1.スカーの日常
スカーは身動ぎしようとして目を覚ました。
見慣れた大きな樽の中に日の光が射し込んでいる。
体を起こすと直ぐに天井代わりの蓋が頭に当たる。蓋を片手で軽く押すとすぐに外れるので、中腰になって横に置く。ようやく立ち上がって、大きく伸びをした。体の筋が伸びて、朝の空気を一杯吸い込んだお陰で、気持ちが良くて体だけでなく頭もすっきりした。
スカーの体は小さく、狭い樽の中で夜を過ごすこと自体には慣れていた。しかし、どこでも寝られる子供の体と言えど、寝返りが打てないのは辛い。体の節々に無理が来始めていた。
樽は雨風を凌ぐには丁度良い位置に置いてあり、人目につかないという点では良い。スカーのような家の無い子供にとって、非常に捨て難いアイテムだ。しかし体の事を考えれば、そろそろ別の寝床に移るのが妥当かもしれないと考え始めている。
樽から程近い大きな街路では、ちらほらと人が通り過ぎていく。そろそろ活動を始める頃合いだ。
着替えなど勿論持っていない。だが先日、孤児には過分な、良い物を拾っていた。濃紺のフード付きローブだ。分厚いので、下に敷いて寝ると心地よいそれを羽織る。質の良さそうな生地で、これを着て身なりを覆い隠せば人前になんとか出られる位にはなる。フードを被り、それでも見えてしまう髪に手櫛を何度か通してから樽を出た。
空を見上げると綺麗な薄い青で、雲は見えない。最近は雨が少なくて有難い。今日も一日晴れてくれると良いと願いながら、裏道から街路に出る。
こんな朝早くから、薄汚い子供が一人で裏路地から出てくる。その意味がわからない人はそう居ない。視界に入っている筈なのに、誰もが見て見ぬ振りをする。時折、憐れんだ目を向ける人は居るが、声をかけてくることはない。
いつもの道順で目的の場所を目指していると、似たような境遇の子供がゴミ箱を漁っている様子が視界に入る。スカーも少し前までしていたことだ。力もなく、知恵もない。働けないなら、他人が不要としたものを利用するしかない。ゴミ箱は宝の山だった。
でも、もうしたくなかった。やりたくてやっていたのではないし、何より買うことを覚えてしまったからだ。自分のような孤児でもこなせる仕事を見付けたのだ。毎日働いては対価を貰い、食べ物を買って腹を満たしている。そうすると、ゴミ箱に入っているのは、ただのゴミだったのだとわかる。
かつて宝探しをした場所を通り過ぎ、暫く歩くと、一番要領良く稼げる場所に着いた。ここは人通りの多い辻だ。後は何をするでもない。ただひたすら声を掛けられるのを待つ。
どれ位そうしていただろうか。立ち始めた頃と比べると影の位置が随分と変わり、そろそろお腹が空く頃かという時に影が差した。
「フロイデル商会はどこにあるか知っているか」
唐突に質問をしてきたのは、身なりの良い男だった。髪をきっちりと撫で付け、1本も立ってはいない。手櫛を通しただけのスカーとは大違いだ。人が良さそうな笑いを浮かべている。
「そこなら、このまま真っ直ぐ歩いて、3つ目の交差点を右に曲がったら看板が見えるよ」
指差しながら答える。ここから近いし単純な道のりなので、この説明で十分だろう。
男は顔を指の先に向けていたが、説明が終わるとスカーの方へ戻した。
「ちゃんと向かえてたようで安心したよ。どれ、駄賃をあげよう」
そう言って胸元から出した財布を開けて、コインを何枚か取り出した。それをポイと投げ、地面に転がす。
地面に散らばったのはお金だ。スカーは膝を付き、拾い集める。銅貨が5枚。なかなか貰えた方だ。
ローブのポケットにしまい、立ち上がって前を向く。その時にはもう、男は雑踏に消えていた。
膝に付いた土を払う。
スカーはなんとなく、男は道を知っていた気がした。たまに居る。お金を恵むための口実として道を尋ねてくる変な、でもとてもありがたい人達だ。でも、本当に役立つ情報を言ってあげられたら、もう少し払ってくれたかもしれない。少しガッカリした。
でもお金を貰えたことに代わりはない。気を取り直して次に声が掛かるのを待った。
そうして、日が地平線に近付き、空が赤く染まる頃まで案内をしていると纏まったお金になった。今日はここまでと判断する。
踵を返し、向かった先に飲食店がある。中に入って食事を楽しむ処だ。スカーは店の横にある細い通路へと入っていった。美味しそうな匂いが漂う。お腹が鳴った。
忙しそうに働く人達の頭が僅かに見える窓を、コンコンと二度叩く。
「はいよ。今日はなんだい」
窓から顔を出したのは皺が深い、痩せた女だ。飲食店で働いているのにご飯を食べていないのだろうかと、スカーはいつも不思議に思っている。
「これでパンちょうだい」
今日の稼ぎを手に乗せて差し出すと、女はじろりと見て受け取り数え出す。
「ちょっと待ってな」
女が窓から消えた。言われた通り、じっと待つ。空腹でまた鳴った。
そっと撫でて腹を慰めていると、女が戻ってきた。
「ほらよ」
そう言って差し出してくれたのはパン二つだ。間に野菜と肉が挟んである。
「ありがとう」
受け取ると、「まいどあり」という声と共に窓が閉められた。
スカーはそれを胸元に抱え、さらに奥の暗がりへと進んだ。そこでうずくまり、パンにかじりつく。口を忙しなく動かして、どんどんと飲み込んでいく。
美味しくて幸せな時間は、あっという間に過ぎた。名残惜しく、自分の両手を見つめる。
すうっと辺りの暗さが増して、スカーはハッとした。日が沈んでしまった。
立ち上がり、細い通路を出て、樽へと帰る。ローブを、なるべく皺にならないように考えて畳む。そして樽の蓋を開けて、底に敷いた。まだ中に入るのは早いので、横に座った。
見上げると、少し星が見えている。スカーは、慣れ親しんだ歌を小さく口ずさむ。夜空を母と共に行く、子の歌だ。母を知らないから温もりがどうのという意味がわからないが、空を駆けるような爽快な歌詞が気に入っていた。
そうして、完全に辺りが闇に包まれると、樽に入って蓋を閉める。
これが、スカーの日常だった。




