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女王陛下の鍵

「停まれ! そこを行くのは誰だ!」

 高い声をした男性が叫びます。辺りはとても暗く、声の主の姿はどこにもありません。

「鍵だ!」

 地下の深くから響くような太い声の男性が応えました。やはり姿は見えません。

「誰の鍵だ!」

 再び高い声の男性が問いかけました。

「ヴィクトリア女王の鍵だ!」

 低い声の男性も淀みなく応じます。

「女王の鍵の通過を認める!」

 すると一斉に、複数の声が交じり合い、大音声となって闇に響きます。

「神よ、ヴィクトリア女王陛下を護らせ給え。アーメン!」

 声は闇に飲み込まれることなく、鐘の音のようにいつまでも鳴り響きました。


「ママ、そろそろ出発します」

 女の子の声で目が覚めました。

 いつの間にか寝ていたようです。喉が乾燥していました。

 闇の中で聞いたのは夢ではなく、あれはロンドン塔の鍵納め式の声です。時計の針はもう10時を回ろうかとしていました。

 エミリアの前に豪奢なドレスを着た二人の少女が立っていました。一人はピンク色のイブニングドレスを着たシャーロット。ドレスのウェストの位置が高く、背中から大きなリボンが垂れ下がっています。もう一人はシャーロットより背が頭ひとつ分小さいパトリシア。リボンとフリルがふんだんに盛られた純白のウェディングドレスを着ています。特徴的なおさげは帽子を被るためにおろされていました。

 今夜の哨戒飛行はシャーロットとパトリシアです。

「食事とコーヒー缶は忘れずにね」

「わたしが持っています」

 と、シャーロット。

「海軍からの気象情報は受け取ったわね」

「はい、雲量はありますが風はないようです。支障はありません」

 パトリシアは気象図が読めます。

「突風が多くなる季節だからくれぐれも気をつけてね。夜は冷えるからケープも持って行きなさい。さ、ママにキスして」

 レイヴンの最も重要な任務は、夜間における南イングランド上空の哨戒です。脆弱で速度も出ない飛行物が侵入してくるなら夜の闇に紛れるはずですから。

 出発はいつも鍵納め式が行われる夜の10時と決められていました。帰投は明け方5時。計7時間にも及ぶ長時間の飛行です。途中に休憩はするそうですが、夜の空を延々と飛ぶのは気が滅入りそうですし、なにより7時間も箒に跨がっているとお尻の痛みは尋常ではないでしょう。少女には過酷すぎる使命です。

 シャーロットとパトリシアを追うように、わたしも居間を出ました。眠たい目をこすりながら二人とは反対に階段を登ってホワイトタワーの屋上に出ます。冷えた夜の空気に体温を奪われて一瞬で眠気が消え失せました。

 寒さに震えながら南の空に目を凝らします。塔の下から二つの影が甲高い音を奏でながら浮上してきました。やがて音は遠く聞こえなくなり、シャーロットとパトリシアも夜の闇に溶けていきました。

 いつか私もこの夜空に向かって飛び立つ日が来るのです。不安で胸が一杯になります。けれどレイラが教えてくれた黄昏の空があるように、夜の空にもまだ闇の奥に神秘が隠されているかもしれません。もしそんな出会いが待っているなら、その出会いを幾多の希望の星の一つとして胸に抱いて大空を飛びたいです。


 居間に戻ると火が消えたように静まり返っていました。焼べられた薪の爆ぜる音が妙に大きく響きます。ルースとレイラはもう居ませんでした。暖炉の前で冷えた体を暖めていると、エミリアが居間に入ってきました。

「今夜は夜ふかしさんなのね。疲れてないの?」

 エミリアはわたしの隣に一度腰掛けると、何かを思い出したようにすぐ立ち上がりました。近くのテーブルで二つのカップに紅茶を注ぐと、一つをわたしに差し出します。

「ありがとうございます。屋上に行ったら目が冴えちゃって」

 カップを受け取り、甘い香りを放つ湯気を楽しみながら口に含みます。体のなかにじわっと熱が伝わると急に眠気が襲ってきました。

「暖まりますね」

「夜に塔を出る時は上着を足したほうがいいわ」

「はい、ロンドンの冬は寒いですから」

「ソフィーはロンドン育ちだったわね。あら、どうしたの?」

「訓練中にレイラさんにも同じことを言われました」

 レイラと一緒に見たロンドンの夜景を思い出しました。今こうして地上に煌めいていたあの一粒の光のなかにいることが急に不思議に思えてきました。

「あら、そんなことがあったのね。わたしもロンドンの冬はここに来てからなの。寒くて驚いたわ」

 昼間にあったことをぽつりぽつりとエミリアに話しました。エミリアは最後まで口を挟まず、ときおり相づちを打ち耳を傾けてくれました。

 肩を揺さぶられて目を覚ますと、エミリアの膝を枕にしていました。いつの間にか寝ていたようです。エミリアにおやすみのキスをして居間を去ります。エミリアは夜間哨戒に出ている魔女が帰投するまで居間から離れません。いつ寝ているのやら。

 部屋に戻るすがら、侍女の部屋に寄り、ドリスを呼びます。

「もう寝るの。お願いしていいかしら」

 侍女は二人おり、あと一人はイメルダです。イメルダとはあまり接点がありません。清楚で控えめなドリスに比べ、イメルダは明るく感情が豊かで積極的に話しかけてくるのでドリスより苦手なのです。そのイメルダは奥で書き物をしていました。

