夫が妹の卒業式に付き添う中、私は一人で緊急帝王切開――子どもを亡くした後も、家族は妹を祝っていた
プロローグ
破水した日、家族は全員、実家に集まっていた。夏帆は大学を卒業するまで両親と暮らしていて、卒業式は午前中に行われる予定だった。母は朝早くから皆を呼び戻し、「せっかく家族がそろうんだから、出かける前に写真を撮りましょう」と張り切っていた。拓海はすでに就職し、汐岬市内の別の地区で一人暮らしをしていたが、その日は朝から実家に戻っていた。私と悠人は結婚後、実家から数駅離れた2LDKの賃貸マンションで二人で暮らしていた。
高梨家の実家は、築二十年あまりの二階建ての一戸建てだ。悠人と着いた頃から、私は下腹部がときどき張るのを感じていたが、出産予定日が近いせいだと思っていた。ところが間もなく破水し、ズボンが大きく濡れた。夏帆は卒業式用の袴に着替え終え、母が髪飾りを直している。少しの沈黙のあと、悠人が時計を見た。
「美咲、あと二時間だけ待てないか? 夏帆の卒業式、もうすぐ始まるんだ。終わったらすぐ病院に連れていくから」
兄の拓海は隣でスマートフォンを掲げていた。画面には、たった今検索したばかりのページが開かれている。数行の説明を読んだだけで、家族全員が安心して出かけるための理由を見つけたような顔をした。
「破水しても、すぐ陣痛が始まるとは限らないって書いてある。しばらくかかる人もいるみたいだし、二時間くらいなら大丈夫なんじゃないか?」
両親はすぐにうなずいた。
「じゃあ、そうしましょう。病院に行けばちゃんと診てもらえるんだし、夏帆の大学の卒業式は一度きりよ。美咲は昔からしっかりしてるんだから、もう少しだけ我慢して。今日くらい、夏帆に心残りを作らせないであげて」
私は痛みで立っているのもやっとだった。
「私と赤ちゃんの命より、夏帆の卒業式のほうが大事なの?」
母は眉をひそめた。
「またそんな大げさなことを言って。誰も放っておくなんて言ってないでしょう? 二時間待ってって言ってるだけよ。夏帆はずっと今日を楽しみにしてたの。お姉ちゃんなんだから、一度くらい妹のことを考えてあげられないの?」
強くなっていく痛みをこらえながら、私は何も言わなかった。
子どもの頃、夏帆が私のおもちゃを欲しがれば、「お姉ちゃんなんだから譲ってあげなさい」と言われた。進学のときには、私のために用意されていた学費の一部が、夏帆の塾代や私立校の費用に回された。そのときも、「美咲は成績がいいんだから、奨学金を取れば何とかなるでしょう」と言われた。
そして今、破水して出産を迎えようとしている私にまで、家族は「美咲ならもう少し我慢できる」と思っている。
だったら、望みどおりにしてあげる。この家族は、もういらない。
1.誰も病院に来なかった
壁に手をついて玄関へ向かったが、私が帰ろうとしていることに誰も気づかなかった。悠人は夏帆の袴の襟元を整え、拓海はしゃがんで裾を確認している。父はカメラの明るさを調整し、母は「一番明るいところに並んで」と皆に声をかけ、出発前の家族写真を撮ろうとしていた。
私は一人で実家を出た。
高梨家から最寄り駅までは歩いて十数分かかる。塀に手をつきながらようやく大通りまで出た頃には、腹部の痛みはかなり短い間隔で押し寄せ、立っているのも難しくなっていた。ちょうど一台のタクシーが通りかかった。
運転手はバックミラー越しに私を何度か見て、すぐ安全な場所に車を寄せた。
「もしかして、破水してますか? 救急車を呼びますね」
119番につながると、運転手は指令員の質問に答えながら私の状態を説明してくれた。ほどなく救急隊が到着し、私はストレッチャーに乗せられ、汐岬中央医療センターへ搬送された。
分娩監視装置をつけて間もなく、助産師の表情が変わった。産科医がすぐに呼ばれ、胎児心拍と私の状態を確認すると、手術の準備を指示した。
「赤ちゃんの心拍が下がり続けています。胎児機能不全が疑われます。これ以上は待てません。緊急帝王切開に切り替えます」
看護師は術前の準備を進めながら、緊急連絡先を確認した。
「ご主人は今、病院に来られますか?」
私はスマートフォンを取り出した。
五回目で、ようやく悠人が出た。
「今度は何?」
向こうは騒がしかった。夏帆が「悠人さん、学位記ちょっと持ってて」と頼む声が聞こえる。私はスマートフォンを握りしめ、慌ただしく動く医療スタッフを見た。
「赤ちゃんの心拍がずっと下がってるの。今すぐ緊急帝王切開だって。病院に来てくれない?」
電話の向こうが一瞬だけ静かになった。
「美咲、今日どうしたんだよ。朝から痛いって言って、今度は赤ちゃんが危ないって? 今日は夏帆の卒業式なんだぞ。少しくらい待てないのか?」
「先生がすぐそばにいる」
「病院には医者も看護師もいるだろ。俺が行って何ができるんだよ。美咲は意識もあるんだし、必要なことは先生に任せればいい。夏帆は昨日の夜からずっと緊張してたんだ。卒業式なんて一生に一度だろ」
私は目を閉じた。
「私、あなたの妻だよ」
「分かってるよ。だから美咲なら分かってくれると思ってるんだ。ずっとしっかりしてきたんだから、今日だけ夏帆と張り合うのはやめてくれ」
私が答える前に、電話の向こうから若い女性の声が聞こえた。
「夏帆、その人彼氏? すごくかっこいい!」
夏帆が笑いながら否定すると、すぐ近くで別の誰かが冷やかした。
「でも、二人でいると本当にカップルみたい」
悠人は、なぜかそこで笑った。
「ありがとう」
私はスマートフォンを握ったまま、何を言えばいいのか分からなくなった。
「美咲、もう切るぞ。式が始まるから」
通話が切れた。
看護師はまだそばで待っていた。私はスマートフォンを置き、医師から手術と麻酔、考えられるリスクについて説明を受け、自分で同意書に署名した。
手術室へ運ばれる直前まで、スマートフォンは震え続けていた。家族のLINEグループには卒業式の写真が次々と送られてくる。星森国際大学の講堂前で、夏帆が花束と学位記を手にしていた。両親が左右に並び、拓海が正面で撮影位置を探し、悠人は夏帆のすぐ後ろに立っている。
