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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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第六話 都で暮らす

屋敷を出るころには、空の色はもうすっかり夜のものになっていた。


妖都の灯りは、日が落ちきる前から少しずつ強くなっていた。軒先の灯籠に似た明かり、橋の欄干に埋め込まれた青白い光、建物の壁を流れる妖工霊力の筋。夕方見たときよりも、それぞれの輪郭がはっきりして、都全体がこれから目を覚ますみたいに見えた。


椿は、そんな都の様子を特に珍しがるでもなく、ずんずん前を歩いていく。白嶺はその少し前で人の流れを見ていて、紬は私の隣で歩く速さを合わせてくれていた。


「疲れてない?」


紬が小声で聞く。


「ちょっとだけ」


正直に答えると、紬は「そうだよね」と苦笑した。


「でも、椿がこういう時にすぐ動きたがるのもわかるんだ。明日に延ばすと、たぶんもっと大変になるから」


「聞こえてるよ」


前を歩いていた椿が振り返りもせず言う。


「それに、燈が今日着るもんも寝るもんも困る方が嫌だろ」


その言い方は乱暴みたいなのに、ちゃんと気を遣ってくれているのがわかる。

私は小さく「うん」と答えた。


都は夕方よりもさらに人が増えていた。

着飾った妖怪たちが橋を渡り、店先には布や細工物や菓子みたいなものが並び、傀儡たちは決まった速度で荷を運んでいく。人の話し声、呼び込み、笑い声、鈴の音、布の擦れる音まで混ざり合って、知らないはずなのにどこか楽しい空気があった。


「まずは服だね」


椿が立ち止まったのは、二階建ての大きな店の前だった。

格子戸の向こうに色とりどりの反物(たんもの)や仕立て上がった衣が見える。店先に吊るされた札の文字は読めないものもあったけれど、服屋なのはすぐにわかった。


「ここ、昔から丈夫でね」


椿が胸を張る。


「見た目ばっかじゃなくて、ちゃんと着やすいのを置いてる」


「君の基準は、だいたい“動けるかどうか”だろう」


白嶺が言う。


「悪いかい」


「燈は君と違って、毎日殴り合いをするわけじゃない」


「するわけないだろ!」


思わず言うと、椿がけらけら笑った。


「ほら、本人もそう言ってる」


「念のためだ」


白嶺は真顔のままだった。

それがおかしくて、私は少しだけ笑ってしまう。


店の中は、外から見たよりさらに広かった。

壁沿いには畳まれた衣が積まれ、中央には低い台がいくつも並んでいて、その上に色柄の違う着物や上着が広げられている。奥には履き物も見えて、鼻緒(はなお)のついたものや、編み込みの細工が入ったものまであった。


店番をしていたのは、年のわからない女の人だった。

最初は人かと思ったけれど、近づいてみると目の奥の光が少しだけ均一で、傀儡なのだとわかる。けれど、動きは屋敷の中で見たものよりやわらかく、口元にはほんのわずかに微笑むような形まで作られていた。


「いらっしゃいませ」


傀儡は滑らかに頭を下げる。

私は反射的にぺこりと返してしまった。


「この子の着替えを見たいんだ」


椿がそう言うと、傀儡は私の方を見て、すぐに何枚かの衣を運んできた。

色は淡い浅葱(あさぎ)、薄い桃色、生成(きな)り、少し深い藍。人間の世界の服とも違うし、屋敷で見る和服とも少し違う。袖や裾の形はゆるやかなのに、動きやすそうでもあった。


「こっちの淡い色、燈ちゃんに似合いそう」


紬が言う。


「え、でも、こんな綺麗なの……」


「何だい、遠慮するんじゃないよ」


椿はさっと一枚持ち上げた。

淡い薄水色の上衣で、袖口に細い銀糸の刺繍が入っている。


「これとかいいじゃないか。地味すぎず派手すぎずだし」


「こっちはどうだ」


白嶺が別のものを差し出した。


少し落ち着いた灰青色で、装飾はほとんどない。でも布地がなめらかで、見た目よりずっと軽そうだった。


「そっちは大人びすぎない?」


紬が首を傾げる。


「子どもっぽすぎるよりいいだろう」


「いや、燈ちゃんまだ子どもなんだけど」


そのやり取りを聞きながら、私は二枚の服を見比べた。

椿が持つ方はやわらかくて、白嶺が持つ方はすっきりしている。どっちも自分のものとは思えなくて、変な感じがした。


「……選んでいいの?」


聞くと、椿が呆れたように目を丸くする。


「当たり前だろ。着るのはあんただよ」


「でも……」


「遠慮するなって言ってる」


椿はそれ以上言わせないみたいに、私の背中を軽く押した。


紬がそっと台の前へ私を連れていく。


「触ってみたらわかるよ。好きじゃないものって、なんとなくすぐわかるから」


言われて、私はおそるおそる布に手を伸ばした。


薄水色の方はさらりとしていて、指が滑る感じがする。灰青色の方はそれより少ししっかりしているけれど、固くはない。どちらも今着ている服よりずっときれいで、ずっと丁寧に作られている気がした。


