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美月の華道 番外編 東京帰省編「楽屋の花」  作者: 八雲 海


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1/1

東京帰省編「楽屋の花」

東京に戻ると、街の匂いが変わる。


 潮でも土でも酒でも醤油でもない、アスファルトと排気ガスと、何万人分かの欲の混じった匂い。美月はハイエースから降り立って、新宿の夜空を一瞥した。星はひとつも見えなかった。


「着いたな」


 辰夫が荷物を下ろしながら言った。


「当たり前じゃないか」


 美月は煙草に火をつけた。旅の間はずっと、夜になると星が見えた。四万十川の夜空なんて、手を伸ばせば届きそうなくらいだった。でも東京の空は光を飲み込む。星の居場所がない。


 それでもここに戻ってくる。


 美月は煙草を一口吸って、路地の奥に目をやった。遠くに『劇場ロゼット』の古びたネオンが見えた。


 歌舞伎町の路地を少し入ったところに、「小屋」はある。


 看板には『劇場ロゼット』と書いてあるが、誰もそんな名前では呼ばない。みんな「ロゼ」と呼ぶ。五十席ほどの細長いホール、舞台はせり出した形で、照明は古くて、PAも古くて、それでも美月には、全国の小屋の中で一番空気が馴染む場所だった。


 楽屋に入ると、先輩のチエが鏡の前でつけまつげを貼っていた。


「あら、美月じゃない。旅から帰ってきたの?」


「ちょっとね」


「どこ行ってたの」


「あちこち」


 チエはそれ以上聞かなかった。この世界の人間は、深く聞かない。それが礼儀だと知っているから。


 美月は着替えを始めた。ステージ用の衣装を広げながら、自分の手の甲を見た。日焼けしていた。旅の日焼けだ。四万十川の老医師の縁側で浴びた午後の日差しが、まだ皮膚の奥に残っているような気がした。


 三回のステージをこなした。


 客は少なかった。平日の夜だから当然だ。それでも美月は手を抜かない。たとえ三人しかいなくても、三人全員に「来てよかった」と思わせることが仕事だと信じていた。


 ステージを終えて楽屋に戻ったとき、オーナーの橘文江が入口に立っていた。


 橘は六十手前で、かつてこの舞台に立っていた女だ。二十年以上踊り続けて、膝を壊して引退して、その後ひとりでロゼを切り盛りしてきた。顔の皺はそれなりに増えたが、立ち方だけはいまだに踊り子の立ち方をしていた。重心が低く、どこかいつでも動き出せるような構えがある。美月が初めてここに来た日、その立ち方だけで信用した。


「美月、ちょっといい?」


 声のトーンが違った。


 橘の事務所は舞台裏の突き当たりにある。スチール棚にバインダーが並んでいて、壁には昔の公演チラシが何枚も貼ってあった。そのうちの一枚に、若い橘が写っていた。美月はこの部屋に来るたびに、そのチラシを少しだけ見てしまう。二十代の橘は、今より細くて、目が鋭くて、それでいて今と同じ立ち方をしていた。


「今日の昼に、面接があったの」


 橘はソファの端に座って、煙草に火をつけた。美月も向かいに座った。


「若い子がひとり来た。二十歳」


「聞いてます」


「あなたのことを知ってるって言うのよ」


 美月は答えなかった。


「旅先で観たって。どこかの小屋で美月のステージを観て、やりたいと思ったって」


 橘は煙を吐きながら、美月を見た。


「背もあるし、顔も悪くない。踊りの経験はないけど、飲み込みは早そうだった。私としては採っても悪くないと思ったんだけど」


 少し間があった。


「一回会ってやってくれない?」


「断り方を、ですか」


 橘は小さく笑った。苦いような、懐かしいような笑い方だった。


「そう。あなたの方が、私よりうまく言えると思って」


 美月は橘の顔を見た。橘はもう笑っていなかった。窓の外の雑踏を見ていた。その横顔に、言葉にならない何かが浮かんでいた。


 昔、同じことを言われた人間がいたのかもしれない。あるいは言えなかった後悔があるのかもしれない。美月はそれを聞かなかった。


「わかりました」


 控室のドアを開けた瞬間だった。


「美月さん!」


 椅子に座っていた女が立ち上がった。コートが膝から滑り落ちたが、本人は気にしていなかった。まっすぐに美月を見ていた。ためていた息を、やっと吐いたような顔だった。


 美月は少し面食らった。


 きれいだった。化粧っ気がなくて、髪も下ろしているだけで、それでもきれいだった。地方から出てきたばかりの、まだどこにも染まっていない顔をしていた。その顔に、隠しようのない熱が浮かんでいた。


