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032:意地と頑固

 『おひるごはん』の下膳は自主的なセルフサービスだ。美波一人では大変だろうと、客が勝手に下げにくるのだ。その時に、何気ない言葉を交わす。


「ごちそうさま。今日のポークジンジャーはいつも以上に美味しかったです」

「イチゴジャムも美味しかった! 今日、『ティースプーン』はイチゴフェアなんでしょう? いいなぁ、なんで平日にするの~? 仕事休みたい」


 美波は客達のそんな声に、明るく礼を言い、笑いながら返事をする。余裕のある客はゆっくりと食後のコーヒー、もしくは緑茶を飲みながら美波と会話をすることを楽しんでいた。

 用意した定食が全て出た後は、美波の手は空く。同じようにすり下すものが無くなった野乃花は無意識に食器洗いを始めていた。気が付いた美波は「あらあら」と思ったが、したいようにさせることにした。 

 朝に広瀬太郎が顔を出したように、野乃花が心配な小野寺真人も息せき切ってやってきたが、生憎、遅すぎた。美波の申し訳なさそうなバッテンのジェスチャーにがっくりと肩を落とす。せめて野乃花と話そうとしたが、当の本人が真剣に仕事しているのを見て、声を掛けることが出来なかった。美波の「せめてコーヒーでも、飲んで行きませんか?」という誘いを断り、昨夜の欲求に従い、牛タン定食を食べに『おひるごはん』を辞した。去り際、「野乃花さんのこと、よろしくお願いします」と頼むことは忘れなかった。

 その後、お目当ての牛タン屋にも行列が出来ていたので、時間内には戻れないと判断した彼は、結局、いきつけのカフェでオレンジジュースとサンドウィッチをテイクアウトして、自分のデスクで食べることになった。

 それでも朝には朝、昼には昼ごはんが食べられるのは幸運だ。

 野乃花はその二つの時間を逃していた。


「お腹空いたでしょう?

皿まで洗わせてしまってごめんなさいね。営業時間の前後ならいつでも昼食を食べていいのよ。お客さんが気になるのなら、六階に持っていって食べても構わない。広瀬様も、気分次第でそうなさっていたわ」


 野乃花用の豚肉を焼きながら美波は言った。


「朝ごはん、食べたばかりだったので、平気です。

それに私、あまりお腹が空かない体質なので」


 美波はほっそりとした野乃花の姿態を見ながら「それは違う」と思った。お腹が空かない体質なのではなく、空腹を我慢出来るように訓練されただけだ。由布子は自分の与えた仕事をこなさなければ、食事を与えなかった。

 同じ厨房でその働き振りを知っている料理人達は野乃花に同情的で、何くれと気にかけ、

食べ物も差し入れようとした。そんな時、由布子は声を荒げるような真似はせず、「自分で働けるくせに、人から施しを受けるなんて、恥ずかしい子ね」と軽蔑の籠った目で見るのだ。そうなったら、野乃花の性格上、受け取ることは出来ない。

 由布子は料理人達が野乃花の味方をするのも面白くなかったので、徐々に厨房の人間を取捨選択し始めていた。


「そう言えば、今度、『中鉢』に入った新しい料理人さん、随分と腕が立つのですって?」


 すり下したソースの材料を熱々のフライパンに流し入れたので、じゅうじゅうと大きな音があがった。美波はそれに負けじと声を上げた。


「大杉のことですか?」

「そうそう、確かそんな名前だったわね」

「とても斬新な料理を作るの。今風の新しい日本料理なんです。

面白いとは思いますし、雑誌やテレビで取り上げられて、新しいお客さんも増えています」


 内容とは異なり、野乃花の口調は、明らかに歓迎していない声音こわねだった。

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