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幽世の燈 -かくりよのあかり-  作者: 栖崎
第一章

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第五話 命の灯

「そなたは、生まれながらにして異なるのではない」


雲仙様の声は静かだった。


けれど、その一言だけで、私は息をするのも忘れた。

ずっと、自分は最初から何かおかしかったのだろうかと、心のどこかで思っていたからだ。


「……ちがう、の?」


かすれた声で聞くと、雲仙様は小さく頷いた。


「異なったのは、生まれではなく、もっと後のことよ」


私は膝の上で手を握る。

自分の知らない自分の話を、これから聞かされるのだと、ようやくはっきりわかってきた。


「燈よ。そなたが赤子であった頃、一度、命の(ともしび)が消えかけたことがある」


その言葉に、私は思わず顔を上げた。


赤ちゃんの頃のことなんて、もちろん覚えていない。

でも、雲仙様の声は少しも揺らがなくて、作り話ではないのだとわかってしまう。


「高い熱に侵され、死の境をさまよった。人の世であれば、医の手に委ねるべきところであったろう。されど、その日はひどい雪であった」


雪。


その言葉に、頭の奥で何かが引っかかった。

見たこともないはずの景色なのに、白く曇った窓の向こうで、雪が音もなく降り積もっていく光景が、一瞬だけ胸の中に浮かぶ。


「道は閉ざされ、救いの手はすぐには届かなんだ。そなたの母は、ただ家の中で、消えかけたそなたの命を抱えて祈るほかなかった」


私は何も言えなかった。


お母さんの顔が浮かぶ。

今の、いつものお母さんの顔しか知らないはずなのに、その人がひどく若く、泣きそうな顔で私を抱いているところを想像してしまった。


「助けてほしい、と」


雲仙様は、遠いものを見るみたいな目をしていた。


「どうかこの子を連れていかないでほしい、と」


胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


私が知らなかっただけで、そんな夜が本当にあったのだろうか。

そんなふうに願われて、私はここまで生きてきたのだろうか。


「そのとき」


雲仙様の声が、少しだけ深くなる。


「そなたの家と土地に残っておった、古き霊の残滓(ざんし)が、その願いに応じた」


私は瞬きを忘れた。


「家と、土地……?」


「うむ」


雲仙様は静かに頷く。


「今はもう忘れられて久しいが、そなたの祖父母の住まう土地には、かつて人ならざるものへ捧げられた祈りがあった。名もなき守りの霊、あるいは信仰の残り火とでも呼ぶべきものよ」


白嶺も椿も、黙ってその話を聞いている。

紬は少しだけ目を伏せ、尻尾の先を静かに揺らしていた。


「長い年月の中で、それはほとんど形を失っておった。人に知られず、呼ばれず、ただ土地の底に、眠るように残っていたに過ぎぬ」


雲仙様の声はやわらかい。

なのに、その景色はどうしようもなく寂しく思えた。


誰にも思い出されないまま、ただ残っていた祈り。

誰にも信じられなくなったまま、土地の底で消えかけていた霊。


「されど、その夜、そなたの母の願いが、それに触れた」


私は息を呑む。


「人の本心から出た祈りは、時として、形を失いかけた霊にも届く。ましてや、わが子を生かしたいと願う心は、強い」


胸の奥で、どくん、と心臓が鳴った。


「古き霊は、消えかけていたそなたの命をつなぎとめた。散るはずであった最後の火を、そなたの中へ移したのだ」


命の灯。


その言葉が、頭の中で静かに浮かんだ。


私は、自分の両手を見た。

なんの変哲もない、小さな手だ。今まで何度も見てきた、私の手。


なのに、その奥に、自分も知らない火がずっと灯っていたのだと思うと、急に知らないものみたいに感じられた。


「……じゃあ」


うまく声が出ない。


「私の中にあるのって、そのときの……」


「残り火よ」


雲仙様は、はっきりと言った。


「本来ならば、その夜限りで尽きるはずの霊であった。されど、死の淵にあったそなたの命と深く結びつき、今もなお息づいておる」


私は黙りこんだ。


嬉しいとも、嫌だとも、すぐには思えなかった。

ただ、今まで知らなかった自分の一部を急に見せられて、どう受け止めたらいいのかわからない。


「……それって」


ようやく絞り出した声は、思っていたよりも小さかった。


「私、助かったのは奇跡じゃなくて……」


「奇跡であったろう」


雲仙様が静かに言う。


「ただ、人の世でそう呼ばれるものもまた、時には名もなき祈りと霊の働きによって起こる」


私はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


奇跡。

たしかに、そうなのかもしれない。

お母さんの願いと、家や土地に残っていた古い霊と、たぶんもう二度と同じには起きない何かが重なって、私は生き延びた。


でも、その結果として今ここにいるのだと思うと、喜んでいいのかもわからなくなる。


「それ以来、そなたの内には、人の身には過ぎた霊が宿ることになった」


雲仙様は続けた。


「幼き頃はまだ淡く、そなた自身の命を支える火として静かであったろう。されど、成長するにつれ、霊はそなたの魂と深く馴染み、今やただ命をつなぐだけでは済まぬほど濃くなっておる」


