第1節「スラムの少女」
王都の端には、誰も見ようとしない場所がある。
石畳は割れ、汚水が道を流れ、雨が降れば泥だらけになる。
建物と呼ぶにはあまりにも粗末な木造の小屋が並び、人々は肩を寄せ合うように暮らしていた。
王都スラム街。
そこは、生きるだけで精一杯の場所だった。
「……うぅ」
細い呻き声が聞こえる。
路地裏。
薄汚れた毛布の上で、男が苦しそうに身体を丸めていた。
熱だ。
顔は赤く、呼吸も浅い。
けれど周囲を歩く人々は、ちらりと見るだけで通り過ぎていく。
珍しいことではないからだ。
倒れる人間も。
消える人間も。
この場所では日常だった。
「……大丈夫?」
そんな中、足を止めた少女がいた。
ぼろぼろの外套。
ところどころ擦り切れた靴。
けれど陽の光を受けた髪だけは、不思議なくらい綺麗な金色だった。
年齢は十歳前後。
青い瞳を心配そうに揺らしながら、少女――シャーロットは男のそばへしゃがみ込む。
「水、飲める?」
返事はない。
苦しそうな呼吸だけが返ってくる。
「うーん……」
シャーロットは困ったように眉を下げた。
薬なんて持っていない。
食べ物だって余裕がない。
それでも放っておけなかった。
近くの木桶から少しだけ水をもらい、布を濡らす。
それを男の額へ乗せた。
「少しだけ、楽になるといいんだけど」
ぽつりと呟く。
その時だった。
じんわりと、淡い光がシャーロットの手から零れる。
柔らかい光だった。
暖かくて、優しい。
けれど本人は気づいていない。
「……ぁ」
男の呼吸が、ほんの少しだけ落ち着く。
苦しそうだった眉間の皺も、少しだけ緩んだ。
「よかったぁ……」
シャーロットはほっと息を吐く。
ただ水で冷やしただけ。
本人はそう思っていた。
だから、周囲の視線にも気づかない。
「……まただ」
「なんなんだ、あの子」
「触られると少し楽になるって……」
小さな噂。
ひそひそ声。
でもシャーロットは聞こえていなかった。
「お姉ちゃん」
不意に後ろから服を引っ張られる。
振り返ると、小さな女の子が立っていた。
痩せた身体。
不安そうな目。
「お母さんが、起きないの」
「えっ」
シャーロットはすぐ立ち上がった。
「どこ?」
「こっち……」
少女の後を追う。
狭い路地。
湿った臭い。
崩れかけた小屋。
中へ入ると、女性が横になっていた。
顔色が悪い。
咳もしている。
「……風邪、かなぁ」
シャーロットは女性の額へ触れる。
熱い。
小さな女の子が不安そうに見上げてきた。
「お母さん、死んじゃう……?」
「だ、大丈夫!」
シャーロットは慌てて笑う。
「えっとね、ちゃんとお水飲んで、暖かくしてたらきっと良くなるから!」
本当は分からない。
でも泣きそうな子供を前に、そんなこと言えなかった。
シャーロットは女性の手を握る。
「少しだけ、楽になりますように」
また淡い光が零れる。
女性の呼吸が少し穏やかになる。
すると小さな女の子が目を丸くした。
「……すごい」
「え?」
「お母さん、さっきより苦しくなさそう」
「そ、そうかな?」
シャーロットは首を傾げる。
でも本当に少しだけ呼吸が落ち着いていた。
それを見て、女の子の表情が少し明るくなる。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「えへへ……どういたしまして」
笑い返す。
その笑顔は、どこか安心する笑顔だった。
けれど。
「……また無理してる」
小屋の外から声が聞こえた。
振り向く。
そこには痩せた老人が立っていた。
スラムで顔見知りの一人だ。
「シャーロット、お前また飯抜いただろ」
「ぅ」
図星だった。
「だ、だってパン高かったし……」
「だからって自分が倒れたら意味ねぇだろうが」
呆れた声。
でも、その目は少し優しい。
シャーロットは困ったように笑った。
「でも、苦しそうだったから」
「……はぁ」
老人は深くため息を吐く。
この少女は昔からそうだった。
自分が空腹でも。
寒くても。
誰かが苦しそうにしていると、放っておけない。
損ばかりする生き方。
それでもシャーロットは笑うのだ。
「ありがとな、お姉ちゃん」
小さな女の子が嬉しそうに言う。
その言葉に、シャーロットは少し照れたように笑った。
「ううん。少しでも楽になったならよかった」
王都の誰も見ない場所。
救いなんて届かない場所。
それでも。
今日もシャーロットは、誰かへ手を伸ばしていた。




