036:乳と蜜の流るる地
さっきまで寝ていたことを、野乃花は知られまいと声を張った。「どうかしましたか?」
『ご飯はもう食べたかな? と思って』
「ご飯?」
『そうだよ』
野乃花はちらりと時計を見る。八時になろうとしている。二時間以上も眠っていた。
「まだ……」
『ちゃんと食べないと、駄目だよ』
それは優しい叱責だった。
「分かっているわ」
しかし、ちっともお腹が空いていないのだ。
『どこか一緒に食べに行くかい? 自分も今から家に帰る所だから、迎えに行くよ』
「課長さん、まだお仕事をしていたんですね」
今度は野乃花が咎めた。真人が参ったなぁという風に笑う。
『……そう。だからお腹が空いているし、自炊する気力もないんだ。
どこかに食べに行こう。おごるよ』
「今日は……もう外に出たくない」
『じゃあ、何か買ってきて届けてあげようか? コンビニのお弁当――いいや、どこかお店に頼んで牛タン弁当を作ってもらおう。昨日から食べそびれているんだ』
真人は無理強いをせず、自分が望む食事にありつけなかった顛末を交えながら、そう提案してみた。
「ありがとうございます。でも……疲れたのでもう休みます」
『そう? なんでもいいからお腹にいれた方がいいよ』
親が子どもを諭すような口調になっていた。もっとも、今日は朝も昼もしっかり食べたはずだ。一食抜いても、また明日の朝がある。
真人はそれ以上、五月蠅いことは言わないことにした。
「分かっています。だから課長さんも、美味しいものを食べて、家に帰って下さい」
『野乃花さんがそう言うなら、そうするよ。
心配してくれてありがとう。おやすみ』
野乃花の心配など、真人のそれに比べれば、社交辞令のようなものだったのに、彼はそれでも深く感謝した。野乃花は申し訳ない気持ちになり、約束を守ろうとした。
だが、どうにも出掛ける気分ではない。長いこと床に寝ていたせいで髪の毛はぼさぼさだし、顔には赤く跡がついている。おまけに、身体がだるい。寒気すらしてきた。
「風邪をひきそう……」
自己管理が出来ずに仕事初日に体調を崩すなんて……野乃花の顔色と気持ちは一気に青ざめた。
とにかく何か食べないと、と冷蔵庫を開けると、生鮮食品は入っておらず、米と小麦粉と基本的な調味料がポツンと置いてあるだけだ。冷凍庫は空だった。
あとは蜂蜜くらいしかない。蜂蜜だけは売るほどある。
「あ……」
もう一度、冷蔵庫を開けると、カチャカチャと脇のポケットに入っている牛乳瓶が存在を主張した。耕之進が注文している宅配の牛乳だった。野乃花が『ティースプーン』に助太刀に行った後、庭の手入れに残った『ビーガーデン』の星陵子が受け取って、入れておいたものだ。牛乳も新聞も、付き合いを兼ねて購買をしている事情もあるし、野乃花にだって必要なものだと判断して、休止することはしなかった。それが早速、役に立つ。
今日はもう、これを飲んで寝てしまおう。真人は『なんでもいいからお腹にいれるんだよ』と言った。ならば、これで十分だ。牛乳と蜂蜜だけで一ヶ月過ごす実験をした人もいるくらいだ。一晩だけなら問題ないだろう。
牛乳を温めている間に、パントリーから蜂蜜を選ぶ。どれにしようか迷って、今日一日、お世話になったアカシア蜜にした。
蜂蜜を舐め、温かい牛乳を飲むと、野乃花はお風呂に入って、今度こそ、きちんとベッドの上のふかふかの布団にくるまって眠った。
温かい牛乳と蜂蜜、そして、布団のおかげか、今度はよく眠れた。