「だから、見えたのかい」


今度は椿が口を開いた。

いつもよりずっと静かな声だった。


「境も、あたしたちも、あの下っ端どもも」


「そうだ」


雲仙様は頷く。


「見る力が芽吹いたのも、妖どもがそなたを見つけたのも、そのせいよ」


白嶺が目を伏せたまま言う。


「……人の身に定着した霊としては、あまりにも濃い」


「うむ」


雲仙様はそれを否定しなかった。


「下生の妖どもにとっては、耐え難いほど甘い香りに映るであろう。霊に飢えたものほど、そなたを放ってはおけぬ」


私は無意識に、自分の腕を抱いた。


見えないだけで、私は今も何かに狙われるようなものを持っている。

そう思うと、さっきまで少しだけ和らいでいた恐怖が、また胸の中に広がっていく。


「……怖いか」


不意に、雲仙様がそう聞いた。


私は少し迷ってから、頷いた。


「怖い、です」


嘘はつけなかった。


「変なものが自分の中にあるって言われるのも怖いし、それで狙われるっていうのも怖いし……」


そこまで言って、喉が詰まる。


「……お母さんが、私を助けようとしてくれたことまで、変なものみたいに思いたくない」


言い終わったあとで、顔が熱くなった。

うまくまとまっていなかったかもしれない。

でも、本当にそう思った。


私の命がつながった夜が、怖いものの始まりみたいに聞こえるのは嫌だった。


部屋の中が静かになる。


雲仙様は、しばらく何も言わなかった。

その沈黙が、責めているものではないとわかるからこそ、余計に胸が苦しい。


やがて、雲仙様はゆっくりと口を開いた。


「それは、よいことだ」


思わず顔を上げる。


「よい……?」


「うむ」


その目は、少しだけやわらいで見えた。


「怖れを抱くことと、救われたことを汚さぬことは、両立する。そなたの母の願いがあったからこそ、そなたは今ここにおる。それは疑いようのない、尊いことだ」


胸の奥で、何かがじんわりとほどけた。


「宿った霊が人ならざるものであったとしても、それだけでその夜の願いが穢れるわけではない」


穢れる、という言葉が静かに落ちる。


「人の祈りと、名もなき霊の残り火が、ひとつの命をつないだ。ただそれだけのこと。そこに卑しさはない」


私は何も言えなかった。


ただ、さっきまでぎゅうぎゅうに固くなっていた胸の奥が、少しだけあたたかくなるのがわかった。


お母さんの願いまで怖くなってしまうのは嫌だった。

雲仙様は、そこをちゃんと拾ってくれた。


白嶺も椿も、黙ったままだった。

でも椿はいつの間にか眉間のしわをゆるめていて、紬は少しだけ安心したように目を細めていた。


「……でも」


まだ、引っかかるものは残っている。


「じゃあ私、この先どうなるんですか」


その問いに、雲仙様はすぐには答えなかった。


「このままずっと、狙われるの……?」


「何もせねば、そうなろう」


はっきりとした答えだった。


私は息を詰める。


「されど、何もせずにおるつもりはない」


雲仙様の声は変わらず穏やかだった。

けれど、その穏やかさの奥に、揺るがないものがあった。


「そなたの内にある霊を知り、その扱いを学び、己の灯を己のものとして持てるようになれば、今よりずっとましになる」


「そんなこと……できるんですか」


「容易ではない」


雲仙様は正直に言った。


「されど、不可能でもない」


その言葉に、私は少しだけ息をした。


簡単だとは言われなかった。

でも無理だとも言われなかった。

それだけで、暗い中に細い糸が一本垂れたみたいな気がした。


「燈よ」


雲仙様が私の名を呼ぶ。


「そなたの内に灯るものは、災いにもなりうる。だが、それだけではない」


静かな声が、まっすぐ届く。


「消えかけた命をつないだ火は、他のものを照らす灯ともなりうる」


私はその言葉を、すぐには理解できなかった。


でも、なぜだか胸の奥が小さく熱くなる。


怖いだけじゃない、と言われた気がした。

私はまだ何もできない。

何ができるのかもわからない。


それでも、ただ怯えるだけで終わる話ではないのだと、雲仙様はそう言っているように思えた。


「……私は」


自分でも驚くくらい頼りない声が出る。


「何をすればいいんですか」


雲仙様は、ほんの少しだけ笑んだように見えた。


「まずは休み、知り、学ぶことよ」


その答えは拍子抜けするほど静かだった。


「焦って答えを求めれば、灯は揺らぐ。揺らいだ火は、己をも焼く」


私は小さく頷く。


たぶん、それしかできない。

でも、それでいいのだと今は言われた気がした。


「紬」


