4
周りの社員より一足先に、僕は半そでの制服で仕事をしていた。
動いていると暑くてかなわなかった。
もう6月になるが、この地域は暖かくなるのが遅く、まだ涼しいと言えば涼しいのだが、僕にとってはもう夏だ。
外は梅雨の時期ということもあり、梅雨前線の影響で酷い土砂降りだった。
こんな日に限って小玉坂のあの家へ運ぶ荷物が随分と大きく重量感がある。
いつもの彼女の家の庭に配送車を止めると、慌ただしく荷物を下ろす。
雨だというのにサンルームの扉はやはり全開だった。
ナメクジのように横になってヘッドホンで耳をふさいだままスマートフォンを弄っている彼女が見えた。
荷物をなんとかサンルームの中まで運び込むと、彼女はようやくこちらに気づいたようで、ヘッドホンを首にかけてごろりとこちらに顔を向けるようにして転がった。
「そこの砂利道、すぐ水がたまるのさ。大丈夫だった?」
「はい、なんとか…それより、重いっすね、これ。何入ってるんですか」
「あ、多分この前頼んだお酒だ!これ全部お酒だよ。世界のビール詰め合わせ!」
彼女は上機嫌に起き上がると荷物を開け始めた。
「サインくれます?」
受領書とペンを差し出すが、彼女は無視して段ボール箱を開けた。
中を漁りながら、わくわくしている彼女の横顔は一段と素敵だったと思う、顔だけは。
「雨宿りしんしゃい。座ってて」
サンルームのさらに上には屋根がかかっているので、サンルームに腰掛けても濡れはしないだろう。
落ち着かないままとりあえず座り、一声かけた。
「あのですね、この雨のせいで仕事遅れ気味なんですよ…」
「君も一本飲んでく?」
僕の話など聞いていないのだろう。
この気持ちはきっと彼女が僕に全く興味を示さないことへの苛立ちだ。
「仕事中なんで…」
「一本ぐらい余裕よ、ね?」
「駄目です!」
「真面目だなあ…ドイツのビールとか飲んだことないでしょ、君。飲めばいいじゃん…」
ぶつくさ文句を言いつつ、お金のやり取り、サインまでを済ませる。
「また代引きですね、今度は52980円」
「おう」
お釣りを受け取りながら、彼女はまるで媚びるかのように笑いかけてきた。
本当に顔だけは可愛いなと思う。
「お前、絶対ベルギービール好きだと思うよ。今飲まなくてもいいから持って帰りなよ」
「いいんですか?」
「あ、今、ちょっと喜んだな。やっぱあげない」
彼女はやはりどこか苛立たせるものがある。
この人をぎゃふんと言わせたい、という対抗心が湧いてくるのだった。
一度でいいから口でいい負かして、泣かせたい。
例えばの話、この人とセックスするよりそっちの方が気持ちいいと思う。
しかし、うまい言葉も出てこないまま、控えを渡しながら、僕は毒づいていた。
「間瀬さんってニートの割には羽振りいいですよね」
「まあねー。昔、めっちゃくちゃ稼いだのさあ」
「貯金で暮らしてるってこと?」
「そうよ。この家も私のお金一括ぽーん払って建てたのさあ」
「すごいっすね…」
「ここもね、ガラスも結構いいの使ってるし、電気も通してるし、ほら、ここにもエアコンあるよ。ここだけでも大分お金かけてるよー」
そう言って、彼女はサンルームをさすように手を広げて見せた。
「でもこのサンルーム、ロッジみたいなこの家と雰囲気違いますよね。後付けっぽいっていうか」
「あ、気付いた?この前、ウッドハウス調なこの家に一つだけ合わない点があるって話したじゃん」
「ああ、はい」
「それがここなの。私の愛の巣」
「愛の巣?」
「そう。まだ見ぬ男に嫉妬しなかった?大丈夫?」
「え…彼氏いるんですか?」
「いない」
「なんだ…」
思わず安心してしまった僕に、にやりと笑いかける彼女を見て、嵌められたと思った。
悔しさのあまり、視線を逸らした先には新緑の桜と大粒の雨。
「あとさ、ここをサンルームと呼ぶのはやめ」
「え?」
「縁側と呼びなさい」
「縁側?」
古臭い縁側と言う呼び方は、近代的なガラス張りのサンルームには似合わなかった。
「縁側。大好き。愛の巣」
「よく分かんないですけど…」
「ここには愛が詰まっているという思い込みですん。しかし、なんでここだけ現代的なんだと思う?」
「さあ…」
「ここだけ私の要望が反映されてるのだ。他は全部家族の要望を通した。本当は私はもっと近未来的な設計にしたかったのよ」
「なんか…サンルームに、」
「縁側!」
「ああ、そうだった。その、縁側にこだわりあるんですね」
「あるよー。私はそう躾られてしまってるんだよー」
変な言い方をする人だと思いつつ、それは聞き流しておいた。
暫く沈黙と雨音が続き、そろそろ帰らないととも思ったが、この雨を見ていると仕事も憂鬱に感じる。
ここで彼女と訳の分からないことを話している方がまだましだった。
「どうして、仕事しないんですか?」
「やりたくないからだよ」
「でも、前は設計士やってたんでしょう?立派な仕事だと思うけど…」
「立派だからやるっていう思考回路がないんよ」
「はあ…」
話しながら、彼女は座椅子を揺らしつつ煙草に火を付けた。
彼女は表情を僅かに引き締め、煙を吐き出し、こちらを見る。
「君は、運送会社の社員さんでしょ?」
