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あいつが悪い

 何があったかいまいち思い出せない。

 頭の後ろ、少し下の辺りがずきずきと痛む。おそるおそる撫でてみると山になっていた。


「コブ出来てるじゃない…」


 殴られたに違いない。

 痛みのせいか葵は苛ついてきた。

 なんか不快な匂いがするのも原因のーつだ。

 改めて周囲の香りに注意してみると、最も強く漂ってくるのは土の香りだ。しかしそれに混ざって鼻の奥を突くような激臭もする。

 頭の痛みを後押しするような香りだ。それを認識するたびに舌打ちしてしまいそうになる。

 体を起こして冷静に周りを見回した。


 暗い。

 光の差す場所はない。

 人工的な明かりもない。

 しかし完全な暗間でもない。

 土の上に藁で出来た肌触りの悪いござ。隅にベンチが置いてあり、三脚に乗ったカメラが立っている。音も光もないあたり、動いてはいないようだ。


 何十時間と見させられた光景に似ていた。配置は違うが、あのベンチもあのカメラもこのござも、あの地下室で見たものだ。

 葵は怒りを改めることにした。

 小さな毛で肌を刺すようなござの上に正座して、ゆっくり目を閉じた。

 この匂い、煙草に似ている。この中であの子は殴られて蹴られて、陵辱されて、それを指を指して笑われていた。目を背けた画を思い浮かべて、何度か反芻してから、葵は腕の包帯を撫でた。


「絶対にリネが助けに来てくれる…」


 自分が今感じるべき恐怖は、あの子に比べたら大したことがないと思った。

 確固たる救済が未来に待っているから、八年間に比べたら、それを待つ期間なんて一瞬に過ぎないし、暖味な希望ではなく確かな希望があるだけ自分は恵まれている。アーヴィン…とマリアンヌは捨て置きそうだけど、ユノーは探してくれるだろう。リーダもかにゃんも手を貸してくれるに違いない。


「そんなことよりも、怒るチャンスだわ」


 幸い束縛はされていない。

 足がどこかに繋がれていることもない。

 それだけで恐怖は薄らいでいく気がする。その代わりとばかりに怒りがめらめらと沸いてきた。

 あの映像で見かけた顔が一人でも入ってきたら、この衝動をぶつけてやろう。

 危険な日にあうかもしれないという予想はもちろんあったが、葵は無理矢理それに蓋をした。ここで恐怖に屈服してしまうのは、何かに負けた気がしたからだ。


「でも、私の服が脱がされる前にリネが来てくれますように…」


 ちょっとした弱気を祈りに乗せて振り払った。もう、誰でもどんとこい。


 ***


「ああ、可哀想な姉さま! 今頃泣いて助けを求めているに違いありません! 苦しみにのたうち回りリネを求めて泣き叫んでいる! あああ、姉さま、姉さま、姉さま」

「まるでそうあってほしいような言い振りですね」

「そんなわけないでしょう!!」

「どちらかというと葵を求めて泣き叫んでいるのはリネの方に見えますわ」

「俺が、俺が今行きます。全員殺します。全員です。末代まで殺します」


 目に付くものを全て破壊しようとしたリネをリーダとタールマギとダンがカ尽くでリネの部屋に運び込み、その被害はリネの部屋だけで済んだ。あのまま特待の大部屋に置いておいたら重要な機器を失うところだった。

 一通り暴れ回った後、リネは飛ぶような速さで大部屋に戻ってきて、姉の行き先についての進捗を怒鳴るように聞いてきた。

 即座に答えようとしたユノーを止めて、アーヴィンは落ち着かないと牢屋に監禁すると返した。それで、今は、ある程度落ち着いてこの状態。


「所詮は急いた小悪党の浅知恵です。車を乗り換えることもなく目的地に直行している様子。しかも車は盗難車。簡単に乗り捨てられて足が付かないとでも思っているようですが、甘々の甘ちゃまです」


 あれから道路沿いに仕掛けられている監視カメラを方々からかき集めてリアルタイムで車両の追跡をしていたアーヴィンはいたずらそうに笑った。リーダの指示でマーク号で上空からドーラ号の団員の数名が第一部隊としてその後を追っている。


