035:琥珀の見せる夢
部屋に一人で戻った野乃花の気分は満ち足りていたと言ってよいだろう。
今日一日、自分では上手く仕事をこなし、人の役に立ったと感じていたからだ。
自然と笑みがこぼれて、珍しく気持ちが浮き立っていた。
その気分のまま、朝と同じように耕之進の蜂蜜パントリーの前に立った。そこには変わらず、整然と並ぶ蜂蜜の瓶。
野乃花は祖父の形見の琥珀のブローチを取り出すと言った。
「おじい様。野乃花はここで頑張ろうと思います」
明日が、楽しみですらあった。
見ているうちに、野乃花は一日の疲れがどっと身に染みてきたのを感じた。これくらいの労働でへこたれるなんて情けない。『中鉢』ではもっと働いていたはずだ。けれども、どうにも立っていられない。
糸が切れたように座り込み、その内、パントリーの前の床の上で眠ってしまった。
***
野乃花は北上東に会った。すぐに夢だと分かったのは、彼の顔に傷が無かったからだ。傷が出来るずっとずっと前の北上東だ。
『野乃花ちゃん、泣いているの?』
『……泣いてなんか、いないわ』
嘘だ。本当は泣いていた。
『野乃花の側に来ないで。話しかけないで』
『ごめんね』
酷い事を言ったのは野乃花なのに、東が謝った。
『お母さまが!』
『?』
『あんな子と話すなって……!』
『怒られるの?』
野乃花は泣きながら頷いた。
母親と“祖母”は仲が悪く。“祖母”の倫子が偏愛する東を、母親は嫌っていた。
『そうしないと嫌われるの。
お母様に嫌われたくないの!』
薄い母親の愛情を繋ぎ止める為に、野乃花は懸命だった。だがその為に、別の誰かを嫌わなければいけないなんて、彼女の中で相容れないことだった。自分がそうであるように、東も傷つくだろう。
『いいよ。僕は平気だから。もう泣かないでいいんだよ』
『東兄様は野乃花が嫌いになってもいいの? 野乃花が嫌いだから? 東兄様も野乃花が嫌いなの? どうして皆、野乃花の事が嫌いなの?』
違うよ――。
顔に傷がある北上東が現れた。
僕は君を――。
***
子猫のように丸まって寝る野乃花を起こしたのは電話だった。
堅い床の上で寝たせいで、身体が強張り痛かった。下になった部分は痺れてもいた。琥珀のブローチを固く握りしめていたせいで、手の平に痕がついている。やっとのことで起き上がったものの、野乃花は電話の呼び出し音に怯えた。
誰だろう?
これは夢の続きで、電話を取ったら北上東が語りかけてくるのではないかと思えた。
切れてしまえばいいと願ったが、呼び出しはしつこいほどに鳴り続け、野乃花はついに受話器を上げた。
「はい……えーっと……二×四ビルです」
『もしもし、野乃花さん? 小野寺真人です』
「課長さん?」
優しい声が響き、野乃花は安心した同時に、なぜかガッカリした気分になった。