一枚の写真では、悠人の手がごく自然に夏帆の腰に添えられていた。誰も写真の中に私がいないことを気にしない。私が今どうしているかを尋ねる人もいなかった。
悠人が、学位記を持った夏帆の写真を送った。
「夏帆、卒業おめでとう。こんなに頑張ってきた人の節目に立ち会えて、本当にうれしいよ」
私はその文章をしばらく見つめたあと、グループに一言だけ送った。
「じゃあ、離婚しよう」
2.このお粥さえ、私のためじゃなかった
家族のLINEグループが静かになったのは、ほんの三十秒ほどだった。
最初に電話をかけてきたのは母だった。私がどこにいるのかも聞かず、いきなり責め立てた。
「美咲、何を考えてるの? 今日が何の日か分かってるでしょう? 夏帆、あのメッセージを見て泣きそうになってるのよ」
私は手術前の待機スペースに横たわり、看護師が氏名とアレルギー歴を最終確認しているところだった。
「お母さん、私、今から緊急帝王切開なの」
電話の向こうで、母が少し黙った。
「病院には人がいるでしょう? 私たちは医者じゃないんだから、行っても何もできないわ。夏帆の卒業式は今日一度きりなのよ。それくらいで責めるつもり?」
続けて拓海からも着信があったが、私は出なかった。悠人からのメッセージも次々に届いた。言っていることは家族と同じだった。
「さっきのメッセージ、消してくれ。夏帆、もう写真も撮りたくないって言ってる。今日は夏帆が主役なんだ。どうして何でも自分のことにしようとするんだよ」
親戚たちまでグループで口を挟み始めた。「出産前で情緒不安定なんだろう」「こんな日に離婚なんて縁起でもない」「まず夏帆に謝ったほうがいい。せっかくの卒業式を台無しにするな」と好き勝手に言う。
私は数秒だけ画面を見つめてから、離婚のメッセージを削除した。
「分かった。今言うことじゃなかったね」
グループはすぐにまた賑やかになった。
いつも自分で飲み込んでくれる美咲が戻ってきた――皆がそう安心したように見えた。
看護師が私を手術室へ運ぶ準備を始めた。私は連絡先を開き、しばらく自分から連絡していなかった番号を押した。すぐにつながった。
「高梨?」
佐伯真理子は以前、私を直接指導していた上司で、今は蒼陵商事海外事業本部の本部長を務めている。結婚後、戸籍上の姓は神谷に変わったが、社内では旧姓の高梨をビジネスネームとして使い続けていたため、佐伯本部長も以前と変わらず私を高梨と呼んでいた。
「佐伯本部長、私です。前にお話をいただいたアルディナ現地法人設立プロジェクト、参加したいです」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
「あなた、もう産休に入ってるでしょう? 今どこにいるの?」
「病院です」
佐伯本部長の声色が変わった。
「美咲?」
看護師から、そろそろ通話を終えるよう促された。私は手術室の照明を見上げた。
「赴任は産後休業が明けて、医師の判断を受けてからにします。無理に早く復帰するつもりはありません」
佐伯本部長は、すぐに役職の話には戻らなかった。
「そこは人事に任せなさい。プロジェクト責任者の任命には正式な人事手続きと社内承認が必要だから、まずあなたの意思だけ伝えておく。今は自分と赤ちゃんのことだけ考えて」
「はい」
通話を切った。
麻酔が効くと、世界はすぐに暗くなった。
次に目を覚ましたとき、外はもう夜だった。赤ちゃんは出生直後の状態があまり良くなく、新生児科で数時間経過を見てもらっていたが、その後は少しずつ安定した。看護師が写真を見せてくれた。男の子だった。小さな顔をくしゃっとさせ、指は私の小指よりずっと細かった。
写真を見つめながら、私は初めて、私もこの子も生きているのだと実感した。
悠人が病院に来たのは、翌日の午後だった。
保温バッグを提げて病室に入り、私の顔を一度見ただけで、これでもう昨日の騒ぎは終わるとでも思っているようだった。
「もう怒るなよ。昨日の食事会で結構余ったんだ。夏帆が、美咲は唐揚げ好きだったよねって言うから持ってきた」
袋を開けると、唐揚げのほかに、濃い味つけの焼きそばと、冷めた総菜がいくつか入っていた。
「まだ普通の食事に戻していいって言われてないよ」
悠人がわずかに眉を寄せた。
病室の入口から母の声がした。中に入ってくると、テーブルの弁当を見てから私を見た。
「じゃあ、食べられるようになってから食べればいいでしょう。出産くらいで、今は病院が全部やってくれるんだから、家族みんながあなたに悪いことをしたみたいな顔をしないで。夏帆なんて親知らずを抜いた翌日には普通に食べてたわよ。あなたみたいに大騒ぎしなかった」
私は何も説明しなかった。
夏帆が親知らずを抜いたときは、家族全員で柔らかいご飯やスープを用意し、熱くないか確かめてから口元まで運んでいた。腹部を切開する手術を受けた私が今、水を飲んでいいのかどうかを気にかけてくれるのは、看護師だけだった。
夜になると、悠人がまた来た。
保温ボトルのふたを開けると、中には柔らかく炊いたお粥が入っていた。
「看護師さんに聞いたら、もう少しなら食べていいって。薄味にしてある」
ボトルを受け取った瞬間、鼻の奥が少し熱くなった。結婚したばかりの頃、悠人は本当に優しかった。私が熱を出せば夜中でも起きてお湯を沸かし、妊娠して足がつったときは、眠ったままのような顔で何十分も脚をさすってくれた。少なくとも悠人だけは、私の家族とは違う。ずっとそう思っていた。
そのとき、スマートフォンの画面が光った。
夏帆がInstagramを更新していた。
「お粥食べたいって何気なく言っただけなのに、こんなに時間をかけて作ってくれた。いつも気にかけてくれてありがとう」
写真に写っていたのは、私と悠人が暮らしていたマンションのキッチンだった。コンロの横に、まったく同じ保温ボトルが二つ並んでいる。
私は手の中の一本を見下ろした。胸の奥に戻りかけていた温度が、一気に消えていった。
このお粥さえ、私のためだけに作られたものではなかった。
3.先に出会っていたら、夏帆と結婚していた?