雲仙様が呼ぶと、紬がすぐに頭を下げた。


「はい」


「燈の世話は、しばらくそなたも手伝うがよい」


紬は一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに「かしこまりました」と答えた。


椿が横で「よかったじゃないか」と小さく笑う。

白嶺は何も言わなかったけれど、反対する気配もない。


私は少しだけ、紬の方を見た。

紬は私と目が合うと、ほんの少し気まずそうに、それでもやわらかく笑ってみせた。


そのとき、ようやく私は、張りつめていた息をゆっくり吐くことができた。


まだ怖い。

まだ何もわからない。

でも、真っ暗な中にひとつだけ、小さな灯りが見えた気がした。





雲仙様の言葉が落ちたあと、部屋にはしばらく静かな時間が流れた。


私はまだ、膝の上に置いた自分の手を見ていた。

この手の中に、赤ん坊の頃からずっと、私も知らない火が残っていた。そう思うと不思議で、少し怖くて、でも完全に嫌だとは思えなかった。


嫌だと思ってしまったら、お母さんが必死に願ってくれたことまで、否定してしまう気がしたからだ。


雲仙様は、そんな私を急かさなかった。

部屋の空気は静かで、張りつめているのに息苦しくはなかった。


「燈よ」


やがて、雲仙様がゆるやかに声をかけた。


私は顔を上げる。


「帰す道を探る間、そなたにはこの屋敷に部屋を用意しよう」


一瞬、言われた意味がわからなかった。


「……部屋」


「うむ。知らぬ土地で、休む場もなくいては、灯は揺らぐ。そなたは今、知るべきことも、慣れるべきことも多い。まずは身を落ち着けるがよい」


私は思わず、紬の方を見た。

紬は少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに頭を下げた。


「お部屋の用意、僕がします」


「頼むぞ」


「はい」


雲仙様はそれから白嶺と椿にも視線を向けた。


「白嶺」


「はい」


「燈のことは、引き続きそなたも気にかけよ。境に近づけすぎるでない」


「承知しました」


「椿」


「わかってるよ」


椿はいつもより少しだけおとなしく答えた。


「放り出したりしないさ」


「そなたの場合、加減を誤る方を案じておる」


「ひどい言われようだねえ」


椿が肩をすくめる。

けれど、その声は少し明るくて、その場の張りつめた空気をほんの少しだけゆるめた。


私は雲仙様を見たまま、小さく口を開く。


「あの……ありがとうございます」


ちゃんとお礼になったか、自分でもわからない。

でも雲仙様は穏やかに頷いた。


「礼には及ばぬ。ここに来てしもうた以上、そなたを放ってはおけぬだけのこと」


その言葉はやさしいのに、どこか少し寂しく聞こえた。


放っておけない。

それはつまり、私はまだ元の場所へは帰れないということでもある。


胸の奥に小さく重みが落ちたけれど、それでも、部屋をもらえると聞いて少しだけ安心したのも本当だった。


雲仙様との話を終えて部屋を出ると、さっきまでより回廊の空気が少しだけやわらかく感じられた。


紬が先に立ち、静かな足取りで案内してくれる。椿はそのすぐ後ろで「いやあ、思ったより長くなりそうだね」と伸びをし、白嶺は変わらず無駄のない歩き方で前を見ていた。


「長く、って……」


思わず小さく聞き返すと、椿がちらっと振り返る。


「そりゃそうだろ。今の話聞いてて、明日すぐ帰れると思う方が無理さ」


あまりにもそのままの言い方で、私は言葉に詰まった。


けれどすぐに、椿は少しだけ口元をやわらげる。


「悪いね。けど、はっきりしない方が落ち着かないだろ」


それは、雲仙様とも白嶺とも少し違う、椿らしい気遣い方だった。


紬が廊下の角を曲がりながら言う。


「お部屋は客間の一つを使ってもらうことになると思う。普段はあまり人を泊めるところじゃないけど、静かだし、庭も見えるから……たぶん、落ち着けるよ」


「紬の“たぶん”は信用していいのかい?」


椿が茶化すように言うと、紬は困ったように笑った。


「絶対って言い切るのは苦手なんだよ」


「そういうとこだよ、あんたは」


そんなやりとりを聞きながら歩いているうちに、私は少しだけ、この三人が一緒にいる時の空気に慣れてきている自分に気づいた。


通された部屋は、思っていたよりずっと静かで、明るかった。


広すぎるというほどではないけれど、祖父母の家で私が使っていた部屋よりは少し広い。畳は新しく、障子の向こうには小さな庭が見えた。庭石のあいだを細い光が流れていて、最初は小川だと思ったけれど、よく見ると水ではなく青白い霊力の筋だった。