「……これ」


迷った末に、私は椿が最初に持っていた薄水色の方を指さした。


椿の顔がぱっと明るくなる。


「ほら見な!」


「別に競っていたわけではない」


白嶺が言う。


その横で紬が、楽しそうに肩を揺らした。


「椿、ちょっと嬉しそう」


「何だい、その言い方」


「だって、今わかりやすかったよ」


「そうかい?」


「そうだよ」


椿はむっとした顔をしながらも、手にした衣をやけに丁寧に畳み直していた。

私はそのやりとりを見て、なんとなく胸がくすぐったい。


それから着替えを何枚か選んだ。

椿は「汚れが目立ちにくいのもいる」と言って少し濃い色を出し、白嶺は「屋敷の中では派手すぎない方がいい」と言い、紬は「寝る時用はやわらかいのがいい」と間を取った。三人がそれぞれ違うことを言うのに、不思議と全部必要な気がしてくる。


次は履き物だった。


鼻緒のあるもの、編み目の細かいもの、底の厚いもの。

私は見ただけでは全然違いがわからなくて、ただ黙って立っていた。


「足、出してみな」


椿がしゃがみこんで言う。


「えっ」


「履き物合わせるんだから当たり前だろ」


言われるままに足を出すと、椿は慣れた手つきでいくつか並べていった。

その様子が妙に真剣で、私は少しだけ面食らう。


「椿、手際いいね」


紬が言うと、椿は鼻を鳴らした。


「鬼だって普段から裸足で暴れてるわけじゃないよ」


「誰もそんなこと言ってないよ」


白嶺が横から口を挟む。


「君の場合、わりと否定しきれないところがある」


「アンタほんと失礼だね」


私は試しに一足履いてみた。

少し大きい。次のは鼻緒がきつい。三つ目は歩くときに少しだけぐらつく。


「こっちだな」


白嶺が一足を選んで差し出した。


落ち着いた生成(なまな)り色で、縁に淡い青の糸が入っているだけの簡素なものだ。


「またずいぶん堅実なの持ってくるねえ」


椿が言う。


「履くのは燈だ。見栄えより足に合う方がいい」


「わかってるよ」


そう言いながら、椿はその履き物を受け取って、私の足元に置いた。


「……履いてみな」


言われて足を入れると、今度は驚くほどしっくりきた。

きつすぎず、ゆるすぎない。立って一歩踏み出してみても、ほとんど違和感がない。


「これ、歩きやすい」


「だろう」


白嶺が短く言う。

椿はその顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


それに気づいたのか、気づいていないのか、紬が口元を押さえて笑う。


「椿、それもしかして、白嶺が選んだから文句言わないの?」


「は?」


椿がぴたりと動きを止める。


「何言ってんだい、アンタ」


「別に」


紬は楽しそうに肩をすくめた。


「なんとなく、そう見えただけ」


「なんとなくで変なこと言うんじゃないよ」


「紬」


白嶺がわずかに眉を寄せる。


「選ぶなら選べ。無駄話を増やすな」


「はいはい」


紬は全然反省していない顔だった。

椿はまだ少しだけ不機嫌そうで、でもそれ以上は何も言わなかった。


私はその三人を見比べて、なんだか不思議な気分になった。

知らない世界で、知らない服と履き物を選んでいるはずなのに、こうしてやり取りを見ていると少しだけ普通の買い物みたいに思えてくる。


最後に傀儡が選んだものをきれいに包んでくれた。

布に包まれた新しい服と履き物を見たとき、私はふと、これが本当に自分のものになるのだと気づいた。


しばらくここで過ごすんだ。

その現実が、また少しだけ近づいた気がした。





服と履き物を受け取って店を出ると、都の灯りはさらに濃くなっていた。


空はもう深い藍色に沈み月が出ているのに、通りは少しも暗くならない。軒先の灯りも、橋の下を走る霊力の筋も、店先に浮かぶ小さな光の玉も、それぞれ違う色で都を照らしていた。人の波はまだ絶えない。むしろ夜に近づくほど賑わいが増しているようにさえ見える。