翌日の午前、夏帆が病院に来た。
卒業式の袴から淡い色のワンピースに着替えていた。私は産科の個室に入っていたため、夏帆は面会手続きを済ませてから病室へ通された。入ってくるなりベビーベッドのそばへ行き、赤ちゃんの小さな手に指先で触れた。
「ちっちゃい……」
悠人はその隣に立っていた。二人の肩が触れそうなくらい近かった。
しばらくして、悠人の同僚が見舞いにやって来た。菓子折りと出産祝いを手に病室へ入った彼の目に最初に映ったのは、ベビーベッドのそばに並ぶ悠人と夏帆だった。
「神谷、おめでとう。奥さん、もうこんなに元気なんだな」
夏帆が一瞬固まった。悠人にも聞こえていた。
二人は顔を見合わせたのに、すぐには訂正しなかった。
私は窓際のベッドから、その様子を黙って見ていた。結婚してから、悠人は会社の人に私を会わせたがらなかった。「美咲は自分の仕事だけでも忙しいんだから、俺の付き合いまでしなくていいよ」と言われ、私はそれを気遣いだと思っていた。今になってみると、本当にそうだったのか分からない。
同僚が帰ったあと、私は洗面所へ行った。
戻ってくると、病室のドアが少しだけ開いていた。
「悠人さん、もし最初に出会ってたのが私だったら……今日ここで赤ちゃんを産んでたのも、私だったのかな」
中がしばらく静かになった。
「そういうこと言うなよ」
「どうして? もしお姉ちゃんより先に私と出会ってたら、私と結婚してた?」
悠人は長い間黙っていた。ちょうど赤ちゃんが目を覚ましたのか、彼は抱き上げ、軽く背中をたたいた。
「もし先に会ってたのが夏帆だったら……たぶん、そうなってたかもな」
ドアノブに置いていた私の指が、ゆっくり離れた。
私は扉を押し開けた。
「神谷悠人」
二人が同時に振り返った。私が彼をフルネームで呼ぶのは、本気で怒っているときだけだった。悠人の顔色が変わり、夏帆も無意識に一歩下がった。
「美咲、そこにいたのか?」
私は悠人の前まで歩いた。
「この子が生まれて、まだ二日も経ってない。私の病室でこの子を抱きながら、私の妹に『先に会ってたら結婚してたかも』って言ったの?」
悠人は赤ちゃんをベビーベッドへ戻した。
「そういう意味じゃない」
私は手を上げ、彼の頬を叩いた。
大きな音ではなかった。それでも病室の空気は一瞬で止まった。夏帆がすぐ悠人の前に出た。
「お姉ちゃん、やめてよ。悠人さんは私の質問に答えただけじゃない」
私は夏帆を見た。
「どいて。今はあなたと話したくない」
私は赤ちゃんを抱こうと背を向けた。腕に抱き上げた瞬間、夏帆が私の腕をつかんだ。
「どうしてお姉ちゃんって、いつもそうなの?」
私はその手を振り払った。次の瞬間、夏帆は一歩踏み込み、私の肩を両手で押した。私が生まれたばかりの赤ちゃんを抱いていることを、正面から見ていたにもかかわらず。帝王切開からまだ二日も経っていなかった。腹部に力が入らず、私は簡単にバランスを崩した。背中が壁際の金属製ラックに強くぶつかる。
反射的に赤ちゃんを胸に抱き込んだ。それでも倒れた勢いで、赤ちゃんの頭がドア脇の金属製コーナーガードに当たった。
赤ちゃんが、鋭い声で泣いた。
すぐに廊下から足音が響いた。駆け込んできた看護師は、私の病衣の背中に血がにじんでいるのを見て、次に赤ちゃんを確認し、すぐナースコールで応援を呼んだ。何人もの医療スタッフが集まり、赤ちゃんは私の腕から引き取られ、私もストレッチャーへ移された。
悠人は真っ青な顔で後をついてきた。
「美咲、さっきのはただの話だって。俺と夏帆は、美咲が考えてるような関係じゃない。夏帆は人に頼るのが苦手じゃないっていうか……放っておけないだけだ。美咲は違うだろ。何でも自分でできるし、付き合い始めた頃から甘えたり、泣いて俺を引き止めたりしたこともなかった」
私はストレッチャーにうつ伏せになったまま、悠人を見た。
「付き合い始めた頃は、そういう私が好きだって言ったよね。今度は、それが私の悪いところになるの?」
悠人の足が一瞬止まった。
「今そんなに必死に説明してるのは、夏帆が私を押したからでしょう。私が夏帆を許さないのが怖いんだよね?」
今度こそ、悠人は何も言わなかった。
4.この子が生きたのは、四十八時間にも満たなかった
赤ちゃんはすぐにNICUへ運ばれた。
検査の結果は、最初に考えられていたより深刻だった。衝撃による頭蓋内出血が見つかり、医師たちは緊急処置を進め、必要に応じて手術や輸血用血液製剤を使えるよう準備を始めた。私の背中の傷も処置が必要で、別の処置台にうつ伏せになったまま、NICUの前を人が行き来するのを見つめるしかなかった。
医師が家族に状況を説明するため出てきたとき、夏帆が突然壁に手をつき、呼吸を速めた。
「息が……うまく吸えない。貧血かも……さっき血をいっぱい見たから、頭もくらくらする……」
真っ先に駆け寄ったのは母だった。拓海も夏帆のそばへ行く。悠人が夏帆の体を支えると、看護師はNICUのほうを見てから彼に声をかけた。
「赤ちゃんのほうがかなり切迫しています。お父さまは、こちらに残っていただけますか。医師から治療について、もう一度ご説明があります」
悠人はNICUの扉を見た。
夏帆の膝から力が抜け、悠人に体を預けた。
結局、悠人は夏帆を支えて別の診療エリアへ向かった。母と拓海がついていき、父も数秒迷った末、その後を追った。
誰一人、残らなかった。
