第2話 絶対滅菌の魔法メス
どれほど強い意思を持っていようと、現実の壁は分厚い。
拾い上げたのは、赤茶けたサビだらけの鉄片だった。
刃こぼれもひどく、なによりこんなもので生きた人間の腹を切り裂けば、間違いなく破傷風や死に至る感染症を引き起こす。
殺菌する手段すらない。煮沸どころか、きれいな水さえこの路地裏にはないのだ。
執念だけで救える命なら、医学など最初からいらない。
泥だらけの鉄片を握りしめ、俺は奥歯を噛みしめた。指先に鋭い痛みが走る。
『――術衣未着用、不衛生な環境での切除術は対象の死を招きます。』
再び、脳内にあの無機質なアナウンスが響いた。
わかっている。そんなことは百も承知だ。
『――マスターの強い「医学」への意志を確認。深層魔法スキル【魔力手術具】をアンロックします。』
その直後、握りしめていた鉄片から淡い光が溢れ出した。
光は一瞬にして鉄のサビを食い破り、その形状をなめらかで鋭利なフォルムへと作り変えていく。
まばたきをする間に、俺の右手には見慣れた銀色のメスが握られていた。
「嘘だろ……」
指先に伝わるブレードの冷たい感触。チタン合金のような輝き。
間違いなく、現代の手術室で使われるディスポーザブル(使い捨て)のメスそのものだった。
いや、それだけではない。右手にメスを握った瞬間、頭の中に数多の医療器具のイメージがインデックスのように展開された。
ペアン、コッヘル、開創器、吸引管、縫合糸。
魔力を消費して、思い描いた医療器具を「完全な滅菌状態」で具現実体化させる能力。
これなら、やれるかもしれない。
俺は深く、一度だけ息を吐いた。
「少し痛むが、すぐに楽になるからな」
少年はすでに意識が朦朧とし、返事すらない。
麻酔はない。痛覚を消すことはできないが、切る瞬間のショックで気絶するだろう。ひどい話だが、今はスピードだけが命綱だ。
俺は少年の腹部に左手を添え、右手に握ったメスを構えた。
周囲の空気が変わる。俺自身の意識が、臨床実習で何度もシミュレーションした「手術室」のそれへと切り替わったのだ。
「メス」
誰にともなく短く宣言し、視界に浮かぶARマーカーの誘導に従って、右下腹部に刃を滑らせた。
* * *
「なっ……あ、悪魔だ!」
見物していた周囲の大人たちが、悲鳴を上げて後ずさる気配がした。
生きた人間の腹を泥だらけの路地裏で切り裂く行為。
それは彼らからすれば、祈ることもやめた狂気の猟奇殺人者にしか見えないのだろう。
だが、そんな雑音はもう俺の耳には入っていなかった。
「開創器」
呟くと同時に、空いた左手に金属のリングが具現化する。
切り開いた腹壁に開創器をかけ、術野を確保する。血が滲むが、小血管からの出血は最低限だ。
腹膜を慎重に切開する。
途端に、強烈な腐敗臭が鼻を突いた。
「……やはりか」
ARの警告通り、虫垂はすでに破裂寸前で、わずかに膿が漏れ出していた。
もう少し遅ければ、腹腔全体に膿が広がり、完全な敗血症で手遅れになっていたはずだ。
「吸引」
思い描くのと同時に、右手に吸引管が現れる。シュルルルという音と共に、漏れ出した膿と血液を吸い出していく。
もちろん、電源設備などない。この道具自体が魔力で動く魔法のアーティファクトと化していた。
視野がクリアになったところで、慎重に虫垂の根元を露出させる。
「ペアン」
鉗子を呼び出し、虫垂へと繋がる血管を二重に結紮して止血する。
もう一切の迷いはなかった。学生時代、脳内で何百回と繰り返した手順が、体が覚えているかのように正確にトレースされていく。
炎症を起こし、黒ずんで肥大化した虫垂をメスで切り離す。
続いて、切り株の部分を巾着縫合し、内側へと反転させて埋没させる。
「腹腔内洗浄。生理食塩水」
ボトルのような容器に入った透明な液体が具現化する。
それを腹腔内に流し込み、感染源となる膿を完全に洗い流し、再び吸引。
これ以上ないほど手際が良かった。自分の手ではないような錯覚すら覚える。いや、この異常なほど研ぎ澄まされた集中力も、異世界のシステムがもたらした補正なのかもしれない。
あとは、切開した腹壁を層ごとに縫い合わせて閉じるだけだ。
「よし……これで最後だ」
最後の一針を縫い終え、糸を切る。
同時に、血に染まったメスや鉗子などの器具が、ふっと光の粒子となって空気に溶けて消えた。使い捨て、というより一定時間で消滅する仕様のようだ。
ふう、と肺に溜まっていた空気を吐き出す。
全身が汗びっしょりで、極度の集中から解放された反動で足がガクガクと震えていた。
少年の顔を見る。
額にはまだ汗が浮かんでいるが、呼吸は先ほどまでの荒々しさが嘘のように穏やかになっていた。
腹部を這い回っていた激痛の根源を取り除いたのだ。
助かった。この劣悪な環境でも、命を繋ぎ止めることができた。
「おい……あれを見ろ……」
遠巻きに見ていた群衆の中から、誰かの震える声が聞こえた。
彼らは、腹を切り裂かれた少年が、安らかな寝息を立てているのを見て、信じられないものを見るような顔をしている。
治癒魔法ですら見放した死の病を。
腹を切り裂くという、狂気としか思えない猟奇的な行為で癒してしまったのだから。
「……君、一体何をしたの?」
その時、俺の背後から、ひどく澄んだ声が降ってきた。
振り返ると、そこにいたのは、汚れたスラムには不釣り合いなほど透き通るような白銀の髪を持つ少女だった。
そして、その耳は長く、尖っていた。
エルフ。
俺とこの異世界の「魔法」との、本当の接触だった。