「次は日用品だね」


紬が包みを抱え直しながら言う。


「この時間なら、表通りの雑貨屋もまだ開いてると思う」


「服より日用品の方が大事だろうに、なんで後回しなんだい」


椿が言う。


「燈ちゃんが今の服のまま困ってたからじゃない?」


「それもそうか」


椿はあっさり頷いた。


私は三人のあとを歩きながら、包みをちらっと見た。

自分の新しい着替え。新しい履き物。まだ手に持っているだけなのに、少しだけ知らない生活が近づいてきた気がして落ち着かない。


日用品の店は、さっきの服屋よりずっと雑多だった。

入口近くには桶や布巾みたいなものが並び、奥には櫛や小さな鏡、香り袋、筆記具、箱入りの石鹸みたいなものまで見える。壁沿いには畳んだ布が山みたいに積まれていて、天井からは編み籠や小物入れが吊るされていた。


「……何のお店かわからない」


思わず言うと、椿が笑う。


「日用品屋ってのはそういうもんさ。生活にいるもの、いらないもの、いろいろまとめて置いてる」


「いらないものも?」


「衝動買いってやつだよ」


紬が横で吹き出した。


「椿、その言葉ちゃんと知ってるんだ」


「知ってるに決まってんだろ」


「君がよくやることだからな」


白嶺がさらりと言う。


「……さっきからアンタ、ずいぶん口が滑らかじゃないかい」


椿が半眼になる。

でも、本気で怒っている感じではない。


店番は今度はお面をつけた男の人だった。少なくとも私にはそう見えた。

白い布で包まれた帳面みたいなものに何かを書きつけていて、紬が声をかけるとすぐに顔を上げる。


「ああ、紬さん。今日はまた珍しい顔ぶれだ」


「ちょっと買い足したいものがあって」


「そちらの子のですか」


私は反射的に背筋を伸ばした。


「えっと……はい」


男の人は私を見て少しだけ目を細めたけれど、それ以上何も言わずに「でしたらこの辺りが使いやすいですよ」と棚の方を示した。


その“何も聞かない”感じが、かえってありがたかった。


紬は慣れた様子で店の奥へ進み、椿は迷いなく布類の山へ向かう。

白嶺だけが入口近くで周囲を一度見渡してから、ようやく中へ入った。


「まずは何がいる?」


紬が聞く。


そう言われても、私はすぐには答えられなかった。

何が必要なのか、考えたこともない。普段は家に当たり前みたいにあるものばかりだったからだ。


「……櫛、とか?」


「いるね」


「洗う時の布もいるだろ」


椿が言う。


「あと部屋用の小物入れ」


「筆記具もあった方がいいかもしれない」


紬が続ける。


「燈ちゃん、何か書いたりする?」


「絵、描くのは好き」


「じゃあなおさらだ」


そう言って、紬は小さな紙束と筆のようなものを見せてくれた。

人間の世界で使っていた鉛筆やノートとは違うけれど、持ち運びしやすそうで、たしかに便利そうだと思う。


椿は布を何枚か引っ張り出している。


「洗面用は丈夫なのがいい。あと寝る時に髪が邪魔なら結ぶだろ、紐もいるね」


「そんなにいるかな……」


私が言うと、椿はきっぱり答える。


「いる」


「必要になってから買いに来る方が面倒だよ」


紬も同意する。


「屋敷の中に予備がまったくないわけじゃないけど、自分のものがあった方が落ち着くし」


その言葉に、私は少しだけ黙った。


自分のもの。

それはさっきから何度も胸に引っかかる言葉だった。


都の中で、自分の服を買って、自分の櫛や布を選ぶ。

それはつまり、ここで暮らす時間が少し続くということだ。


帰りたい気持ちはまだある。

でも、帰るまでのあいだ何も持たずにいられるほど、私はもう小さくなかった。


「……じゃあ、櫛も欲しい」


「よし」


椿がなぜか満足そうに頷く。


櫛は思っていたより種類が多かった。

木のもの、骨のもの、青白い半透明のものまである。


「それ、霊具混じりだからやめといた方がいい」


紬が私の目線の先を見て言う。


「髪を整えるついでに霊の乱れも整えるやつ。燈ちゃんが今使うには強すぎるかも」


「櫛ひとつにもそんなのあるんだ……」


「都だからね」


結局、少し丸みのある木の櫛にした。

手のひらに乗せると、ぬくもりがあって落ち着く。


それから洗面用の布、小さな袋、部屋で使う湯呑を一つ、髪紐を何本か、そして紬が勧めてくれた小さな鏡も選んだ。


