■第6話
どれくらいその場に立ち尽くしていたのか、分からない。
時間の感覚がなくなっていた。
箱の中から目を離せなかった。
見てはいけないのに、見ていないといけない気がした。
妹の顔は、もう形を保っていなかった。
さっき見えたはずなのに、今は他のものと混ざっている。
どこからが顔で、どこからが別の何かなのか分からない。
ただ、動いている。
ゆっくりと、内側で組み替わっている。
そのたびに、湿った音がする。
ぐち、ぐち、と。
呼吸みたいに。
胃の奥がひっくり返りそうになる。
それでも、吐けなかった。
何も出てこない。
体は正常なままだった。
それが、余計に気持ち悪かった。
そのとき、玄関の方で音がした。
ドアが開く音。
鍵はかけていなかった。
誰かが入ってきた。
反射的に振り向いた。
足音が近づいてくる。
ゆっくりと。
迷いのない足取りだった。
廊下を歩く音が、まっすぐこちらに向かってくる。
さっきまでの“軽い足音”とは違う。
重い、人間の足音。
それでも安心できなかった。
この家に、まともなものが入ってくるとは思えなかった。
部屋の前で足音が止まる。
一拍置いて、扉が開いた。
今度は、普通に。
軋む音と一緒に。
立っていたのは、知らない男だった。
四十くらいに見える。
無精髭が伸びていて、目の下に濃い隈がある。
第一印象は、“疲れている”だった。
でも、目だけは違った。
部屋の中を一瞬で見渡して、すぐに箱に視線を止める。
「……間に合ってねえな」
小さく呟いた。
その声に、聞き覚えがあった。
電話の男だ。
「お前か」
こっちを見た。
「電話したの」
うまく声が出なかった。
それでも頷く。
男はそれ以上何も言わず、部屋の中に入ってきた。
床の黒い塊を踏みつけても、気にした様子はない。
そのまま箱の前まで行く。
しゃがみ込んで、しばらく見ていた。
近くで見ているはずなのに、表情が変わらない。
慣れているみたいだった。
「……チッポウ、か」
ぼそりと呟く。
聞き慣れない言葉だった。
「何それ」
聞かずにはいられなかった。
男は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を戻した。
「段階があるんだよ、これには」
箱を顎で示す。
「数で変わる。中に入ってる“元”の数でな」
ぞっとした。
聞きたくなかった。
でも、耳が勝手に拾う。
「これは、その中でも上の方だ。かなりな」
軽く舌打ちする。
「最悪じゃないだけマシってレベルだがな」
十分すぎるほど最悪だった。
「止められるのか」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
男は、はっきりと首を横に振った。
「無理だな」
即答だった。
間がなかった。
「もう始まってる。しかも、ここまで進んでる」
箱を指で軽く叩く。
中のものが、ぴくりと反応した。
「止める段階はとっくに過ぎてる」
現実を突きつけられた。
分かっていたはずなのに、言葉にされると違った。
「じゃあどうすれば——」
「どうにもならん」
被せるように言われた。
声は強くない。
でも、否定の余地がなかった。
「出来るのは、被害を広げないことだけだ」
その言い方が引っかかった。
「広げないって……」
「外に出すな」
短く言い切る。
「これを、他に移すな」
心臓が嫌な音を立てた。
「移るのか」
男は少しだけ黙った。
それから、視線をこちらに向ける。
「お前、まだ平気だな」
質問じゃなかった。
確認だった。
頷くしかない。
「なんでか分かるか」
答えられなかった。
でも、さっきの“理解”が頭をよぎる。
——これは、お前じゃない。
「……対象じゃないから」
絞り出すように言った。
男は一瞬だけ目を細めた。
「理解が早いな」
褒められている気はしなかった。
「これはな、最初から決まってる」
箱を見ながら続ける。
「何を壊すか、どこまで壊すか」
静かな声だった。
「お前は外れてる。だから動ける」
同じことを言われる。
でも、さっきより重かった。
「じゃあ……」
言葉が詰まる。
聞きたくない。
でも、聞かないといけない。
「妹と母さんは」
男は答えなかった。
代わりに、箱を指差した。
「もう見ただろ」
それで十分だった。
喉が締まる。
息がうまく吸えない。
「まだ終わってねえ」
男が続ける。
「これ、“途中”だ」
背筋が凍る。
「完成するとどうなるか分かるか」
首を振るしかなかった。
男は少しだけ視線を落とした。
「空になる」
意味が分からなかった。
「中がか?」
「逆だ」
ゆっくりと顔を上げる。
「外が、だ」
言葉の意味が理解できなかった。
したくなかった。
「周りから消えていく。条件に当てはまるやつがな」
頭が真っ白になる。
「このままいけば、この家だけじゃ済まん」
男は立ち上がった。
決断したみたいに。
「場所、変えるぞ」
「は?」
思考が追いつかない。
「ここに置いといたら、この辺一帯が終わる」
当たり前みたいに言う。
「だから持ってく」
箱を指差す。
「もっと人のいない場所に」
理解した瞬間、血の気が引いた。
「それって——」
「移すだけだ」
男はあっさり言った。
「終わらせる方法はない。だから遅らせる」
その言葉の意味が、重くのしかかる。
つまり——
どこか別の場所で、同じことが起きる。
「ふざけんなよ……」
思わず声が出た。
男は何も言わなかった。
否定もしなかった。
ただ、箱を見ている。
そのとき、箱の中で大きく動きがあった。
ぐちゃ、と音がする。
今までで一番大きい。
中の形が、はっきり変わる。
何かが、まとまり始めている。
嫌な予感がした。
さっきより、はっきりと。
“次”が来る。
男もそれを感じたのか、舌打ちした。
「時間がねえ」
そう言って、箱に手を伸ばす。
触れた瞬間、びくりと止まった。
わずかに、眉が動く。
初めて見せた反応だった。
「……おかしいな」
小さく呟く。
「どうした」
聞くと、男はゆっくりとこちらを見た。
「これ、もう一段階上がるぞ」
意味が分からなかった。
でも、次の言葉で理解させられた。
「数が、足りてる」
心臓が止まりそうになった。
「そんなはずねえ……」
男が低く言う。
「この進み方は異常だ」
箱の中が、大きく脈打つ。
どくん、と。
生き物みたいに。
そして——
はっきりと、もう一つ“顔”が浮かび上がった。
今度は、妹じゃない。
もっと見慣れた顔。
その瞬間、スマホが鳴った。
父親からだった。
震える手で取る。
「もしもし」
返事はなかった。
代わりに聞こえたのは——
ぐち、という音だった。
ありがとうございました。
感想をいただけるとありがたいです。