私は処置台にうつ伏せになったまま、NICUのランプを見ていた。家族がいなくても、医師たちが治療を止めることはなかった。全員ができる限りのことをしてくれた。それでも、赤ちゃんは助からなかった。
生まれてから、四十八時間にも満たなかった。
医師が出てきたとき、私の耳に残ったのは一言だけだった。
「残念ですが……できる限りの処置をしました」
その夜、病室からベビーベッドが運び出された。ただでさえ広くない部屋なのに、そこだけぽっかり空いたように見えた。別の診療エリアから戻ってきた夏帆は、もう普通に歩けるようになっていた。母が寄り添い、拓海がバッグを持ち、父はまだ「気持ち悪くないか」と心配している。悠人は一番後ろに立っていた。
誰も、最初に私のところへ来なかった。
赤ちゃんは明らかな外傷を負った末に亡くなっていたため、病院は通常の病死として扱わなかった。病室周辺の防犯カメラ映像が保全され、所轄の汐岬警察署にも連絡が入った。その日のうちに警察官が病院を訪れ、私、悠人、夏帆、当時対応した医療スタッフから順に事情を聴いた。
防犯カメラには、はっきり映っていた。私が赤ちゃんを抱いていること。夏帆が私の腕をつかんだこと。私が振り払ったあと、夏帆がもう一度近づき、赤ちゃんを抱いていると分かったうえで私を押したこと。
警察はその場で夏帆を逮捕しなかった。身元も住居も明らかで、映像や病院の記録もすでに保全されていた。その後は在宅捜査となり、夏帆は任意の出頭要請に応じて事情聴取を受けることになった。
逮捕されなかったからといって、事件が終わったわけではない。
母は最初、その違いを理解していなかった。
最初の事情聴取が終わったあと、母は私の病室まで来て、声を落とした。
「美咲、夏帆だって赤ちゃんを傷つけようとしたわけじゃないのよ。かっとなって、ちょっと押しただけでしょう? 姉妹なんだから……本当に夏帆の人生まで壊すつもりなの?」
私は答えなかった。
警察の事情聴取が終わったあと、私は木暮法律事務所へ連絡し、赤ちゃんの死亡に関する刑事手続きと、悠人との離婚について木暮弁護士に相談することにした。その日、木暮先生もちょうど病室に来ていた。
木暮先生は手元の書類を閉じた。
「今、捜査されているのは、お子さんの死亡に関わる刑事事件です。今後どう扱われるかは、警察と検察が証拠を確認したうえで判断します。美咲さんが『許します』と言えば、事件そのものがなくなるわけではありません」
母の顔色が変わり、それ以上何も言わなかった。
その後の事情聴取にも、私は必要な範囲で協力した。捜査では防犯カメラ映像や診療記録、関係者の供述が確認され、赤ちゃんの致命傷と転倒時の衝撃との因果関係も調べられた。
出生届と死亡届のための書類を前にして、私は息子の名前を「湊」と決めた。
どこへ行っても、帰ってこられる港のような場所を持てる子になってほしかった。
けれど湊がこの世界にいたのは、二日にも満たなかった。
必要な確認と手続きが終わったあと、私は湊の葬儀を行った。
母はもともと、湊のお宮参りのあとに家族で食事をするつもりで、汐岬ベイビューホテルの小宴会場を予約していた。けれど湊がいなくなった翌日、私は病室の外で、母がその予約について話しているのを耳にした。
「今からキャンセルしても料金がかかるんだから、夏帆の卒業と入社のお祝いに使えばいいじゃない」
拓海はしばらく黙っていた。
「まだ警察の捜査中だろ。本当にやるのか?」
母は眉を寄せた。
「警察だって夏帆を逮捕してないじゃない。それなら、そこまでのことじゃないってことでしょう? 卒業も入社も人生の節目なのよ。事故があったからって、夏帆まで何もかも諦めなきゃいけないの?」
父も反対しなかった。
「捜査の結果は結果だ。会場はもう押さえてあるんだし、祝いは祝いでやればいい」
悠人は隣に立ったまま、何も言わなかった。
半開きの病室のドア越しにそこまで聞いて、私の心は不思議なほど静かになった。
結局、昔から何も変わっていない。夏帆が立っていられる限り、家族は彼女が前へ進むための理由を探してやる。私が何を失ったかは、最後まで優先されない。
退院後、私は実家には戻らなかった。悠人と暮らしていた2LDKのマンションにも、荷物を取りに一度戻ったきりだった。服、身分証、大学時代のもの、仕事の資料など、自分のものだけをまとめて持ち出した。
結婚式の写真は残した。悠人にもらったアクセサリーも置いていった。
そのあと、私は会社に通いやすい場所にマンスリーマンションを自分で借りた。
その夜、悠人はマンションへ戻った。
寝室のクローゼットは半分空になっていた。洗面台から私の化粧品が消え、本棚にあった専門書や資料もなくなり、玄関の靴箱には悠人の靴しか残っていなかった。
合鍵はダイニングテーブルの上に置いた。
悠人から十回以上電話がかかってきたが、一度も出なかった。
しばらくして、メッセージが届いた。
「どこに引っ越したんだ?」
私は一度だけ返した。
「しばらく自分で借りた部屋にいる。これからの連絡は木暮先生を通して」
悠人は、私が湊と夏帆のことでひどく怒っていて、しばらく家に戻りたくないだけだと思っていた。
マンションの賃貸契約もすぐには解約せず、離婚協議もまだ本格的に始まっていなかった。そのため悠人は、時間がたてば私が落ち着き、いつか戻ってくると当然のように考えていた。
産後三週目、佐伯本部長が私を訪ねてきた。
持ってきたのは、人事部門と経営会議の承認を経た正式な辞令だった。
