月の扉
月の扉
護が『アルビトリウム』へ帰る日が来た。もう夜中だと言うのに蒸し暑かった。彼はこの世界にいられる最後の日だというのに不思議と悲しみ、不安、そして未練も感じなかった。彼はそれがこれから香と再会できる悦びが強いせいだろう思った。
彼は『紅葉通り』から『運命の丘』に向かってゆっくりと歩いた。ファルの話ではその日の深夜十一時から0時の間に『クラヴィス』の力が回復するということだった。その時刻までまだ三十分くらい時間があった。彼は丘の頂に立って四方を眺め渡した。そして彼が砂浜に目を移した時、ファルと約束した場所で何かが動いたように見えた。彼は砂浜に向かう階段を下り始めた。その場所には月明かりに照らされたファルが一人で海を眺めていて座っていた。彼女は彼が近づいて来るのが分かっている筈なのに彼に見向きもしなかった。彼は彼女から少し離れた所で立ち止まり彼女を見つめた。
月明かりに照らされた彼女は美しく輝いているように見え、彼は綺麗な一枚の幻想画を見ているような錯覚に囚われた。
「なんて綺麗なんだろう! 本当に俺はこんな美人と『アルビトリウム』でずっと一緒に過ごすことになるのかな?」
護はそんなことを思った。そして彼は彼女の傍まで歩いて行き隣りに座った。彼女は相変わらず海を見つめていた。彼は彼女の横顔を見つめた。
「やっぱり美しい……」
護はしみしみと思った。それから彼は海に視線を移しファルと同じように水平線を眺めた。
「私は『アルビトリウム』に帰りたくない」
ファルが呟くように言った。
「え?」
護は耳を疑った。彼女の言葉の意味が分からなかった。
「私はアルビトリウムに帰ったら、あなたの『幻霊』としてあなたと一体になる。絶えず傍に付き添って守護としての役目を果たさなければならない」
「俺と契約したことを後悔してるんですか?」
護は彼女の方を見ることができず悲しい気持ちになり俯いた。
「いいえ、私はあなたの『幻霊』である資格がないの」
「えっ!?」
護は驚いて彼女の横顔を見た。
「『幻霊』は主に対して特別な感情を持つことは許されないから」
ファルはそう言って彼の方に顔を向けた。彼には彼女の潤んだ瞳が眩しかった。
「あ、あの……それはどういう…?」
護と彼女は視線が重なり合った。
「私はあなたのことを……」
ファルはそう言って彼の胸に顔を埋めた。
暫く沈黙が続いた。波の音だけが辺りに響き渡っていた。
護はどうしていいか分からなかった。彼は彼女の髪から漂う何とも言えない甘く心地よい香りで頭がボウっとなった。彼は彼女を抱き締めたいという衝動に駆られた。そんな衝動を寸前のところで彼の理性が抑えていた。彼はどれ程の時間そうしていたか分からなかった。時々彼女の啜り泣くような小さな声が彼の耳に聞こえてきた。
突然のことだった。彼女が顔を上げて彼の顔を見上げると、彼女の綺麗な美しい顔が彼の顔に迫って来たかと思うと彼の唇に彼女の唇が重なってきた。それは一瞬のことだった。それから彼女はすくっと立ち上がり空を見上げた。
「すみません、ステラ! 今のことは忘れて下さい。私はあなたを守護する『幻霊』です。私はこれからずっとあなたにお仕えし生死を共にします!」
ファルはさっきとは全く違う毅然とした口調になり、その顔は凛とした表情に変わっていた。彼は何がどうなっているのか分からず戸惑うしかなかった。
「さあ、時間です!」
ファルは彼を見下ろして左手を差し伸べた。彼はその手を握り締め立ち上がった。彼は彼女の視線を追って空を見上げた。すると月の中に青い小さな光が現れて彼らの方に向かって降りて来た。やがてそれが人の姿だと分かるようになり、彼にはそれが香たちの言っていた光の人だと分かった。そして彼らの傍まで来ると彼女は空中で静止した。
「お迎えに参りました、『ソルジャー』。私は『月の案内人』です。これから私が『アルビトリウム』へご案内致します。あなたの『クラヴィス』をお渡し下さい」
『月の案内人』はそう言った。
護は急いで『クラヴィス』を彼女に手渡した。彼女はそれを月に向けて翳した。次の瞬間、彼らを眩い光が包み込んだ。光が収まり彼が空を見上げると月に大きな青く光る穴が現れていた。彼女は彼の手を取り月に向かって飛び上がった。
「ちょっと待って! 彼女を連れて行かないと!」
護は『月の案内人』に言った。
「彼女とは?」
『月の案内人』は彼の方を見下ろした。
「ファルのことです!」
「そんな人はいませんよ」
「えっ!?」
護は地上を見下ろした。そして砂浜を見て驚いた。そこには自分の身体があった。砂浜にまるで寝ているように横たわっていた。しかしそこにファルはいなかった。彼はハッとして左手で自分の身体を確認した。彼は再び驚いた。自分の身体が硬く感じられ筋肉質になっていた。
「一体どうなってるんだ!?」
護は叫んだ。
「時間がありません。急ぎましょう、『ソルジャー』」
彼女は彼に向かってそう言うと青い光の穴へと突入した。護はその穴に入ると同時に意識が遠退いて行く感覚に襲われた。やがて彼は意識を失った。