「……すごい」


思わずこぼれると、紬が少しうれしそうに目を細めた。


「このあたりは客間用の区画なんだ。屋敷の奥ほどじゃないけど、霊の流れが穏やかだから休みやすいよ」


「穏やか、ねえ」


椿が部屋を見回す。


「まあ、燈には悪くないんじゃないかい」


私は部屋の真ん中に立ったまま、なんとなく落ち着かない気持ちで畳を見た。


ここで寝て、起きて、しばらく過ごすことになる。

そう思うと、それだけで急に現実味が出てきた。


白嶺がそんな私を見て、短く言う。


「今のままでは不便だな」


「不便?」


「着替えも日用品も足りないだろ」


言われて、自分の袖口を見る。

祖父母の家からあの鳥居へ行った時のままの服だ。土の汚れはあるし、袖も少しよれている。昨日からいろんなことがありすぎて忘れていたけれど、たしかにこのままでは困る。


「そういや言ってたろ」


椿がぽんと手を打つ。


「あたしが服見繕ってやるって」


「あ……」


「忘れてたのかい」


忘れていた。

でも、言われてみると、その約束だけ妙に現実的で、少しだけおかしくなる。


椿は腕を組む。


「よし、じゃあ今から行こう」


「今から?」


私が驚くと、紬も少しだけ目を丸くした。


「椿、もう日が傾いてるよ」


「だからだよ。今の時間の方が、あのあたりの店はまだ開いてる」


「君は相変わらず思い立ったら早いな」


白嶺が呆れたように言う。


「遅いよりいいだろ。燈だって困るじゃないか」


その言い方に、私は否定できなかった。

本当は疲れていたけれど、部屋だけあっても、何も揃っていないのは心細い。


「……行く」


そう言うと、椿がにやっとした。


「よし。そうこなくちゃ」


「ひとりで連れ出すなよ」


白嶺がすぐに言う。


「今の燈を都に出す以上、目立たぬわけがない」


「そんなのわかってるさ」


「わかっていて、なぜ君ひとりで済ませようとする」


「アンタが来るんだろ?」


「最初からそのつもりだ」


「ほら、解決だ」


椿はまるで話が終わったみたいに言った。


白嶺は小さく息をつく。

それから紬の方を見た。


「紬」


「うん、僕も行くよ」


言われる前からそうするつもりだったみたいに、紬は頷いた。


「燈ちゃんに必要なもの、屋敷の中で使いやすいものもあるし。椿だけに任せると、たぶん丈夫さ優先になりすぎる」


「何だい、その言い方」


「間違ってないだろ」


「おや、紬にまで言われるとはねえ」


私は思わず、少しだけ笑いそうになった。


ついさっきまで、命のことや霊のことなんて重い話をしていたのに、そのすぐあとで、服や櫛や日用品の話をしているのが不思議だった。


でも、そういう不思議さが、逆に少しだけ私を落ち着かせた。


ここで生きるって、たぶんこういうことなんだろう。

怖いことや大きな話だけじゃなくて、着るものや、使うものや、眠る場所がいる。


「じゃあ、少し休んでから――」


紬がそう言いかけたところで、椿が遮る。


「いや、休んだらたぶん燈、動きたくなくなるよ」


「そんなこと」


ない、と言いかけて、言いきれなかった。


ちょっと休んだら、本当にもう外へ出たくなくなる気がしたからだ。


椿は得意そうに頷く。


「ほらね」


「……それは、そうかもしれないけど」


「だったら今のうちだ」


白嶺が結論みたいに言った。


「必要なものだけ揃えて、すぐ戻る。長居はしない」


私は三人の顔を順番に見た。


椿はもう完全に買い出しに行く気でいる。

白嶺は警戒しながらも、私を連れて行く前提で考えている。

紬は少し心配そうだけど、いちばん実際的な準備をしてくれそうだった。


気づけば、もう私だけ反対する理由がなかった。


「……わかった」


そう答えると、椿が「よし」と満足そうに笑う。


「じゃ、まずは燈の髪紐と着替えと履き物だね」


「櫛もいるだろ」


紬がすぐに言う。


「あと、洗面用の布と、部屋で使う小物も」


「最低限でいい」


白嶺が口を挟む。


「荷を増やしすぎるな」


「はいはい、お堅いねえ」


椿が肩をすくめる。


私はそのやりとりを聞きながら、もう一度、部屋の中を見回した。


まだ何もない。

でも、ここに自分のものが少しずつ増えていくのかもしれないと思ったら、不安と一緒に、説明しにくい気持ちが胸の中に広がった。


帰りたい気持ちは、変わらない。

けれど、帰るまでのあいだ、私はここで暮らすのだ。


その現実が、ようやく静かに形になりはじめていた。

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