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椿と東次郎の物語【八】

 それからずいぶんと経ってから東次郎さんは息絶え絶えに家へと帰って来た。そしてウチを見て目を丸くして驚き、

「は、華……?」

 棒立ちになり肩だけを上下に動かす。

「おかえりなさい、東次郎さん」

 ウチは静かに微笑みながら、東次郎さんに近づき、

「ズブ濡れじゃないですか。早く拭かないと風邪を引きますよ」

 そう言って優しく東次郎さんの顔を手拭で拭きながら、また微笑みかける。それは昼間見せた笑顔ではなく、優しい微笑み。それはウチらしくない笑い方だ。けど、今はそれでいいのだ。

 そして、そんなウチを見て東次郎さんは口を戦慄かせ、

「つ、椿なのか……?」

 と聞く。

 それに対してウチは少し困った顔をして、

「そうですよ。半年ほどで私の顔を忘れてしまいましたか?」

 東次郎さんの顔を正面から真っ直ぐ見て言う。そんなウチの真っ直ぐな目を見て、東次郎さんは戸惑う。それはそうだろう。出て行って、帰ってくれば華だった人間が椿さんになっているのだから。けど、本当は違う。椿さんはもうこの世にいない。ウチは華だ。だけど、ウチは椿さんになれる。椿さんとして東次郎さんは接してくれるのだから。だから、その時だけは椿さんになれるのだ。

「……そ、そんなことない! オレはいつも、いつでもお前の事を忘れた事なんてない!!」

 そう言って抱きしめられた。思いきりギュッと、骨が軋むぐらい強く強く抱かれた。そしてウチもそっと東次郎さんの背中に手を回す。

「私も、一時も忘れた事はありません……会いたかったです。東次郎さん」

「オレもだ。オレもずっと会いたかった……」

 少し抱き合っていたが東次郎さんはゆっくりと離れ、

「けどなんで、どうして、華なんて偽っていたんだ……?」

 ウチは俯き、

「初めは様子を見に来ただけだったんです。私がちゃんと別れを言えずに東次郎さんの元を去ってしまい、それであなたがどうしているのか気になって。本当は元気に暮らしているのであればそのまま去るつもりでした。けど、店の外から見えるあなたの顔があまりにも悲しげで、そんな顔を見たら居ても経ってもいられなくて。だからバレないようにちょっとおてんばな女の子を演じていたんです」

「でも、なんでそんな事を……」

「それは……もう会えなくなるからです」

「なっ!?」

 それを聞いた東次郎さんは愕然となり、何とも言い表せない泣きそうな、目を見開くような、何かを諦めたかのような顔になった。

 前に東次郎さんは言っていた。「椿には椿なりの事情がある。一緒にずっとはいられない」と。そのときが今来たのかと悟ったのかもしれない。

 けど、

「…………行くな」

 それでも、そんなことで諦め切れるはずがなかった。会えなくなると言われて、はいそうですかと言えるほど椿さんに対しての想いというのは薄くない。

 東次郎さんはウチの手を握り締めて、喉の奥から声を絞り出し、

「いつまでもいつまでも一緒に居ようと言ってくれたじゃないか! あれは嘘だったのか!? 初めてずっと一緒にと言ってくれて嬉しかった。本当に嬉しかった事なのに。それなのに……」

「…………」

 今思うに、もしかしたら椿さんは殺されるという事を初めから知っていたんじゃないのだろうか。

 一緒に居続けられない。だからどれだけ好きでも、愛していても不用意にそんなことを言う事は出来ない。だって、そんな期待を持たす言葉を言うなんて、無責任過ぎるから。

 だから椿さんは好きで好きで、愛している東次郎さんにその言葉を言えなかった。けど、想いは溢れ遂に言葉に出してしまった。

 もうそんなことを考えたら胸が張り裂けそうになる。

 言いたい言葉も言えないなんて、しかもそれが本当に相手を想う気持ちとなればなおさら耐えられない。

「会えなくなるのに、またあの時のように接しられるのが怖かった。私はそうなればもう二度と東次郎さんの元から離れたくなくなってしまう……」

「いいじゃないか! もうここから、オレの元から居なくならなくても! 何が問題なんだ。何かあるならオレが問題を解決してやる。一緒に居られるなら何でもしてやる! だから、だから一緒に――」