「……桃井咲良です」


「うん」


「山形から来ました」


 山形。美月は一瞬、記憶を探った。東北はまだ行っていない。ハイエースで西を回ることが多くて、東北はいつか、と思いながら後回しになっていた。


「どこで観たの、あたしのステージ」


「松山です。去年の秋に、友達と旅行で行って」


「松山か」


 美月の中で、あの小屋の空気が蘇った。古い天井、独特のタバコの匂い、常連の顔ぶれ。その中に、この娘がいたのだ。


「ここで話すのもなんだから、近くに喫茶店があるから、そっちにしましょうか」


 小屋から二分歩いたところに、「灯座」という名前の古い喫茶店がある。


 表通りから一本入った路地の、さらに奥まったところにある。看板は小さくて、知らなければ通り過ぎてしまう。でも扉を開けると、黄色い灯りとコーヒーの匂いが迎えてくれる。マスターは七十近い無口な男で、夜中の二時まで開けている。歌舞伎町のすぐそこにあるのに、この店だけ別の時間が流れていた。


 美月はここで何度、ステージ後に一人でコーヒーを飲んだかわからない。カウンターの端の席が美月の定席で、今夜もそこに並んで座った。


 マスターは何も言わずにコーヒーを二つ出した。美月の顔を見れば、何が必要かわかる男だった。


 咲良はコーヒーを両手で包むように持って、少し俯いていた。さっきの熱が落ち着いて、緊張が戻ってきたようだった。


「たまたま入ったの? 松山の小屋」


「はい。なんか入ってみようって。最初は何なのか全然わからなかったんですけど、美月さんが出てきた瞬間から、目が離せなくて」


 美月はコーヒーを一口飲んだ。


「ステージが終わったあと、泣いてたんです、あたし。なんで泣いてるのか自分でもわからなくて。でもなんか、すごく……自由だなって思って」


 自由。


 美月はその言葉を、胸の奥で転がした。旅先でも、何度かそう言われたことがある。鞆の浦の若女将も、宮島で会った男も、似たようなことを言った。でも美月自身は、自分のことを自由だと思ったことはあまりない。ただ、ここにしかいられないから、ここにいる。それだけのことだ。


「やりたい理由はそれだけ?」


「はい」


「じゃあ、やめな」


 咲良の顔が固まった。


「え」


「この仕事、やめな」


 美月はカウンターの古い木目を見た。


「あたしがここに来た時、二十三だった。あんたより三つ上。でも今思うと、あたしの場合は他に何もなかった。踊ること以外に、何も思い浮かばなかった。だからここに来た」


 咲良は黙って聞いていた。


「あんたは? 他に何かあるんじゃないの」


「……山形で、花屋をやってました。実家が」


「花屋」


「でも、お父さんが体壊して、もう続けられなくて。あたしも東京出て、なんか仕事見つけなきゃと思ったときに、美月さんのことを思い出して」


 美月はしばらく何も言わなかった。


 花屋。


 旅の中で会った人たちの顔が、順番に浮かんだ。鞆の浦の若女将は婚家の料亭を守るために好きなことを諦めていた。倉敷の刺繍職人はひとりで工房を続けながら誰にも言えない孤独を抱えていた。熊本の居酒屋の女将は口だけ強くて本当は誰かに弱音を吐きたかった。みんな、それぞれの場所で何かと戦いながら生きていた。


 でも目の前にいるのは、まだ何も戦っていない娘だ。


 夢貯金、という言葉が頭をよぎった。


 旅に出るたびに、美月は少しずつ削ってきた。誰かの背中を押すたびに、誰かの涙をもらうたびに、少しずつ。それでもまだ諦めていない。でも今夜は違う感じがした。この娘の持っている可能性の大きさと、自分の選んできた道の細さが、カウンターに並んで座っているだけで、見えすぎてしまう。