「アルディナ共和国、ノヴィ港。蒼陵商事はそこで新しい現地法人を立ち上げる予定よ。あなたには設立準備プロジェクトの責任者を任せたい。産後休業中は実務をさせない。休業が明けて、医師から渡航に支障がないと判断されたあと、人事と相談して正式な赴任日を決める」
私は書類をめくった。
「少なくとも三年ですか?」
佐伯本部長は私を見た。
「少なくとも三年。現地法人の立ち上げが順調なら、そのまま現地責任者を任せる方針よ」
私は署名した。
佐伯本部長はすぐには書類をしまわなかった。
「ご両親と悠人さんは知ってる? 会社から説明したほうがいい?」
私は首を振った。
「まだ知りません。悠人は、私が海外事業本部で企画をしていることまでは知っています。でも、このプロジェクトの責任者候補だったことは知りません。両親は、私が蒼陵商事に勤めていることしか知らないです」
佐伯本部長は、それ以上聞かなかった。
5.家族は、初めて私が何者なのかを知った
湊が亡くなってから一か月あまり後、夏帆の祝いの席は予定どおり開かれた。
夏帆はまだ在宅捜査を受けていた。それでも母は宴席を取りやめようとしなかった。親戚には、「本当に大変な事件なら、警察がとっくに夏帆を逮捕しているはずでしょう。普通に家へ帰れているんだから、誰も望んでいなかった事故なのよ」と説明していた。
在宅捜査と刑事責任がないことは、まったく別の話だ。けれど、誰も母にそう言わなかった。
会場は、汐岬ベイビューホテルのままだった。もともと湊のお宮参り後の食事会に使うはずだった小宴会場は、夏帆の好みのシャンパンゴールドで飾り直されていた。
夏帆は新しいワンピースを着て、中央の席に座っていた。
母は会う人ごとに同じ話をした。
「夏帆、星森国際大学の経営学部を卒業して、四月から蒼陵商事グループの会社に入ったのよ。学生の頃から長期インターンにも参加していて、評価も良かったんですって。卒業と入社が重なったんだから、ちゃんとお祝いしてあげないとね」
親戚たちは次々と祝福した。
悠人は夏帆の隣に座っていた。酒が入った親戚の一人が、笑いながらからかった。
「神谷君と夏帆ちゃん、並んでると婚約のお祝いみたいだな」
夏帆はうつむいて笑った。悠人は、それでも訂正しなかった。
宴も半ばに差しかかった頃、ホテルのロビーに経済誌や報道各社の記者が増え始めた。様子を見に出た母は、興奮した顔で戻ってきた。
「蒼陵商事も今日、このホテルで記者発表をするんですって。夏帆、もしかして会社の人たち、あなたがここにいるって知ってるんじゃない?」
「お母さん、そんなわけないでしょ」
そう言いながらも、夏帆は無意識に髪を整えた。
やがてロビーの大型モニターに、隣の会場で行われている記者発表の中継が映し出された。
蒼陵商事が新たな海外事業計画を発表していた。壇上には役員と海外事業本部の幹部が並び、宴会場にいた何人もの人が箸を止めて画面を見た。
画面の下に見出しが出た。
蒼陵商事、アルディナ現地法人設立プロジェクトを始動。
続いて、プロジェクトの責任者が表示された。
一番上に出た名前は――
現地法人設立準備プロジェクト責任者 高梨美咲。
宴会場から音が消えた。
最初に固まったのは母だった。
「高梨……美咲?」
夏帆も画面を見上げた。悠人はすでにスマートフォンを手にしていた。
中継では、佐伯本部長が記者の質問に答えているところだった。
「高梨は長年、海外事業企画に携わり、当社の複数の海外市場プロジェクトにも参加してきました。本件についても以前から責任者候補の一人でしたが、個人的な事情により一度赴任を見送っています。正式な赴任は所定の休業期間終了後、本人と人事部門で調整し、健康面に問題がないことを確認したうえで行う予定です」
画面が切り替わり、会社で撮影した私の写真が映った。
母はグラスを持ったまま動かなくなった。
親戚の一人が私だと気づいた。
「これ、美咲ちゃんじゃない?」
誰も答えなかった。
母は急に夏帆を振り返った。
「美咲って、ずっと海外関係の企画をやってたんじゃなかったの? いつプロジェクトの責任者になったのよ」
夏帆の表情も固まっていた。
「私だって、お姉ちゃんが海外関係の企画をしてることしか知らないよ……責任者候補だったなんて聞いてない」
悠人だけは、母ほど何も知らなかったわけではない。
私が海外事業企画の仕事をしていることも、以前いくつかの海外案件に関わっていたことも知っていた。ただ、その瞬間になってようやく思い出したのだ。妊娠する前のある夜、私は一度だけ、会社から海外の新規プロジェクトを任されるかもしれないこと、赴任すれば三年ほどになる可能性があることを話していた。
そのとき悠人は、夏帆から届いたLINEに返信しながら、顔も上げずにこう言った。
「今、妊娠してるんだろ。そんな大変なこと、わざわざやらなくてもいいじゃん」
それきり、私はその話をしなかった。
悠人はスマートフォンを開き、一か月以上前に私が送った最後のメッセージを探し出した。
「しばらく自分で借りた部屋にいる。これからの連絡は木暮先生を通して」
悠人の顔から、ゆっくり血の気が引いていった。
母がとうとう耐えきれずに尋ねた。
「美咲が外国に行くなんて、いつ聞いたの?」
悠人は長い間黙っていた。全員の視線が集まる。
「前に一度だけ。妊娠する前、美咲が言ってた。会社から海外に三年くらい行く話があるかもしれないって」
母は目を見開いた。
「じゃあ、どうして私たちに言わなかったの?」
悠人は答えなかった。