「俺も行きます」

「そうした方がいいでしょう。ここにいると煩くてかないません」

「俺とマリアンヌでヘリで後を追う。同乗するか、リネ」

「はい、宜しくお願いします!」


 地元警察を半ば脅して借用した覆面ヘリコプターで第二部隊は飛び立った。

 逮捕権限を持つユノー、マリアンヌに加え、私憤に駆られるリネとその保護者のかにゃんだ。

 かにゃんは第一部隊に加わろうとしていたが、彼らはあくまで状況報告及び見逃さないための斥候であることと、リネが暴れた際のストッパーとして彼女が必要とリーダから説得して留まってもらっていた。飛び立ちたい気持ちはリネに負けていない。


「葵~、待っていなさい! 私が絶ッッ対に助けてあげる!」

「いいえ! 俺が助けます。俺が、俺が、姉さまを苦しめた連中を一人残らず挽肉にしてやる」

「いいえ、私がまず脳髄を腫で刺すから、それからにして」

「それ死んじゃうじゃないですか! 即死なんて安楽なこと絶対に許しません!」

「それはもちろんそうよ! 苦しめて殺してやるわ!」


 果たして彼女はストッパーたりえるのか、ヘリコプターを操縦するユノーは不安になった。

 ユノーは現場の第一線で活躍してきた警察官だ。

 状況によっては犯罪者をこの手で殺してしまうこともあったが、第一の目的は生きて捕らえること。死後に裁判所に立たせることはできない。被害者が彼らの真実の心を知ることもできない。その指針は常に部下や同僚たちと同じくしてきた。

 しかし今回は殺意に溢れた味方が二人も居る。

 もう一人の味方は現場慣れしておらず、とりあえず被害者が無事であればその他はどうでもよさそうだ。ていうか帰りたそうだ。


「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す…………………」


 呪詛がすごい。

 この志を守れるか否かは、ユノーの肩だけに託されている。


 ***


 足が痩れてきた。

 毅然した態度で出迎えてやろうと思ったがこれでは足が繋がれている状態と変わらないことになりそうだ。葵はつまらない虚勢はやめることにして、正座を崩して代わりにストレッチを始めた。誰かがやってきたら突き飛ばして逃げようだとかそんなことは考えてはいないが、決戦に備えてウォームアップは必要だ。無意識下で自分を活気づける意味もあっただろう。

 固い鉄を踏みつけるような尊大な足音が聞こえてきたので、葵は慌てて屈伸をやめて直立した。

 正座をやめた以上、真っ直ぐ立つことが正式な人の出迎え方のような気がした。


「お、起きているな」


 扉を押し開けて入ってきたのは整えられた髭をまとった男だ。

 写真でも鮮明な顔を見たことがあるし、動く姿を画面越しに見たこともある。少年を監禁していた議員本人だ。片方の口の端だけか上がりきった笑顔が歪んで見える。

 続いて入ってきたのは細いつり目を色濃く装飾する細身の女だ。腕も腰も足も細い。タイトな服装がよく似合うが、少々痩せすぎて見える。今日はきつく後ろで髪をひとまとめにしているが、彼女の長いけれど量は多くない髪が激しく振り乱される姿も、映像で見たことがある。