 ドリスと連れ立って部屋に戻り、足を忍ばせ中にはいります。

 ベッドではエセルとカースティが安らかな寝息をたてていました。互いの手をしっかりと握っています。ろうそくの繊弱な灯りに照らされた二人は天使そのものです。

 裸になりコンビネーションに着替えると、いつもと違う感触でした。しかもずいぶんと軽い。そしてネグリジェを羽織るとこちらも普段の元とは違い、ごわついてはおらず、肌理が細かく柔らかい肌触りです。手元はゆったりとしたレースの広い袖口。襟も同様にレースで装飾されてとても広く、丈は足先まで隠れるほど余裕を持って作られていました。このネグリジェはわたしの使っていたものではありません。

「これは?」

「エミリアさまからお誕生日の贈り物ですわ」

「うれしい……。とても着心地がいいわ。それに暖かい。でも、とても高そうだけど、貰っていいのかな」

 いままで着ていたネグリジェは、塔に来る前に居た病院で支給された粗雑な作りで、重いわりに暖かくなく、着心地も良くありませんでした。

「エミリア様はわたくし達にも誕生日にはプレゼントをしてくれます。だからソフィー様が気にかけることはないかと思いますわ。エミリア様も何を贈ろうか悩んでおられたようですし。気に入ってくださるならきっとエミリア様はお喜びになるでしょう」

「そうね……きっとそうよね」

「これはわたしく共から。遅れましたが誕生日おめでとうございます」

 ドリスがベッドの下から小さな箱を引きずり出しました。中からスリッパを取り出し、足元に揃えてくれます。

「これから寒くなりますので、足元を冷やさないようにと」

 スリッパは表面にサテンを使用した品の高いもので、内側は起毛されており気持ちよく、とても暖かいものでした。落ち着いた薄青色も感じがよく、選んだ人のセンスが伺えます。

「ありがとう。ドリスはいい物を選ぶのね」

「選んだのはイメルダですわ。イメルダも喜ぶでしょう。伝えておきますね」

 ドリスが去ると、部屋は急に静けさを増し、ときおり聞こえるエセルとカースティの単調な寝息以外は音と呼べるものはありません。

 一日の終わり、こうした静寂な場所に一人きりでいると様々な思いが頭を過ります。

「いろいろあったな……」

 今日の出来事を一つ一つ反芻しました。墜落はもう遠い過去のことに思えます。壁のない灰色の空、蒼い大海原、遥か彼方の地平に沈むオレンジ色の夕日、ロンドンの黄色に輝く町灯り、様々な情景が脳裏に再生されました。これだけ多くの事が一日のうちにあったとは自分の身に起きた事でありながら、にわかに信じ難いです。

 そうして何よりも一番の関心事はもちろんレイヴンへの採用です。

「もう後戻りはできないよね」

 わたしは過去に自分で決断したと呼べるものは記憶にありません。もちろん日々の生活における些細な選択、どの服を着ようか、なにから食べようか、誰と遊ぼうかなどは自分の意思には違いありません。けどその判断には決意と呼べるほどの重さはありません。言わんとしているのは、人生の行く末を決定するほどの重大な選択です。

 あまりにも自然にこの異常な世界に陥ってしまったがために、わたしは自分の身に起きたことの正確な輪郭を正しく認識してきませんでした。魔女になる前と同じく状況に流され続けていました。それがマスターの言葉の違和感であり、状況をすぐに飲み込めなかった原因です。

 この日のために辛い訓練を我慢という解決方法でこなしてきました。避けられない運命だったから、そうせざるを得ず、その対応方法の一つと言った方が正しいのかもしれません。望んで選んだ道でないしろレイヴン就任にはそれなりの達成感はあります。しかしその一方で自らを牢獄に閉じ込めてしまった後悔の念も押し寄せてくるのでした。いざ目的地に着いた時に沸き起こるこの相反する感情のせめぎ合い。どちらの気持ちにも傾かず心の奥でゆらゆらと動き続け、わたしを揺さぶります。

 折り合いのつかない気持ちこそ、時間が解決してくれるのかもしれません。

「なるようにしかならないか」

 今日はもう遅いです。時計は今日から明日へかわろうとしていました。

 ベッドに潜り、明かりを消すためにテーブルに手を伸ばすと、マスターから渡された任命書と警察官勤務規定、そして布の切れ端に目が止まりました。

「そうだ、しまっておかないと。ところでこれなんだろ」

 切れ端と思っていた物を延ばしてみるとそれはリボンでした。うっすらと文字が書かれています。裏返してみると”H.M.S. RAMILLIES”と刺繍がされていました。

「これ、ハットリボンだ」

 ハットリボンとは水兵の帽子を飾るもので、乗艦する船の名前が入ったもので、誇りとなるものです。本物を模したハットリボンが出回るくらい人気で、男の子はお気に入りの軍艦の名前が入ったものを買い求めるそうです。

 H.M.S.とはHer Majesty's Shipの略。英国海軍の軍艦を識別する名称です。ラミリーズは軍艦の名前ですがわたしは初めて目にする名前です。

「どうしてマスターがハットリボンを持ってるんだろ。それにどうしてわたしにくれたのかな」

 わたしがリボンをしていなかったから? でもマスターが女の子の、それもまだ数えるほどしか会っていないわたしの特徴を覚えているとは思えません。

「でもリボンの替わりにはちょうどいいか。それにハットリボンはセーラー服の一部だし」

 図々しくもリボンは髪を結ぶのに使うことにします。任命書と警察官勤務規定を戸棚に仕舞い、ベッドに潜り込みました。

「おやすみ」

 すやすやと眠っているエセルとカースティに声をかけ、ランプを消しました。まだまだ整理しておきたい考えや気持ちはありましたが、シーツを顎まで引き寄せると、どうでもよくなりました。いまはただ眠りたいのです。

 こうしてわたしは新たな人生を踏み出した夜、感慨も不安も消化することなく、深い深い眠りの底に落ちていったのでした。

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