第8話:崩れゆく結界、迫り来る闇
ギルドの執務室を出たルークの足取りは、いつもの軽薄さを完全に失っていた。
救護室の硬いベッドに腰掛け、右肩の革鎧を脱ぎ捨てる。
衣服を切り裂いた刃の痕跡からは、まだじわじわと赤い血が滲んでいた。
備え付けの緑色のポーションを傷口に流し込むと、肉が焼けるような激痛とともに、傷口が微かに塞がっていく。
包帯をきつく巻き直しながら、ルークは壁に背を預けて深く息を吐き出した。
(エマさん……あんた、一体何者だ。あの執務室での探り合い、ただの受付嬢のそれじゃない。それに、あの袖口から見えた歪んだ螺旋の紋章……)
ルークにとってエマは、頼れるギルドの先輩だった。少なくとも、これまではそう思っていた。
だが、その裏に隠された複雑な糸の存在を、今の彼はまだ正確に掴みきれずにいた。
「……考えても、今は答えが出ないか」
ルークは小さく頭を振ると、いつもの人当たりのいい新米に戻り、救護室を後にした。
少し頭を冷やすため、ルークはそのままギルドの裏口へと向かった。薄暗い扉を押し開けて外へ出ると、すっかり陽は落ち、ルーヴェン大公国は深い夜の帳に包まれていた。
街灯の鈍い光に照らされた石畳の路地は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
裏口の壁際には、エマが一人で立っていた。
「夜更かしは肌に悪いですよ、エマさん」
ルークはいつもの調子で、へらへらとした声をかけた。
ギルドの制服のまま、夜の闇に溶け込むように佇んでいたエマが、ゆっくりとこちらを振り返る。
そのジト目はいつも通り冷ややかだったが、月光の届かない影のせいか、どこか陰を帯びて見えた。
「……忠告よ、ルーク。これ以上、あの倉庫の件には深入りしないで」
「え〜? 深入りなんてしませんよ。僕はただのドジな新米なんですから、危ないことには近づきませんって」
「ならいいけど」
エマは小さくため息をつき、ルークに背を向けた。
「あなたみたいなドジな新人が、あっけなく死ぬのを見たくないだけよ。……ここはもう、あなた一人が背負っていい戦場じゃないわ」
その言葉には、ただの新人ギルド員に向けたものとは思えない重さがあった。
「分かってますよ。ありがとうございます、エマ先輩」
ルークがそう言うと、エマは何も言わずにギルドの中へと戻っていった。
一人残されたルークは、夜空を見上げ、静かに目を細める。
(俺は、この退屈で温かい日常を気に入ってるんだ。邪魔させるわけにはいかない……)
ルークは足音を完全に消し、夜の街へと歩き出した。不穏な予感が、彼の背中を急き立てていた。
中央広場に到着したルークは、大公国の象徴である巨大な時計塔を見上げていた。
数百年もの間、変わらぬ調子で時を刻み続けてきた国の心臓。
だがその時、ルークの鋭い聴覚が、時計塔の内部から響く不自然な音を捉えた。
「ガタッ……キィィン……」
それは、ハインツの工房で直した時計の狂いに似ていたが、規模が違った。
鼓膜を刺すような不快な高周波。
あのヘリックスの工作員たちが実験していた、不気味な駆動音の完成形が、時計塔の内部から響いている。
その瞬間、ルークの呼吸が、わずかに止まった。皮膚が粟立ち、冷たい汗が背中を伝う。
無意識に一歩後ろへ足を動かそうとしたが、身体がその命令を一瞬だけ拒んだ。
時計塔の巨大な影から、静かに二人の人物が姿を現した。
「ふふ、素晴らしい。このパーツの鍵、まさに完璧だ。百年前の職人の執念が、まさか結界を壊す鍵になるなんてねぇ!」
狂気を孕んだ笑い声を上げたのは、細身の男――混濁の兵士No.06。その手が掲げた禍々しい導力同調器の中心で、一際鈍い光を放っていたのは、極小の真鍮製の歯車だった。
(まさか、あれがここに……!?)