 まだ二十歳。あたしが踊りを始める前の歳だ。


 夢貯金は今夜も確かに、音もなく削れていた。


「自由に見えたんだよね、あたしが」


「はい」


「ステージの上はそうかもしれない。でも降りたらただの人間だよ。腰も痛いし、膝も痛いし、客に変なこと言われたら腹も立つ。お金だってそんな稼げない。旅回りなんてなおさらそう」


 美月は咲良をまっすぐ見た。


「今の時代にする仕事じゃない」


 自分でそれを言いながら、胸の奥が軋んだ。否定したくない。したくないけれど、この娘には言わなければならない。まだどこへでも行ける娘を、わざわざ陽の当たらない道に引き込んではいけない。


 わかっていた。でも言葉にするたびに、少しだけ自分の足元が揺れる気がした。


「花、好きなの?」


 少し間を置いて、美月は聞いた。


「好きです」


「どんな花が」


「ミモザとか、ラナンキュラスとか。春の花が好きです」


 咲良は初めて、ほんの少し表情が緩んだ。


「じゃあそっちで食べなさい」


「でも、父の店はもう……」


「お父さんの店じゃなくていい。あんたの店を作ればいい。今は小さくても、マルシェでも、ネットでも、やり方はいくらでもある。花屋の娘が花を売れないわけがない」


 咲良は俯いた。


「でも、美月さんみたいに……」


「あたしみたいになりたいの?」


「なりたいっていうか……」


「あたしは、ここにしかいられなかったからここにいる。あんたはそうじゃないでしょ」


 美月は煙草を一本取り出して、火をつけた。


「ステージ観て自由だと思った、それはあんたの中に自由になりたい気持ちがあるから。でも自由になる方法は、ここだけじゃない。むしろここじゃない方が、ずっとたくさんある」


 煙を吐いた。


「まだ二十歳でしょ。もったいない」


 長い沈黙があった。


 咲良は両手でコーヒーカップを包んだまま、何かを考えていた。カップはとっくに冷めているはずだった。マスターが無言で新しいコーヒーを出した。咲良は小さくお礼を言って、また黙った。


「……美月さんは、後悔してますか」


 突然の問いだった。


 美月は少し考えた。正直に考えた。


「後悔はしてない」


 本当だった。


「でも、寂しいことはある」


 それも、本当だった。


「旅先でいろんな人に会うんだ。花屋もあれば、料理人もいる、医者もいる、遍路をしてる人もいる。みんな自分の場所で、何かと戦いながら生きてる。あたしはその場所に火をつけて、次の小屋に行く。それがあたしの生き方だから、それでいい」


 美月は咲良を見た。


「でも、あんたにはあんたの場所がある」


 咲良はゆっくりと顔を上げた。目が少し赤くなっていた。


「……花屋、やってみます」


 声はまだ震えていたが、さっきとは違う震え方だった。決めた人間の声だった。


「うん」


「あの、困ったときは……」


「電話してきな」


 美月は煙草を灰皿で押しつぶしながら言った。


「番号は橘さんに聞けばわかる。すぐ出られないこともあるけど、必ず折り返す」


 咲良は深く頭を下げた。それから顔を上げて、少し躊躇ってから言った。


「あの……山形、来たことありますか」


「ない」


 美月は即答した。


「東北はまだなんだよ。ハイエースで西ばっかり走ってたから」


 咲良は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「じゃあ、花が咲いたら呼んでもいいですか」


「呼んで」


 美月はそれだけ言った。


 咲良がはじめて、本当に笑った。松山の小屋でステージを観ていた十九歳の娘が、今ここにいる気がした。


 咲良が店を出て、ドアが閉まった。


 美月はしばらく、カウンターで一人でいた。マスターはグラスを磨いていた。何も言わなかった。この男はいつもそうだ。余計なことを言わない。それが美月には、どこより楽だった。


 煙草に火をつけようとしたとき、店のドアが開いた。


 入ってきたのは、僧衣を着た大柄な男だった。


 堂島剛道は、まだ五十代だというのに、もっと年月を重ねた男の目をしていた。僧衣の下に、かつてどんな時代を生きてきたかが滲んでいた。顔の傷は薄くなっても、消えてはいない。でも目は穏やかだった。長い年月をかけて、少しずつそうなった目だった。


 マスターが何も言わずにコーヒーを出した。堂島がここに来るのは、珍しいことではなかった。この店はそういう場所だった。表通りの喧騒を嫌う人間が、自然と引き寄せられてくる。