 そしてもう一人、男が続けて入ってきた。


「とん…っ!」


 雰囲気はがらりと変わっているが見覚えのある顔に葵は口をついて名前を呼びそうになった。

 しかし男がすっと人差し指を自身の口に置いたので、葵もそれに倣うように手を口元に伸ばして声を殺した。

 トントだ。

 髪の色は誠実そうな暗い茶色に変わっていて、瞳の色も金の色ではなくなっている。


「ずいぶん汚いところですね」


 声色も違う。いや、口調も。気持ち悪いくらいだ。不愉快極まりないがあの間延びしたふざけているような喋り方が聞きたくなった。


「汚いものを置いておくのだから、汚い場所の方が適切だろう」

「なるほど。深いお考えです」


 トントじゃないかもしれない。

 敬語なんて使えるはずがない。スーツなんて着方を知らないに違いない。誰だこいつ。

 穀然とした態度を決めていた葵の心は予期せぬ登場人物に揺らいで初手を誤った。明らかに狼現している様子に、議員夫妻は満足そうだ。


「お前、国際警察の一味だな」


 議員は太い人差し指を葵に向けて声を発してきた。

 葵は国際警察の意味を砕くのに僅かに時間を使った。アーヴィンたちのことは"特待"と認識しており、国際警察という言葉が彼らを示すものなのかすぐには分からなかった。

 しかしそれに対して肯定も否定も決めかねている内に、右手から細く鋭い影が飛んできた。


「…っ!」


 思わず持ち上がった右手の甲に当たったそれは一瞬の裂くような痛みを与えて下方に消えていった。

 鞭だ。

 映像でも何度か見た。妻が好んで使っている暴力だ。


「持ち主様の質問にはすぐ答えなさいな。前の犬より賢そうだったけれど、そんなことも分からないのかしら」


 切られたような痛みだと思ったが、出血はなかった。その代わり、血を想起させるような赤い細い痕が手の甲に残っていた。あまり後味の残らない痛みだったが、ぎゅっと拳を握ると跳ねるほど痛い。

 覚悟はあったとはいえ、突然の暴力に驚くあまり、葵は何故か傷痕とトントの顔を見比べた。妻が叩いたことは分かっていたか、その後ろで見慣れた三日月の笑みを浮かべる彼の顔を見ずにはいられなかった。


「お前の仲間を尾行してやったよ。警察幹部には知己がいてね。彼に聞いたらうちのものが私にとってマイナスな行動をするはずがないと言うんだ。国際警察からの圧力があってと、苦しんでいるようだったから、彼らにも私のことを教えてやらねばなるまいと思ってね」

「あなたのお仲間も旦那様のことを知ればすぐに馬鹿なことをしていると気付けるはずよ。全うに働いているよりもよっぽど利益のある生活を、旦那様が保証してくださるんだから」


 妻はうっとりとした表情で夫に寄りかかった。

 彼らが手前勝手な話をしている内に、葵も徐々に冷静を取り戻してきた。いや、冷静になってきたと思っているのは葵だけでそれは温めていた怒りを思い出してきただけだった。議員たちの後ろに隠れるトントのふざけた笑みがそれを後押しする。三白眼を隠す大きなコンタクトレンズを入れた瞳がぐるんと円を描いて夫婦を流し見して、剥き出した歯を噛み締めながら葵に視線を移してきた。よくよく見るとつま先立ちしている。何でだ。むかつく。


「痛いわ」

「なんですって?」

「痛いわ。謝ってください」


 葵は右手を見せつけるように妻の方へ差し出しながら、一歩近付いた。

 見るからに不愉快そうに細い眉尻が上がって、つり目は葵を脱み付けてきた。

 つり上がり方はエルロイの方が鋭利だろう。でもエルロイの瞳に嫌悪を抱いたことはない。化粧もかにゃんの方が厚いかもしれない。

 でもこんな憎たらしいアイシャドウはない。袈裟まで憎いとはこのことだろうか。


「はあ?」


 彼女は威嚇するように鞭を高く上げた。

 心の内で葵は一瞬怯えたが、それをなるべく外に表さないようにして、手も引っ込めなかった。

 鞭は少しの間上空で止まって葵の様子を観察していたが、その手が不遜にもその場に留まるので、速慮のない勢いで落ちてきた。

 指に落ちてきた鞭は脈の通る手首をかすめて下に落ちていった。残像の残る素早さで、当たった爪が赤く染まる。

 流石に打ち付けられた瞬間は肩が跳ね目を閉じてしまった。動じずにいたかったが、葵はすぐにこれは生理現象だから仕方ないと一つ大きな呼吸を漏らして自分を奮い立たせた。


「痛い」

「私に不遜な態度を取ったからよ」

「あなたは私に二回謝らないといけないわ。謝ってください」

「…なに、こいつ。生意気ねえ」


 微笑をたたえて二人の女の遣り取りをただ見ていた議員は妻の肩を優しげに抱き寄せた。そんな夫を潤んだ瞳で見上げる妻ときたら、睦まじい夫婦そのものだ。今回のことでおしどり夫婦と呼ばれているのは葵も承知していたが、実際夫婦仲はいいらしい。昏い趣味を共有している点で絆は強固になったのだろう。


