【第1話】大賢者の凱旋
【第1話】大賢者の凱旋
空が、煮えたぎる血のように赤く染まっていた。
視界のすべてを覆い尽くすほどの、巨大で複雑な多重魔法陣。魔界の統治者たる魔王が、自らの命を削って展開した「世界を焼き尽くす絶望」が産声を上げようとしていた。
焦げたオゾンの匂いが鼻を突く中、大賢者ゼロスは乾いた喉を鳴らし、ひたすらに重いため息を吐いた。
「……おいおい、あの規模の術式干渉と、本体への致死攻撃の並列詠唱? 馬鹿を言うな。俺の脳内ブドウ糖がどれだけ消費されると思ってる。これは明確な協定違反だぞ」
ボヤきながらも、ゼロスの手は一切の無駄なく動く。
彼の眼球が高速で動き、頭上で展開される魔王の魔法陣の『変数』を読み取っていく。彼が構築するのは、巨大な火炎や氷ではない。
右手で組み上げるのは、魔王の術式の中心部――その『X・Y座標』へ0.1秒の遅延変数を送り込む、極小の環境ハック術式。
そして左手で同時に編み上げるのは、魔王の強固な防御壁の「繋ぎ目」のみをピンポイントで貫く、極限まで圧縮された空間断裂の究極魔法。
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【結界改竄アラート】
[System] 並列詠唱起動。
[Process 1] 魔王軍事結界へアクセス……パスワード照合スキップ。強制書き換えを実行。
[Process 2] 空間断裂魔法、座標(0, 0, 14)へ射出。
[Warning] 対象の術式構成に致命的な論理破綻が発生。連鎖崩壊を開始します。
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パリィィンッ!
無機質なガラスが砕けるような音と共に、大陸全土を覆うはずだった脅威が、自らの魔力暴走によって自壊していく。
同時に放たれた空間断裂の魔法が、無防備になった魔王の胸の中心を正確に撃ち抜いた。
最小の労力と、最高の演算による完全勝利。
魔王は死んだ。これでようやく、ふかふかのベッドで一生寝て暮らせる。
そう信じていた。
「ゼロス殿! 見事な手腕! つきましてはこの古代魔術の解析を明朝までに。ああ、貴方ほどの傑物がいなくなるのは国の損失。監視の者には24時間体制で部屋の前に立たせてありますゆえ、ご安心を!」
王都へ凱旋した彼を待っていたのは、その規格外の能力を恐れ、骨の髄まで利用しようとする上層部からの果てしない激務だった。
「……寝かせろ」
三日徹夜した夜。目の下の深いクマをゴシゴシと擦りながら、ゼロスはパジャマ姿のまま城の窓から飛び降り、夜の闇へと消えた。
冷たい風が吹き荒れる隣国の辺境。土と埃の匂いが立ち込める極貧の領地で、夜逃げ中のゼロスは行き倒れていた。
彼を拾ったのは、この地を治める没落令嬢ヴィクトリアだった。
華奢な体が酷い冷えに晒されているのか、彼女の呼吸は浅く、指先は氷のように白い。
「貴方に『奴隷紋』を刻ませてもらったわ。これからは私のために働いてもらう」
冷え切った声が、館の一室に響く。
「はっ。ふざけんな。俺の目的は完全なるヒモ生活だ」
ゼロスは舌打ちを一つし、首元に刻まれた術式へ魔力を流し込む。
「……おい、なんだこの契約条文は。第3条第2項における免責事項のフォントサイズが極端に小さいぞ。老眼なら読めないレベルだ。悪徳商法のやり口じゃねえか」
「貴方が自分の意志で同意の魔力サインをしたのよ。役所の窓口に文句を言っても無駄なようにね」
ヴィクトリアは血の気のない唇を少しだけ歪め、事務的に冷たくあしらう。
「クーリングオフ期間内だろ! ええい、書き換えてやる」
ゼロスは脳内で術式の『if文』を強制的に挿入する。
『第5条追加:もし防衛義務が発生した場合、被契約者は一切の労働を免除され、完全なる衣食住のみを享受する』
「……甘いわね。管理者権限によるパッチ修正を実行」
ヴィクトリアが冷たい指先で空をなぞる。
『第5条修正:ただし、領地が緊急事態と認定された場合、上記の免除規定は一時凍結される』
「緊急事態の定義が広すぎるだろ! ブラック企業か!」
ゼロスは即座に術式を上書きにいく。
『第6条追加:緊急事態の定義を「レベル5以上の天災」に限定。さらに、いかなる事態でも1日最低8時間の睡眠を労働基準として義務付ける!』
「ならフレックスタイム制を導入するわ」
ヴィクトリアの呼吸が少し荒くなる。無理な魔力行使で、彼女の喉の奥から微かな血の匂いが漂うが、その目は絶対に主導権を譲らない執念でギラついていた。
『第7条:睡眠時間は月単位での清算とし、コアタイムなしの裁量労働制を適用。主人の判断で業務時間を自由に割り当て可能とする』
「コアタイムなしの裁量労働制は、ただの無限残業だろうが! ふざけるな、第8条、物理的労働の完全拒否権を行使する!」
「第8条第2項、頭脳労働(魔術演算)は物理的労働の定義から除外される。貴方はベッドの上からでも演算処理を行いなさい」
「この官僚崩れが! ならば『労働』そのもののルート定義を根底から――」
ゼロスが奴隷紋の基幹システムを破壊しようとした、その瞬間だった。
ヴィクトリアは懐から、重々しい装飾が施された呪物――【建国王の血璽】を取り出し、ゼロスの首元の奴隷紋へ物理的に押し当てた。
「なっ、物理的なハードウェア・トークンだと!?」
「第9条特別規定。王家の血璽を持つ者は、システムの例外として全ルート権限を接収する。貴方の労働免除はすべて却下よ」
ヴィクトリアから放たれた極度に圧縮された魔力が、物理的な認証キーを介してゼロスのハッキングを正面から粉砕し、新たな暗号化術式を無理やり上書きしていく。
その瞬間だった。
彼女の指先から流れ込んだ、あまりにも無駄がなく、冷徹で、極限まで効率化された『魔力回路の癖』。
ゼロスの視界の端に、激しいノイズが走る。心臓が、肋骨を突き破るかのように跳ねた。
この論理構造。この魔力の編み方。
数日前、自分が遅延演算を叩き込んで殺したはずの、あの魔王と全く同じ――。
「お前……まさか、俺が殺したあの魔王か!?」
安眠を絶たれた大賢者の絶叫が、冷たい風の吹く辺境の館に空しく響き渡った。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!
究極のヒモを目指すゼロスですが、果たして彼の睡眠時間は守られるのか……。
『ゼロスのブラック労働を応援したい!』『続きが気になる!』と思っていただけましたら、ぜひ下部の【☆☆☆☆☆】から評価やブックマークをいただけますと、毎日の執筆の最大のモチベーションになります!
(本日は19時にも更新します!)」