 堂島は美月の隣に、当然のように座った。


「遅かったな」


「旅から帰ったばかりだよ」


「どこ行ってた」


「あちこち」


 堂島は小さく笑った。それ以上聞かなかった。


 しばらく、二人は黙ってコーヒーを飲んだ。灯座の黄色い灯りが、二人の顔を柔らかく照らしていた。歌舞伎町の夜の音が、ガラス越しに聞こえてくる。遠くて、近い。


「辰夫は」


「ハイエースで待ってる」


「呼んでこい」


「もう少ししたら」


 また黙った。でも不思議と、この沈黙は重くなかった。堂島といるときの沈黙は、いつもそうだ。埋める必要がない。


 美月が煙草に火をつけると、堂島も一本もらった。僧侶なのに煙草を吸う。それを誰かに指摘したら、「煩悩は持ったまま生きていくもんだ」と言っていた。その言葉が、美月は妙に好きだった。


「今夜、若い娘と話した」


 美月はぽつりと言った。


「ここで?」


「さっきまで。山形から来た、まだ二十歳の娘。あたしのステージ観て、やりたいって」


「それで」


「断らせた」


 堂島は煙草を一口吸って、煙を吐いた。


「そうか」


「花屋の娘でさ。お父さんが体壊して、店畳んで、それで東京出てきて」


「よく聞いたな、そこまで」


「聞いてるうちに出てきた」


 美月は灰皿に煙草を押しつけた。


「陽の当たらない道に引き込んだらいけないと思ったから、ちゃんと言ったよ。でもさ」


 そこで少し止まった。


「自分でそれを言うのが、なんか」


 堂島は何も言わなかった。


 美月も続けなかった。でもそれでよかった。この男は、結論を急かさない。


 しばらくして、堂島が静かに言った。


「減った分は、誰かに移っただけだ」


 美月は堂島を見た。


「夢貯金みたいなもんだよ。お前が削った分が、その娘に移った。移った先で花になる。それだけのことだ」


 美月は少し黙った。


「坊さんみたいなこと言うね」


「坊さんだからな」


 堂島が珍しく、声に出して笑った。美月も笑った。


 マスターがまたコーヒーを出した。何も言わずに、三つ。


 ドアが開いて、辰夫が入ってきた。


 辰夫は堂島を見て、小さくうなずいた。堂島も同じようにうなずいた。それだけだった。長い付き合いの男たちは、それだけで足りる。


 辰夫はカウンターの端に座って、コーヒーに口をつけた。


 三人で、しばらく黙って飲んだ。


 灯座の黄色い灯りの下で、歌舞伎町の夜が窓の向こうを流れていった。ネオンが揺れて、人が流れて、誰かが笑って、誰かが泣いている。この街はいつもそうだ。止まらない。


 でも灯座の中だけは、時間がゆっくりだった。


 美月はここに来ると、いつも少しだけ、息ができる気がした。旅先でどれだけ削られても、どれだけ夢貯金が減っても、ここに来れば少しだけ補充される。堂島がいて、辰夫がいて、マスターがいて、古いカウンターがあって。それだけで、また走れる気がした。


 店を出たのは、夜中の一時を過ぎた頃だった。


 辰夫はハイエースに戻った。美月は少しだけ、路地に立ち止まった。


 堂島が隣に並んだ。


「山形、行くのか」


「春になったら、って約束した」


「東北は行ったことないだろ」


「ない。でも行く」


 堂島は少し空を見上げた。


「東北の春は遅い。でも来たら、本物だ」


 美月も空を見た。東京の夜空に、星はやっぱり見えなかった。でも今夜は、それでいい気がした。


「剛道さん」


「なんだ」


「あたし、まだやれるかな」


 堂島はすぐには答えなかった。路地の奥を見ていた。流魂寺の方角だ。


「お前が諦めるのを、俺はまだ見たことがない」


 それだけ言って、堂島は路地の奥へ歩いていった。僧衣の背中が、歌舞伎町の灯りの中に溶けていった。


 美月はしばらく、その背中を見ていた。


 夢貯金は今夜も少し減った。


 でも美月は、諦めてない目をしていた。


 春になったら山形に行こう。ミモザとラナンキュラスがどんな花か、自分の目で確かめに。東北の空には、星が見えるだろうか。


 美月はハイエースに向かって歩き始めた。辰夫がエンジンをかける音が聞こえた。


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