「こんなのまでいらないよ」


鏡を見て言うと、椿が呆れたように言う。


「いるだろ。寝ぐせとかついてたらどうするんだい」


「別に……」


「別に、じゃない」


「椿、燈ちゃんは君ほど見た目を気にしてないと思うよ」


紬が言うと、椿は目を細めた。


「あたしが見た目を気にしてるみたいな言い方だね」


「してるでしょ」


「してないよ」


「してる」


二人のやり取りを聞きながら、白嶺が棚から一つの小さな箱を取った。


「これも持っていけ」


「何それ」


私が聞くと、白嶺は箱を開いた。中には薄い紙の束みたいなものが入っている。


「簡易の守りだ。部屋の枕元に置け」


「守り……」


「都の中は屋敷の外より雑多だ。念のため持っておけ」


私はそれを受け取りながら、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。

言い方は相変わらず淡々としているのに、ちゃんと気にしてくれているのがわかったからだ。


それを見ていた紬が、ふっと笑う。


「白嶺、そういうの選ぶの早いよね」


「必要だからだ」


「うんうん」


紬は楽しそうだった。

椿はそれを見て、なぜか少しむっとする。


「何だい、その含みある顔」


「別に。白嶺って、燈ちゃんのことになると案外細かいなって思っただけ」


「当然だろ」


白嶺は本当に当然みたいな顔で言った。


「今の燈に不備があれば危険が増える」


「はいはい、理屈の上ではそうだろうねえ」


椿の言い方が少しだけ尖る。

でもすぐに紬が間へ入った。


「じゃあ、椿は何か選ばないの?」


「は?」


「燈ちゃんに、ほら。椿っぽいの」


「何だいそれ」


「なんとなくあるでしょ」


紬はそう言って、棚の上に並んだ小さな香り袋を指さした。


椿は露骨に顔をしかめた。


「あたしがそんな可愛いもん選ぶと思うかい」


「思わない」


「即答かい」


「でも、ほら」


紬は一つの袋を持ち上げる。

黒地に小さな赤い刺繍が入った、それほど甘くない意匠のものだった。


「こういうのなら椿っぽい」


椿はそれを見て、しばらく黙っていた。


「……別に、これくらいなら」


その言い方が妙に慎重で、私は思わず笑いそうになった。


「燈ちゃん、部屋に置いとくとちょっと落ち着くかも。屋敷の香も嫌いじゃないけど、ずっと同じ匂いだと疲れることあるから」


紬がそう言うと、私はその袋を受け取った。


ほんのり、甘すぎない香りがした。木と花を少し混ぜたみたいな、不思議な匂いだった。


「ありがとう」


そう言うと、椿は「礼なんかいいよ」とそっぽを向く。

その横顔が少しだけ照れくさそうに見えて、私はますます可笑しくなった。


買い物が終わるころには、手の中の包みは思ったより増えていた。

着替え、履き物、櫛、布、髪紐、鏡、小さな袋、守り札。どれも大きなものじゃないのに、こうして揃ってみると“暮らし”の形をしている。


店を出ると、都は夜なのにさらに活気に満ちていた。


昼より明るく見えるくらい灯りが増えて、屋根の上の回廊にも、橋にも、通りにも、青白い光が流れている。傀儡たちは少しも疲れた様子なく荷を運び、店先にはまだ客が集まり、どこかでは歌みたいなものまで聞こえてきた。


「……すごい」


また同じ言葉が口から出る。


椿が笑う。


「だろ」


「昼より明るいくらい」


「夜の都の方が好きなやつも多いからね」


紬が言う。


「灯りが増えるし、妖工霊力の路もよく見えるし」


私は包みを抱え直しながら、空を見上げた。

知らない世界。知らない都。知らない暮らし。


でも、その中に今、櫛や髪紐や着替えみたいな、ごく小さな“自分のもの”がある。


それが少しだけ不思議で、少しだけ心強かった。


「戻るぞ」


白嶺が言う。


その声に、私はこくりと頷いた。


包みの重さはそれほどでもない。

でも、それを腕に抱えて歩いていると、私はもうただ迷い込んだだけじゃないのだと、静かに思わされた。


屋敷へ帰れば、あの部屋がある。

まだ借りものみたいな場所だけど、今夜からそこで眠る。

そう考えたとき、胸の奥に小さな灯りがともるような気がした。

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