■第36話 溢れ出る涙
まだ明けない夜空の下ふたりは身を寄せ合ってベンチに座り、ふたりではじめる
”夢の生活 ”の話をいつまでもいつまでも続けていた。
それを想像している間はただひたすら愉しくて幸せで、その ”夢 ”をずっと
見ていたくなる。
その、ただの ”夢 ”を永遠に。 ”夢 ”と分かっていて尚、永遠に。
クスクスと愉しそうに笑い続けていたシオリが、チラリとショウタを横目で
見るとふと頭をよぎった一言を口に出す。
『ねぇ・・・ 私たちっていつまで経っても苗字呼びだね?』
シオリは、ショウタに強く握られる手を小さくトントンとそのジーンズの脚に
打ち付けてショウタに合図を送るように悪戯な視線を流す。
『そう言えばそうだな・・・ ”シオリ ”って呼んだほうがいい?』ショウタが
朗らかに笑みを作って覗き込む。 付き合っているのだから本来ならば下の名前
で恋人同士らしく呼んでもいいはずだが、いまだにふたりは苗字で呼び合っていた。
『ヤスムラ君は・・・? ”ショウタ ”って呼ばれたい?』
ふたり見つめ合って、その目の奥の真意をはかる。
そして、同時にぷっと笑い合った。 今現在、未成年のふたりが深夜に家を
飛び出し駆け落ちしようと、年齢詐称の計画まで立てているというのにこんな
非常時に呑気に ”呼び名 ”の事なんか考えている状況に吹き出して笑う。
ショウタがまっすぐ向いたまま、ポツリと呟いた。
それは、まるで自分で自分に言い聞かせるように、噛み締めるように。
『ホヅミさんがホヅミさんでいる間は・・・
・・・27才の春までは、このまま苗字で呼ぶよ。』
『・・・うん。』 やさしくコクリと頷くシオリも全く同じことを考えていた。
そんな未来が待っているのだとしたらどんなに幸せだろう。
シオリがヤスムラ姓になる事と、ホヅミ姓のままでいる可能性、どちらが高い
パーセンテージを含んでいるのか考えかけて思わずまた現実に引っ張られそうに
なり、慌ててまた夢の続きを描こうと躍起になる。
一瞬感じたシオリのどこか沈んだ気配にショウタは努めて明るい話題を探した。
『そういえばさ・・・ ホヅミさんってどんな子供だったの~?』
急に訊かれたこども時代エピソードに、咄嗟にショウタの実家に飾ってある
小学生時代の家族旅行写真の野球帽少年を思い出し、笑いそうになるシオリ。
ニヤニヤする頬を鎮めながら目を細めてそっと思い出に浸るように話し始めた。
『こどもの頃は、いっつも病院が遊び場だったなぁ・・・
ウチの病院、すごく長く勤めてくれてる人ばかりだから、
みんな親戚のおじさん・おばさんみたいな感じで・・・
・・・すっごく可愛がってもらってたんだぁ・・・。』
シオリが嬉しそうに話すその横顔を、ショウタは無言でまっすぐ見つめていた。
『入院中の同い年くらいの子と仲良くなってね、
看護師さん達の休憩室で隠れんぼしたり・・・
院長室に忍び込んで、お父さんの偉そうな皮のイスにこっそり座る
っていう度胸試ししたり・・・。』
クスクスと思い出し笑いをして肩をすくめるシオリ。
暫くひとりで愉しそうに笑い続け、小さくひとつ溜息をつくように漏れた一言。
『楽しかったなぁ・・・。』
その瞬間、首を反らして真っ暗な空を見上げたシオリの瞳から、希望の光が
失われたような気がした。
笑っていたはずのその瞳の奥が悲哀の色に変わったような。
そして、それはゆっくりと。 しかし、確かな決意を含んで発せられた。
『私・・・ 病院が大好きなの・・・
こどもの頃から、ずっと・・・ ウチの、病院が・・・。』
それはまるで、今夜家を飛び出しはしたものの本当は既に覚悟を決めていた
ような声色で。
そう呟いた途端、シオリの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
その溢れ出る涙を、ショウタは何も出来ないまま息を止めて見つめていた。