今日まで彼自身が、その話を大事なことだと思ったことすらなかったからだ。
宴会場にはまだ音楽が流れていた。
誰も口を開かなかった。
その日から、家族の「美咲を探す」という行動の意味が変わった。それまで悠人は、私が家を出たことを夫婦げんかの延長だと思い、いずれ戻ってくると考えていた。ところが海外赴任が公表され、初めて私は本当に戻らないつもりなのだと理解した。
悠人は会社の近くまで行き、以前会ったことのある同僚にも連絡した。拓海も心当たりを探し、母はすでに使われていない私の番号へ何度も電話をかけ続けた。それでも誰一人、私の住所も、正式な赴任日も知ることはできなかった。
分かっているのは、所定の産後休業が終わり、医師から渡航に問題がないと判断されたあと、私がアルディナへ向かうということだけだった。
祝いの席から二週間ほどたった頃、夏帆は再び汐岬警察署から任意の出頭を求められた。
その日、帰宅した夏帆の顔色は悪かった。
警察は主要な証拠の整理を終え、傷害致死の疑いで事件を汐岬地方検察庁へ送致したという。これから検察官が改めて証拠や供述を確認し、起訴するかどうかを判断することになる。
母が本当に慌て始めたのは、そのときだった。
「逮捕されてないんだから大丈夫だって言ってたじゃない……」
夏帆は何も言わなかった。
そばにいた悠人が短く笑った。
「誰が、逮捕されなければ何もないって言ったんですか」
母は口を開いたまま、何も返せなかった。
その日、実家のリビングでは誰も夏帆をかばわなかった。
さらに数週間が過ぎた。
産後休業が明け、診察でも長距離移動に支障がないと判断されたあと、会社の人事部門と相談して正式な赴任日が決まった。
その朝、私はスーツケースを引いて汐岬国際空港へ向かった。以前使っていたSIMはすでに解約していた。搭乗前、予備の端末からカードを抜き取り、二つに折って捨てた。
これから私を確実に探せるのは、会社と木暮先生、それから私自身が連絡先を知らせたいと思った人だけだ。
シートに背中を預けると、傷跡がまだ鈍く痛んだ。帝王切開の傷も完全には消えていない。それでも、あの日より体はずっと回復していた。
飛行機が滑走路へ向かい始めた。
窓の向こうで、汐岬の街が少しずつ遠ざかっていく。
「美咲はしっかりしてるから」「お姉ちゃんなんだから、夏帆に譲ってあげて」
「美咲なら一人で大丈夫」
もう、どれも私には関係なかった。
6.今度は、誰も夏帆をなだめなかった
美咲がアルディナへ向かう頃、高梨家の空気はすっかり変わっていた。
悠人は以前のように夏帆へ話しかけなくなった。母も、夏帆の目が少し潤んだだけですぐ慰めに行くことはなくなった。事件が検察庁へ送致されて初めて、家族全員が理解したのだ。あの日、病室で起きたことは、葬儀が終われば消える話ではなかった。
ある日、悠人は湊が救命処置を受けていた日のことを思い出した。
夏帆が別の診療エリアへ移るとき、自分のバッグと検査結果の説明用紙を悠人に預けていた。その紙はずっとバッグの内ポケットに残っていた。
そこには当時のバイタルサイン、簡単な検査結果、医師の所見が記載されていた。
貧血を示す所見はなく、緊急治療を必要とする異常もなかった。
最終的な記録は、強い緊張に伴う一過性の過換気で、経過観察後に症状は軽快、となっていた。
悠人はその紙を持って高梨家へ行った。
「夏帆。あの日、本当に俺がついていかないといけないくらい具合が悪かったのか?」
夏帆の表情が固まった。
「本当に苦しかったの」
「何ともなかったなんて言ってない。でも、あのとき湊はまだ助かるかどうかって状態だった」
夏帆は唇をかんだ。
「だって、お医者さんはずっと赤ちゃんのところにいたじゃない」
言い終えたところで、夏帆自身が口を閉じた。
ちょうど母がキッチンから出てきた。
「何の話?」
悠人は検査結果の紙をテーブルに置いた。
母は長い間、それを読んでいた。
「夏帆、あの日、貧血かもしれないって言ってなかった?」
「貧血だって決まったなんて言ってない。頭がくらくらしたし、血を見て怖かっただけ」
拓海も部屋から出てきた。
今度は、誰も真っ先に夏帆を慰めなかった。
悠人は夏帆から目をそらさなかった。
「看護師さんは、俺に残ってくれって言ったんだ。湊はまだ生きてた。それなのに夏帆が苦しいって言った途端、俺たちは全員そっちへ行った」
夏帆が一歩下がった。
「だからって、私たちが離れたせいで赤ちゃんが亡くなったわけじゃないでしょ」
リビングが静まり返った。
その言葉自体は間違っていなかった。
湊の死因は、転倒時の衝撃による重い頭部外傷だった。家族がその場に残っていれば必ず助かったなどと、医療スタッフは一度も言っていない。
それでも皆が黙り込んだのは、別の理由だった。また同じ選択をしたからだ。
湊が生死の境をさまよい、美咲は帝王切開の直後で、背中から血まで流していた。
それでも全員が最初に囲んだのは、夏帆だった。
母はソファに座り込んだ。
「美咲って……小さい頃から、一度も私たちに何か欲しいって言わなかったっけ?」
拓海は答えなかった。父も黙ったままだった。
このときになって初めて、家族は気づいたのかもしれない。美咲は最初から「何も必要としない子」だったわけではない。
何かを求めるたびに返ってきた答えは、いつも同じだった。
「あなたが我慢して」「お姉ちゃんなんだから譲ってあげて」「今は夏帆のほうが大変なんだから」
だから、いつからか美咲は何も言わなくなった。
