048:土曜日の予定
生まれて初めて、野乃花は靴を脱ぎ捨てた。
一目散に蜂蜜パントリーに向かうと、その扉を開く。ずっと我慢してきた涙が、溢れ出すと思いきや、まったくその気配はなかった。
ずるずるとへたり込むと、今日一日の、いいや、昨日の分も含めた自分の行動を振り返った。「私、どうすれば良かったのかしら?」
***
電話が鳴った時も、野乃花は蜂蜜パントリーの前で動けないままだった。
かけてきたのはおそらく小野寺真人であろう。彼のことだ。出なければ、訪ねてくる。
「もしもし」
『こんばんは。元気?』
真人は変わらぬ様子で聞いてきた。
「ええ……元気よ」
野乃花も変わらぬ様子で答えた。虚勢を張るのは得意なのだ。あと、千切りも――か。どちらも中鉢由布子によって鍛えられた。とても役に立つ。
『どうしたの?』
思わず笑いをこぼした野乃花に真人は恐る恐る聞いた。彼は美波から野乃花に起きたことを聞いていた。笑う余裕はないはずだ。それでも笑っているということは、逆に危険な匂いがしたからだ。
「いいえ。なんでもないわ。
何かご用ですか?」
『いや……どうしているかな、と思って。今日は日帰りの出張で、お昼にお店に行けなかったから』
「お忙しいのですね」
時計を見ると、夜の七時だった。前日よりは早いが、それでも定時は過ぎている。
「今、お家ですか?」
『いいや、職場。今から帰る所。
どう? 夕食がまだなら……』
「課長さんはいつも私の食事を気になさるんですね」
『自分がそうだからかな。
とにかくお腹いっぱいになっていれば幸せ。
逆に空腹だと切ないね。
ちゃんと食べてね。それしか言えないけど』
「分かっています」
『明日は『おひるごはん』に顔を出せると思う』
「無理はなさらないで下さい」
『無理しないと、評判の定食は食べられないよ。そして、それだけの価値はある。
そうだろう?』
野乃花の気持ちをほぐそうと、真人は出来るだけ冗談めかして言った。
『そうだ野乃花さん、土曜日のこと聞いた?』
「え?」
『二×四ビルで採蜜作業をするよ』
「まぁ!」
五月になり、多くの花が咲き、ミツバチたちは盛んに蜜を集めていた。この一か月、ほぼ週一で二×四ビルのミツバチプロジェクト、『杜のミツバチプロジェクト』のメンバーが集まって、採蜜作業をしていたのだ。それが今週も行われることに決まった。
『明後日の土曜日の朝だよ。野乃花さん』
「――ええ、分かったわ」
真人は野乃花にそれとなくお願いした。明後日の土曜日までは、何があってもそこから逃げ出さないでいて欲しいと。
『じゃあ、明日……無理だったら、明後日ね。明後日は必ず行くから』
「はい」
電話を切ると、野乃花は息を吐いた。
これでもう、明後日まではここにいないといけない。どこかに行こうと思っていた訳ではないが、だからといって、ここに居続けるのも迷う。