「見ての通りです」
「でも本当にやりたいことがあったんじゃない?」
「僕は…」
思わずすらっと言いかけた自分に驚いた。
なんとか自制して黙ってしまったが、彼女はその様子を見逃さない。
彼女は首を傾げて、足を延ばして僕の太股をちょんちょんと蹴る。
「なに恥ずかしがってる」
一瞬、感じた羞恥心を悟られたことで、また優位を取られたと思った。
まるで父親に説教をされているような気持ちになる。
煙草のわかばの匂いが空間に充満し全開に開いた戸の外へ煙が逃げていく。
僕には夢があった。
僕は親にも友達にも言ったことが無い、でも、焦がれるほど憧れていた夢。
その気持ちは小学生の頃から今まで変わっていない。
それでも、こっ恥ずかしくて、人に言ったら必ず馬鹿にされるだろうと思い、誰にも言えなかった。
なのに、何故だか、この人に言ってもいい気がした。
むしろ、この人に言うべきなのだと思った。
「笑わないでくださいよ?」
「面白かったら笑う」
そう言われ、少々息を飲んだが、思い切って話した。
「自衛隊の…」
「うん」
「音楽隊がやりたかったんです…」
「おお。君が音楽やるようには見えなかったよ。悪かった」
「なんで謝るんですか」
「芸術の1%も理解してない人間だと思ってた」
「酷いっすね…」
なんだか馬鹿にされたのかも良く分からないし、すんなり受け入れているような様子でもある。
「音楽隊の無料演奏会はたまに見に行くな…いいよね、あれ」
「間瀬さん、そういうの見に行くんですね」
「新聞のチラシに載ってるからよ」と言いながら煙を吐き出す。
「新聞なんか読むんです?」
「お父さんの為に取ってるの」
少なくとも父親と住んでいるのだろうか。
その割にはこの家は静まり返っているような気がする。
「音楽、好きなの?」
「小学校の頃からずっとトロンボーンやってました。トロンボーンが好きなんですよね、ずっと。中高は吹奏楽部で部長もやってたんです。ソロは絶対僕だったし…そこそこ上手かったんですよ。でも、一度も大きな成績は残したことないし、高校の最期の年もダメ金で…」
「そんなんはいい。それより、しないのか?」
「え?」
「何やってるんだ。配達員なんてしてる場合じゃない。トロンボーン練習しろ、自衛隊入れ」
「簡単に言わないでくださいよ。自衛官にはなれるかもしれないけど、音楽隊なんて音大出ばっかりです…僕みたいな高卒が音楽隊に入れるわけ…」
「お前は…つくづくしっかりしてるな」
「え?」
「君はきっと一生狂わずに生きていけるだろうよ」
言っていることは納得してもいいようなものだったが、それはまるで馬鹿にしているようにも聞こえる口調だった。
宙を見ながら煙草をくゆらしつつ彼女はすらすらと語る。
「私みたいな馬鹿は高校卒業して1年遊んでたが、突然、建築デザインがやりたくなってしまった。大学に入りたかったけど金が無かった。それでも設計士やりたかったから自分で勉強して一級建築士を取った。どこの会社も自分のやりたいことをやらせてくれないから、会社を起ち上げた。で、私がやりたかったこと全部やった。空っぽになったら、もう働きたくなくなった。だから、会社は仲間に預けて地元に帰ってこうしてる。私はやりたいことだけをしてる。だから私は狂っているようにみえるようだね」
「それ本当の話なんですか…?」
「まあ信じなくてもいいが、お前は予定調和な人生だということを言いたいのだ」
宙を見ていた彼女がゆっくりと僕に目を合わせた。
そしてまたその目をする。
吸いこまれそうな、怪しく光る眼の色でこちらを見る。
「狂うか、狂わないかは自分で決めろ」
そんな目で見られると、思わず言葉を失ってしまう。
それは不安や恐怖に近い感情だった。
彼女の言葉通りなら、彼女はきっと狂人なのだろう。
それなのにどうして僕は彼女に魅入られるのか。
そして、彼女はどうしてこうなってしまったのか。
「間瀬さんって…なんで…」
「何?」
「いや…」言いたかったことを飲みこんで、僕は一息溜息をついてワントーン明るい声で「いいんです僕は。親に心配かけさせたくないし…」とだけ言った。
彼女は薄気味悪く低い声で、しかし雨音にかき消されそうなほど小さくくすくすと笑い、また煙を吸っていた。
「予定調和の人生の難解なことよ。しかしそれが正しいのだ。君の人生の方が正解よ」
「正解…ですか?」
「その通り。そういう社会だろ?」
淡々と社会を語る彼女の目は諦めが混じっていて、それでも彩りよく瞳が光っているようで。
彼女には何が見えているのか、僕が知らない世界を知っているのだろうか。
自然と溜息混じりに目線を地面に落とす。
乾いた地面は屋根の内側だけで、それでも湿ってじめじめしていて、とても暗い。
こんな空間で、彼女は強く生きている。
「僕…初めて間瀬さんが羨ましくなりました…」
「ははっ、君は正直でいい」
彼女はふわりと柔らかく笑って、小首を傾げて見せた。
「狂った君も見てみたいもんだな」
顔だけはいいだけあって、表情は天使のようなのに、言っていることは恐ろしい。
この縁側はいつも怪しい雰囲気が立ち上っていた。
その正体は彼女の狂気だったのかもしれない。