ルークは息を呑んだ。それはハインツの工房から消えた、あの歪んだ歯車だった。
だが、驚愕は瞬時にかき消された。正式な武器を構えるでもなく、ただ腕を組んで佇んでいる大柄な男。その男が、声も出さず、ただ静かに視線をルークの潜む方向へと向けた瞬間だった。
「……っ!?」
ルークの脳裏に、直接、濁流のような冷酷な声が叩きつけられた。
『……ほう。隠密の質が違うな。大公国の無能な衛兵どもではない。いや、あの立ち姿、あの独特の気配……。どこかで見た覚えがあるな』
声帯を介さず、意識の奥底へ直接干渉する悍ましい精神感応。
(……No.01? こいつが、ここにいるのか)
懐の漆黒の鞘に手が伸びかけたが、掌が微かに強張った。
今の、ルークとして生きる中で鈍ってしまった腕で、この男を前に正面から挑めば、正体を隠すどころか一瞬で命を刈り取られる。
「始めようか、No.01。大公国の偽りの調和を終わらせる時間だ」
No.06が不敵に笑い、同調器のレバーを力任せに引き切った。
その瞬間、時計塔の最上階から、夜空を真っ二つに引き裂くような純白の閃光が放たれた。
それと同時に、耳を劈くような凄まじい高周波が街中に響き渡る。パリィィィン!!!
ガラスが木っ端微塵に砕け散るような大音響とともに、数百年もの間、ルーヴェン大公国をあらゆる脅威から守り続けてきた古代の防衛結界が、光の破片となって夜空へと霧散していった。
突如として訪れた爆音と結界の消滅。
街のあちこちの民家に明かりが灯り、静寂は一瞬にしてパニックへと変貌した。
「な、なんだ今の音は!?」
果物屋のハンスが、パジャマ姿で飛び出し、色を失った夜空を見上げて愕然とする。
「時計の、刻む音が……止まった……?」
時計工房のハインツが、机の上で激しく狂い出した懐中時計を震える手で抱きしめた。
アポス男爵邸では、ルナを抱いた夫人が怯えた表情で窓の外を凝視していた。
誰もが、穏やかだった日常の終わりを直感していた。
「チッ……!」
ルークは奥歯を噛み締め、時計塔の二人を一度だけ果断な目で睨みつけると、足跡を完全に消してギルドへと急行した。今は、無謀に戦う時ではない。
ギルドの正面扉を押し開けると、中にはすでに武器を取った冒険者たちが溢れ返り、混沌の渦と化していた。
その中心で、デスクの上に立ち、緊迫した表情で指示を飛ばしている者がいた。エマだった。
「落ち着きなさい! 北門と西門の防衛ラインを固めて! 負傷者の収容は救護班が担当、市民の避難誘導を最優先に!」
的確ながらも冷徹な采配。その姿は、ただの受付嬢などでは到底なかった。
ルークが駆け込んできたことに気づいたエマは、一瞬だけ彼と視線を交わした。
ルークの瞳に宿る、鋭く冷たい光。エマはそれを一目で察しながらも、周囲の目を意識し、あくまでギルドの先輩としての仮面を崩さずに叫んだ。
「ルーク! 遅いわよ!」
「す、すみませんエマさん! 街が大変なことになってて!」
ルークもまた、瞬時に情けない新米の声を演じ直した。
「分かっているわ。ルーヴェン大公国の結界が破られた。……ルーク、あなたはすぐに中央街へ向かい、民間人の避難誘導を支援しなさい。いい? 絶対に無茶はしないこと!」
「はい! 了解しました!」
ルークは力強く頷くと、再び夜の街へと飛び出していった。
「ルーク!」
背後からエマの鋭い声が飛ぶ。
ルークが振り返ると、彼女はただ、祈るような、しかし確固たる意志を孕んだ目で彼を見つめていた。その視線の強さに、ルークの胸の奥が微かにざわめく。
結界を失ったルーヴェン大公国は、完全に夜の闇へと取り残されていた。
何百年と続いた穏やかな日常は、この瞬間を境に、静かに崩れ始めていた。
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インフルなりました。第9話は土曜か日曜だと思います。




