シリカからの使者
――熱い!あつい!アツイ!
腕の感覚も、足の感覚も、肌に触れている筈の水の感覚すらも……何もかもがワカラナイ。
ただただ熱い。
まるで身体が溶岩の如くドロドロに溶けてしまったかのようだ。
いや、1つだけ確かなことがある。
ソレは……喰わなければならないということ。
海を、大地を、世界を!
星を、銀河を、宇宙を!
(いや、何かがオカシイ。何かがチガウ)
浮かび上がった最後の疑問は即座に溶け消えた……肉体と同様に。
海にぽっかりと口が開く。
――穴だ。
深い深い漆黒の穴が、海を拒むかのように広がっていく。
真円にくり貫かれたその穴は、まるで冥府へと通じる黄泉路。中から溢れる瘴気が海を漆黒へと染め上げ……世界の崩壊が始まる。
その暗き穴より現れ出でたるは巨大な化け物。
漆黒の体毛に蒼き鬣が背を彩るように尻尾まで続き、その牙と爪も透ける様な蒼。その姿は狼に似ているものの、黒と蒼で彩られた身体は水晶で出来ているかの如く硬質な輝きを帯びている。美しくも悍ましき獣だ。
――獣の眼が開く。
赤い紅い眼だ。
その眼だけが唯一、血を思わせる濁った色。
グルル……と喉を鳴らしたソレは空に向かって吠えた。
「ダメェェェェェ!!」
叫びながら何かを掴もうと伸ばした手は虚しく空を切った。
ルーファの口からゼェゼェと荒い息が漏れ、額に張り付いた髪を乱暴に払う。
「今のは何?あれは……ガッシュなの?」
焦りの気持ちそのままにベッドから飛び下りたルーファは、そのままペタンと尻餅をつく。
(身体に力が入らない……寒い)
激しく震える身体はルーファの意思を無視してピクリとも動かない。それでも無理矢理立とうとした時、ルーファを温かい腕が包み込んだ。
「大丈夫だ。何を視た?」
冷静な金の目に、激情に支配されていたルーファの心に理性が戻る。
そうだ。落ち着かなければ。ガッシュを助けられるのは自分ではないのだから。
「ガッシュが汚染獣に……」
「場所は?」
「海……暗い海の底。大きな船が沈んでて……それだけしか分からないの」
何て中途半端な力なのか。肝心なことが分からないなんて……溢れそうになる涙を堪え、ルーファは歯を食いしばった。
宥めるようにルーファの頭を大きな手が撫で、抱き寄せられたルーファはその胸に顔を埋める。
「我に任せておけ。ロキ!」
ルーファが僅かに顔をずらせば、ヴィルヘルムの隣にはロキがいた。
「ガッシュは何処へ向かった?」
「南部で反乱が起きた……最後にアイツの力を確認したのはアクラムだ」
「そなたはルーファの側に。我が行く」
『もし手遅れならば……我がこの手で殺す』
言葉と重ねるように、ヴィルヘルムはロキだけに思念を飛ばす。それはルーファに知られる訳にはいかない言葉だ。
ヴィルヘルムはその身を翻す――その背に覚悟を乗せて。
◇◇◇◇◇◇
その報せはヴィルヘルムが発ったのと入れ替わりに、リーンハルトへと齎された。
「陛下に、ガッシュ陛下にお目通りを!」
そう言って城門を叩いたのは、夜盗のような身なりをした見るからに怪しい男。
即座に拘束されたその男は、シリカの元将軍ジェーン・サンライトからの使者だという。鼻で笑った兵に連行されていく彼を救ったのは偶々通りかかった……のではなく、騒ぎを聞きつけたザナンザ・アインクライン。
「待て!使者だと言ったな?名は?」
「キルゲイ。シリカの商人で元Aランク冒険者だ!」
その名を聞いた兵たちが僅かに息を飲んだ。
キルゲイの名はリーンハルトでも有名だ。Aランク冒険者という誰もが羨む身分を捨て、貧しい者を救うために商人となった男気溢れる人物として。
「用件は?」
「……封書を預かっている。人払いをお願いしたい」
よくよく見ればキルゲイの頬はこけ、憔悴した様子は余程無理をしたのだと分かる。
――嫌な予感
それがザナンザの胸をざわつさせた。
ガッシュのいないこの時に……いや、この時だからこそ、か。
「マイモン殿とバハルスを呼んで来い!大至急だ!」
――シリカの裏切り
その驚くべき報せに、会議室に重苦しい沈黙が落ちる。
「これは……事実なのですか?」
そう声を発したマイモンにキルゲイは力なく頷いた。
「上層部は軒並み支配されていると見ていいでしょう。これを見て下さい。この手紙はリィン冒険者ギルドで仲間から受け取ったものです」
