■第10話
車は、街を外れていった。
見慣れた建物が減っていく。
代わりに、暗い空き地や林が増える。
それでも、“影”は消えなかった。
数は減った気がする。
でも、ゼロにはならない。
どこにでもいる。
点々と。
じっとしているやつもいれば、ゆっくり歩いているやつもいる。
どれも同じだった。
目が合う。
口が動く。
——たすけて
もう、耳に残らなくなっていた。
慣れたわけじゃない。
受け止めきれなくなっただけだ。
「……この先だ」
男が言った。
細い道に入る。
舗装が荒れている。
タイヤが小さく跳ねる。
「何があるんだよ」
「使われてねえ施設だ」
短く答える。
「人が寄りつかねえ場所」
理にかなっていた。
ここに持ち込めば、被害は抑えられる。
そう考えている自分がいた。
気持ち悪かった。
でも、否定できなかった。
そのとき、前方に光が見えた。
小さな建物。
明かりがついている。
「……誰かいるぞ」
思わず言う。
男が舌打ちした。
「まだ残ってやがるか」
スピードを落とさない。
「避けて通れねえのか」
「無理だ。この道しかねえ」
距離が詰まる。
建物の前に、人影が見えた。
二人。
立っている。
手を振っている。
明らかに、こっちに気づいている。
「止まるな」
男が言う。
即答だった。
でも——
「無理だろ……」
口から出た。
あんな風に助けを求められて、無視できるか。
できるはずがない。
アクセルが緩む。
「やめろ」
男の声が鋭くなる。
「止めたら終わる」
「でも——」
「終わるんだよ!」
怒鳴られた。
でも、足は止まらなかった。
ブレーキを踏んだ。
車が減速する。
「ふざけんな!」
男がハンドルを叩く。
でも、もう遅かった。
車は建物の前で止まった。
二人が駆け寄ってくる。
若い夫婦に見えた。
女が腹を押さえている。
男が支えている。
息が荒い。
「助けてください!」
男の方が叫んだ。
「急に苦しがって——」
言い終わる前に、女が崩れた。
膝から落ちる。
口から、赤いものが溢れる。
見覚えのある光景。
体が勝手に動いた。
ドアを開ける。
「おい!」
駆け寄る。
男も慌てて言う。
「さっきまで普通だったんです!」
女の体が痙攣する。
腹のあたりが、不自然に動く。
中で何かが動いている。
分かっている。
見たことがある。
それでも、手を伸ばしてしまった。
「触るな!」
後ろで男が叫ぶ。
でも、止まらなかった。
肩に手をかける。
体を起こそうとする。
その瞬間——
女の目が、こちらを向いた。
焦点が合っていない。
でも、確実に見ている。
口が動く。
声は出ない。
それでも、分かる。
——たすけて
次の瞬間、腹が大きく波打った。
ぐち、と音がする。
中で何かが弾ける。
手に、ぬるい感触が伝わった。
反射的に手を離す。
でも、遅かった。
黒いものが、腕に付着している。
細く、絡みつく。
生きているみたいに。
「……っ!」
振り払おうとする。
でも、離れない。
皮膚に張り付く。
じわじわと、上に這い上がる。
「やめろって言ったろ!」
男が走り寄ってくる。
箱を抱えたまま。
そのとき、後ろで音がした。
どくん、と。
振り向く。
車の中。
後部座席の箱が、大きく脈打っている。
さっきより強く。
明らかに、反応している。
増えた。
分かってしまった。
今の接触で、確実に。
「……最悪だ」
男が吐き捨てる。
「増やしたな」
言葉が刺さる。
否定できない。
事実だった。
腕の黒いものが、さらに動く。
皮膚の上を這って、服の中に入り込もうとする。
「取れ……!」
必死に掴んで引き剥がす。
ぬるりとした感触。
中に硬いものがある。
骨みたいな。
無理やり引きちぎる。
ぶち、と嫌な感触が伝わる。
地面に叩きつける。
それでも、完全には離れない。
小さな欠片が、まだ皮膚に残っている。
焼けるみたいに熱い。
「戻れ、車に!」
男が叫ぶ。
もう一人の男が呆然と立っている。
何が起きているのか理解できていない顔。
その足元に、黒いものが広がっていく。
さっき女から溢れたもの。
それが、ゆっくりと這い上がっている。
「逃げろ!」
思わず叫んだ。
でも遅かった。
その男の足に絡みつく。
一瞬で、膝まで覆う。
悲鳴が上がる。
次の瞬間、崩れた。
ぐちゃ、と音がする。
体が内側から崩れる。
見ていられなかった。
車に飛び込む。
ドアを閉める。
「行け!」
男が叫ぶ。
エンジンをかける。
アクセルを踏む。
タイヤが空転する。
一瞬、進まない。
その間にも、外で音が増える。
ぐちゃぐちゃと。
何かが増えていく音。
やっと車が動いた。
そのまま道を突っ切る。
バックミラーを見る。
建物の前が、黒く染まっていく。
人の形がいくつも立ち上がる。
さっきの二人も、その中に混ざっている。
口が動く。
同じ言葉。
——たすけて
視線を前に戻した。
何も言えなかった。
呼吸がうまくできない。
胸が痛い。
頭の中で、同じ言葉が回る。
自分のせいだ。
分かっている。
分かりきっている。
止められたはずだった。
でも、止めなかった。
助けようとした。
その結果がこれだ。
後部座席を見る。
箱の中が、さらに膨れている。
さっきより明らかに大きい。
収まりきらないみたいに、押し広げている。
顔が増えている。
さっきの二人もいる。
歪んだ形で。
口を開いている。
——たすけて
もう聞きたくなかった。
でも、聞こえる。
頭の中で。
消えない。
そのとき、男が低く言った。
「……分かっただろ」
何も答えられない。
「お前がやったんだ」
言葉が突き刺さる。
逃げ場がなかった。
「善意でな」
その一言で、何かが折れた。
完全に。
もう言い訳ができなかった。
助けたかっただけだ。
それが一番、最悪だった。
しばらくして、口が動いた。
自分でも驚くくらい、静かな声だった。
「……どこに持っていけばいい」
男は何も言わなかった。
ただ、前を見たまま、小さく頷いた。
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