ります」と言って、ついてこなかった。

 出勤してきた名取は微妙な顔をした。


「どう接していいのか分かりません」


 「店長が接客して下さいよぉ」という名取りに「勉強になるから」と言い含め、『ティースプーン』は三度目の野乃花を迎えた。

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