取り出した手紙をキルゲイは机の上に広げる。何の変哲もない近況報告の手紙に見えるが……
「これは仲間内で決めているいざという時の暗号文です。最初の文字を縦に読んでみて下さい」
――ジエーンサンライトとうばつ
「まさか!ジェーン将軍が!?」
シリカの元将軍であるジェーン・サンライトとザナンザは旧知の間柄だ。
ジェーンは女の身でありながら、30年という長きに渡りシリカを守ってきた女傑。リーンハルトとの合同訓練には必ず参加してしており、若い頃はザナンザもよく扱かれたものだ。
「いや、ジェーン様にはすでに現状を知らせてあります。そう簡単に殺られる筈がない!!」
ギリリ、と歯を食いしばったキルゲイが悔しそうに手紙を睨みつける。
それは彼の願望だ。鑑定系最高峰の全知魔法の保持者であるジェーンは、敵にとって最優先で殺さなくてはならない標的。
ジェーンが死ねば敵と味方の区別もつかず、反乱軍を創設することすら困難となるだろう。
「何ということだ……王軍が今、サンタクルス伯爵領に攻め込んでいる。もし、シリカが裏切っているとなれば……」
サンタクルス領はシリカとの国境門がある唯一の土地。
キルゲイの話が本当ならば王軍を待ち受けているのはサンタクルス軍だけではなく、シリカとベリアノスの混合軍だ。そうなれば勝ち目はない。
「クソ!王軍に伝令を!」
慌ただしく立ち上がったザナンザは、マイモンを振り返る。
「何かあれば連絡を。私は王軍の救援に……」
そう言いかけた矢先、部屋の扉が乱暴に開かれる。
「大変です!陛下が行方知れず!!攫われた民を助けに行ったきり戻って来ないとアンジェラ将軍から連絡が!」
最悪の展開に、室内に再び沈黙が落ちた。
ふと胸を過ぎった嫌な予感にルーファは顔を上げる。
「ロキ」
その名を呼べば、背後にロキの気配を感じる。
「何かあったの?」
「何も。ルーファが気にするようなことは何もない」
ルーファを見つめるその眼差しは優しく、微笑みを浮かべた顔はいつもと同じ。だが……ルーファはそれに違和感を覚える。
「嘘つき」
口から出たのはそんな言葉。
真っ直ぐにロキを見つめる藤色の目は深く色を変え、逸らすことを許さない。その姿を見たロキは、やがて観念したかのように口を開く。
「……シリカが裏切った。国境からベリアノスとシリカの軍が入り込み、王軍は潰走状態。シリカの皇太子と王女は城に軟禁中だ」
「エリーちゃんが……」
それっきり黙り込んだルーファはロキに背を向ける。それは一人になりたいというルーファの合図。
ロキの気配は消えたが、それはいなくなったと同義ではない。ガッシュとヴィルヘルムがいない現在、ロキがルーファの側を離れることなど有りはしないのだから。
力なくベッドに座り込んだルーファはぼんやりと周りを見回す。その眼は何故か吸い寄せられるように姿見へと引き寄せられた。
そこに移るのは情けない顔でベッドに座っている自分ではなく、微笑みを浮かべる誰か。
――ピチャン……
水の音が聞こえる。
ルーファがハッと目を見開くと、そこには水の世界が広がっていた。
「ここは……」
そこは以前来たことのある場所。
静謐な湖面は鏡の如く滑らかで、そこに映るのは自分であって自分でないモノ。一房だけ黒い白銀色の髪はルーファと同じなれど、その成熟した身体と背後に揺れる数多の尾が自分でない証拠。
(選びなさい)
その人の紅い唇が言葉を紡ぐと同時に、ルーファの脳裏に様々な未来が過ぎる。
死、死、死、死、死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
夥しい数の死体
赤く大地を流れる河
空気を切り裂く断末魔
どの未来も血塗られ、平穏なモノなど有りはしない。全ての人がハッピーエンドを迎えるなど、所詮は物語の中だけの世界……始まった戦いは流血なくして終わりはしないのだから。
「止めて!!」
ルーファは叫ぶと同時に目と狐耳を塞ぐ。
「選べない……選べないよぉ」
泣き出したルーファの脳裏に言葉が響く。
(選びなさい。それがあなたの宿命。あなたは戦うと決めた筈)
その声にハッとしてルーファは顔を上げる。
そうだ。未来を選べるのは自分だけ。覚悟を……覚悟を決めろ!いずれ通る道だ。それが早いか遅いかの違いだけ。
(逃げるな!)
そう己を叱咤したルーファは未来を見据える。より多くの人が助かる未来を掴み取るために。