検察官はその後も、関係者や証人から追加の事情聴取を行った。
美咲はアルディナにいたため、木暮先生を通じて検察側からの追加照会に応じ、必要な資料や供述書を提出した。数か月後、汐岬地方検察庁は、夏帆を傷害致死罪で起訴した。
知らせを受けた日、母は長い間座ったままだった。
最後に一言だけ尋ねた。
「本当に……裁判になるの?」
誰も答えなかった。
もう、家族の誰かが「許す」と言えば終わる段階ではなかった。
7.飛行機が飛び立ったあと
美咲が正式にアルディナへ赴任する日、家族は空港まで追いかけてきた。
出発前、木暮先生は美咲の依頼を受けて悠人に連絡し、離婚条件についての協議を始めていた。木暮先生が便名を教えることはなかったが、悠人は蒼陵商事が公表したプロジェクトの開始時期から、美咲がその数日のうちに出国すると考え、二日続けて空港へ通った。
二日目の午後、出発案内にアルディナ・ノヴィ港行きの便を見つけた。
悠人は拓海と両親を連れ、国際線の出発フロアへ駆け込んだ。
保安検査場の外までたどり着いたときには、表示はすでに変わっていた。
搭乗終了。
悠人は規制線の外から係員に声をかけた。
「神谷美咲です。さっき中に入りませんでしたか?」
係員は首を横に振った。
「申し訳ありませんが、お客さまのご利用状況についてはお答えできません」
悠人はスマートフォンを取り出したが、以前の番号はすでに使われていなかった。
母は急いで走ったせいで片方のヒールが折れ、靴を脱いで裸足のまま空港の床に立っていた。拓海は腰に手を当てて息を整え、父は少し離れたところで無言のまま立っていた。
大きなガラス窓の向こうでは、一機の飛行機がゆっくり滑走路へ向かっていた。
それが美咲の乗った便なのか、誰にも分からなかった。
そのとき、悠人のスマートフォンが鳴った。
木暮先生からのメールだった。
離婚協議書の案が添付されており、財産分与、家財や賃貸借契約の整理、そのほかの離婚条件がまとめられていた。内容について合意したあと、協議離婚に必要な離婚届を提出するという流れも記されていた。
続けて、美咲の新しい番号からメッセージが届いた。
「後悔しても、もう何も戻らないよ」
悠人は画面を見つめた。
数秒後、もう一通届いた。
「離婚のことは木暮先生と話して。湊はもういない。私たちの間にも、続けなきゃいけないものは残ってない」
隣にいた拓海にも、その文章が見えた。
拓海は突然、自分の頬を強く叩いた。
乾いた音に、通りかかった何人かが振り返った。拓海はその場にしゃがみ込んだ。
「あの日、調べたの俺なんだ」
母が拓海を見た。
「何を?」
「美咲が破水した日。スマホで調べて、破水してもすぐ出産になるとは限らないって……だから、二時間くらいなら本当に大丈夫だと思った」
誰も拓海を慰めなかった。
悠人はガラス越しに滑走路を見つめながら、何年も前、初めて高梨家で食事をした日のことを思い出した。
あの日、夏帆が「いちごが食べたい」と言った。
母はすぐ一皿分を洗い、全部夏帆の前に置いた。
向かいに座っていた美咲には、一粒も残らなかった。
当時の悠人は、姉妹の間ではよくあることだと思った。
その後も似たようなことは何度もあった。
悠人はずっと見ていた。そして、ずっと何もしなかった。
出発案内の表示が変わった。
出発済み。
窓の向こうで一機の飛行機が空へ上がり、やがて雲の中へ消えていった。
悠人はその場に立ち尽くした。
しばらくして、ようやく一度だけ名前を呼んだ。
「美咲!」
返事はなかった。
8.MINATO
半年後。
悠人は木暮法律事務所で、離婚に必要な最後の書類を確認していた。
財産分与などの条件については、双方がすでに弁護士を通じて書面で合意していた。協議離婚に必要な離婚届も用意され、成人二名の証人欄にも署名がそろっていた。
悠人は最後の確認箇所に署名した。
その足で汐岬市役所へ向かった。
離婚届は受理された。
その日を境に、美咲と悠人は法律上も夫婦ではなくなった。
市役所を出て間もなく、悠人のスマートフォンに経済ニュースの通知が表示された。
見出しには、こうあった。
『蒼陵商事、アルディナ現地法人が本格稼働――現地責任者・高梨美咲氏に聞く』
悠人は歩道の端で立ち止まり、結局その記事を開いた。
写真の美咲は濃いグレーのスーツを着て、ノヴィ港のオフィスにある大きな窓の前に立っていた。以前より少し痩せていた。今後の計画を問われると、「まず現地法人の運営を安定させ、地域市場を広げていきたい。任期を終えたあとのことは、そのとき改めて考えます」と答えていた。
取材の最後、記者が事業とは別の質問をした。
「女性を対象にした支援プロジェクトも準備していると伺いました。始めようと思ったきっかけは何ですか?」
美咲は質問から逃げなかった。
「私には、息子がいました。この世界にいられたのは四十八時間にも満たない子です。あの子を亡くして、自分がこれまでどう生きてきたのかを考え直しました。我慢の仕方はずっと教えられてきたのに、『嫌だ』と言ってもいいと教えてくれる人はほとんどいなかった。だから今は、同じように自分のことを後回しにしてきた人たちのために、自分の時間や力を使いたいと思っています」
悠人は記事を閉じた。
その日の午後、以前二人で暮らしていたマンションの近くを一人で通った。建物の下にあるコンビニは、今も変わらず営業している。美咲は残業で遅くなった夜、部屋着のまま降りてきて、おでんを買うことがあった。
悠人も店に入り、おでんを買った。