「ゴメンなさい……。本当にゴメンなさい……」

 必死に引きとめる東次郎さんを見て、こんなに想っているのに、お互いが自分の命よりも相手を想いやっているのに、それが叶わなかったことが悲しくて、ウチはもう鼻を啜りながら泣いていた。

「もう私はあなたの傍に居て上げることが、出来ない……」

「…………」

 声を押し殺し歯を食いしばりながら、それでも涙だけは止めることは出来ず東次郎さんは、そしてウチは泣く。

「色々な事がありました。たった一年ですが、私にとってはかけがえの無い、本当に宝物のような一年でした」

 何があったかウチには分からない。けど、それでも絶対に幸せな、幸せすぎる時を過ごしたはずだ。ずっと続けばいいと思えるほどの、ずっと続いて欲しいと願う程の時。だって、そこには愛する人が自分に寄り添い自分もまた寄り添っているのだから。

 今度はウチが東次郎さんに抱きしめ、

「愛しています、東次郎さん。ずっとずっと愛しています……」

 ウチも泣きながら、椿さんが想っていた事を吐きだすように何度も言う。

「好きだ……愛してる、椿……一緒に居よう……」

 そして東次郎さんも声を、体を震わせながら泣きじゃくり、何度も何度も繰り返す。

「……東次郎さん、覚えていますか?」

 私は一度大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせてから静かに諭すように話す。

「店の前で芸をする女の子ですが、よく二人で見に行きましたよね。頑張っている姿を見るとついつい多めに支払ってしまったりして、でもそんなとき見せる笑顔にどれだけ元気を貰えたことか。私が居なくなってからお客はめっきりということで心配しましたが、汁の作り方を教えることが出来てよかったです。ちょっと味は正体を知られるといけないので変えましたが、それでも私の自信がある味です。それを使って一人前の蕎麦職人になって下さいね」

 東次郎さんはしばらくウチをさらに抱きしめ、嗚咽を必死で押さえようとしながら、それでも声と涙は止まる事はなく泣き続けていた。

 そしてどれぐらいそうしていたのか分からないくらい経ってから、不意に東次郎さんはウチから離れ、

「……ああ、一生の味にする」

 納得はしていないが諦めたように東次郎さんは声を絞り出す。

 そして泣いて赤くなった目をゴシゴシ擦り、ウチを見て、

「その着物、本当によく似合ってる……。良かった。最後の最後に着物を着た椿の姿を見ることが出来て……」

 少し笑い掛けるように言って、また涙が溢れ泣きじゃくる。

「東次郎さんが私の為に用意してくれたこの着物は頂きます。一生大事に、大切な宝物にしますね……」

 ウチも涙が止まらず自分の声が震えているのがわかる。もうまともに声など出ない。

「いつまでも優しい東次郎さんでいて下さい……」

「……ああ、椿に教えてもらった汁で立派な蕎麦職人になるよ」

 そして最後に椿さんが言えなかった、本当は言いたくなかったけど、それでも言わなければならなかった事をウチは口にする。

 希望を断ち切る言葉。でもそれを言う責任がウチにはある。ちゃんと終わらせて上げる責任が、希望を抱かした責任がウチにはあるのだ。

 そして、この言葉は椿さんが言いたかった言葉でもあるだろう。だって、そう言わなかったら一生東次郎さんは椿さんを想い、待ち続けるからだ。そんな事を椿さんが望むはずない。

 だからウチは東次郎さんの泣きじゃくった顔を見て、二人の事を想いながら、叶わぬ愛だったけれどそんな事はどうでもよく、


「――さようなら。東次郎さん(二人ともいつまでもお幸せに)」


 ウチは空が薄明るくなり、春先のまだ寒い空気に雨上がりの匂いを漂わせた中へと出て行った。


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