レジにいたのは、昔からいる中年の店員だった。
「前によく一緒に来てた方、最近見かけませんね」
悠人は答えなかった。店を出て一口だけ食べ、残りはそのまま捨てた。
夏帆の刑事事件は、その頃も裁判所で審理が続いていた。
夏帆が蒼陵商事グループの会社へ新卒入社した時点では、事件はまだ在宅捜査の段階だった。そのため会社は、確定していない刑事責任だけを理由に処分することはしなかった。
ところが試用期間中、社内で過去のプロジェクト資料を確認した際、夏帆が採用時に提出していたインターン実績や経歴に複数の重大な虚偽があることが判明した。ほかのメンバーが担当した成果を自分の主な実績として記載していた案件があり、学内受賞歴の一部も大学側の記録と一致しなかった。
会社は内部調査を行った。
夏帆本人からも事情を聴いた。
そのうえで人事部門が就業規則に基づいて審査し、重大な経歴詐称を理由に解雇を決定した。
今度ばかりは、誰もその責任を美咲のせいにはできなかった。
さらに時が過ぎ、夏帆の傷害致死事件は汐岬地方裁判所で裁判員裁判に付された。
病室周辺の防犯カメラ映像、医療スタッフの証言、医学的な鑑定、そして当時の夏帆の行動が審理された。裁判所は傷害致死罪の成立を認め、拘禁刑の実刑判決を言い渡した。
判決が確定すると、夏帆は刑事施設に収容され、服役することになった。
その後、高梨家の食卓で夏帆の名前が出ることは、長い間なかった。
数年後、夏帆は刑期を終え、社会へ戻った。
大学卒業の頃に手にしていた内定も、家族が思い描いていた将来も、とうに失われていた。出所後はいくつかの仕事を転々としたが、どれも長くは続かなかった。最後に家族が聞いたのは、隣の市にある大型スーパーで有期契約の仕事をしていたものの、契約満了後に更新されなかったという話だった。
母は実家のキッチンで野菜の下ごしらえをしているときに、その話を聞いた。
しばらく手を止めたあと、ざるを横へ置き、そのまま長い間座っていた。
夏帆が服役している間、両親は実家の古いアルバムを何度も開いた。
そこで初めて気づいた。美咲一人だけが写った写真は、驚くほど少なかった。学校の集合写真、卒業写真、証明写真はあるのに、家族が美咲一人にカメラを向けた写真はほとんど残っていない。
最後のページに、八歳の美咲の写真が一枚挟まっていた。
冬の日、少し色あせた青いコートを着て、葉の落ちた木の前に立っている。笑うと、小さな八重歯が二本見えた。
母はその写真を抜き取り、冷蔵庫の扉に貼った。けれど、その一枚の続きが増えることはなかった。
悠人は今も、ときどき汐岬霊園へ行った。
湊はそこに眠っている。墓石は小さく、名前だけが刻まれていた。
悠人は牛乳を一本と、小さな菓子を持っていくことがあった。生後二日にも満たなかった湊が、そんなものを口にしたことなど一度もない。それでも、ほかに何を持っていけばいいのか分からなかった。
ある日、悠人は墓前で午後いっぱいを過ごした。
夕方、帰ろうとしたとき、墓のそばの草むらに小さな白い花が咲いているのを見つけた。
風が吹くたび、細い花びらが揺れた。
悠人はしゃがみ込み、長い間その花を見ていた。
少し時間を遡る。判決の翌年の春、拓海は汐岬霊園の周辺で行われる植樹ボランティアに参加し始めた。
最初の年に植えた苗木は、半分以上が根づかなかった。
それでも次の年、拓海はまた参加した。
スタッフの一人が尋ねた。
「どなたかを偲んで、ですか?」
拓海はスコップを握ったまま、しばらく黙った。
「まだ生きてる人です。俺、その人に返さなきゃいけないものが多すぎるんです」
同じ年、私はノヴィ港で女性支援プロジェクトを正式に立ち上げた。
家庭内で教育費や進学機会を不公平に配分され、進学を諦めざるを得なかった若い女性。家族との関係が原因で経済的に追い詰められたひとり親の母親。そうした人たちに、相談や学び直し、生活再建のための支援を届けるプロジェクトだった。
名前は、MINATO。
設立イベントが終わったあと、スタッフがキャップを開けた水を渡してくれた。私は一口飲み、会場を見渡した。
そこには何人もの若い女性がいた。幼い頃から弟や妹の世話を任されてきた人。家のお金をきょうだいの進学に優先され、自分は大学を諦めた人。家族との関係が原因で経済的に追い詰められた人もいた。
彼女たちの中には、子どもの頃から「あなたはしっかりしてるんだから」「お姉ちゃんなんだから、譲ってあげなさい」と繰り返し言われて育った人もいた。
スタッフに呼ばれ、私は皆のところへ歩いていった。
カメラを持った人が声をかける。
「高梨さん、こちらお願いします」
私は振り返り、自然に笑った。
昔の私は、迷惑をかけないことが「いい子」でいることだと思っていた。強い人間なら、何でも一人で解決しなければならないと思っていた。姉なのだから、自分が少しくらい我慢するのは当然だとも思っていた。
けれど今は分かる。我慢できるからといって、いつまでも我慢し続ける必要はない。
強く生きられるからといって、誰かがその人を犠牲にしていい理由にはならない。
私はカメラを見た。
背後のスクリーンには、プロジェクトの名前が大きく映っている。
MINATO。
湊という名前は、もう小さな墓石の上にだけ残っているものではなかった。
ここは、一つの入口になった。
誰かに譲るためではなく、自分の人生を、自分で選んでいい。
ここから歩き出す人たちが、そう思えるための場所に。
――完――