「お前はまだ分からないかもしれないね。お前は今から私たちの所有物になったんだ。私が所有者で、この女は所有者の妻だ。ああ、この男も紹介しておこう。我が一族に加えたいほど趣味のいい男でね、見目も好いだろう。お前のことは彼とも共有するから彼にも尽忠するように」


 議員に顔を向けられたトントは即座につま先立ちをやめ、奇怪な笑みを人当たりの良い笑みに変えて、礼儀正しくお辞儀した。

 爽やかな好青年は「ご紹介にあずかり光栄です」と実に落ち着きのある声色で返した。

 議員の話を黙って聞きながら怒りが一つずつ積み重なっていく中で、トントのその声がトドメのように堪忍袋の緒を切ったように思えた。何故か議員よりトントがむかつく。いや、議員の方がむかつくのだけれど、トントの声や行動の一つ一つがたぎる感情を後押ししてきて仕方がない。


「私は物じゃないから誰かの所有物にはなれない」


 にこやかに微笑み合っていた夫婦が揃って葵に目をやってきた。

 それと同時にトントは再び目も口も三日月を描く笑みに変わった。足元は見ていないがひゅんっと背が伸びたのでまたつま先立ちしたんだろう。恐ろしさより怒りがどんどん蓄積されていく。もうあまり少年のことは考えていなかった。早くトントの顔面にパイでも投げつけてあの顔を見えないようにしたい。


「あなたは私の所有者ではなく、他人だから、他人を傷付けたことに対して謝らなければいけません。お母さんから教えてもらわなかったの? 酷い教育を受けてきたのね」


 葵は議員のことは無視して妻の方を凝視した。トントじゃないけれど、彼女の顔が不満げに歪むのがどこか爽快だった。


「あんた、自分が何を言っているか分かっているわけ?」

「謝ってください」


 一歩、右手を差し出したまま近付いた。


「気が強いな。教育せねばいけないようだ」

「まったく、手のかかるものを選びましたわね、あなた」

「謝らないのね?」


 妻の手から離れて、男が部屋の端に移動していった。

 それを見送ることはせず、夫の方を見ている妻に向かって、葵は平手を打った。

 ぱしーんという音が土の中に消えた。

 さっきの鞭の音の方がおそらく大きく鋭かっただろう。しかし葵にはこちらの方が何倍も透き通っていて響き渡る音に聞こえた。

 葵の力だ。さほど強くなかったが、予想外が過ぎたのだろう。女はよろけて土の床に膝をついた。後ろのトントが笑みを崩さないまま、瞳だけで倒れゆく女を追っているのが葵にも分かった。腰をかがめて今まさに部屋の端の長持を開けかけた議員も、澄ました顔を驚きで広げながらこちらを見て固まっていた。


「は…、な、何するのよ!」

「あなたは私を二度ぶったから、私もあなたを二度ぶっていいんです」


 普段なら絶対言わないようなはちゃめちゃな理論を振りかざして、彼女の襟首を掴み上げてもう一度ぶった。

 鞭を落として葵の手首を掴んできたので、葵は彼女をすぐに離して鞭を拾い上げた。見た目よりも持ち手が重く、垂れていく鞭の先が馴染まない。ほんの少しのカで上に傾けただけで、その先は勢いよく上へ飛んで落ちた。


「あ、あ、あんた、何するの! 謝りなさい!」

「いいですよ。あなたから謝ってください。あなたからぶったのですから」

「馬鹿じゃないの!」

「人に暴力を振るったら、謝らなければいけません。子供でも知っています。犬でも謝れない代わりに噛みついてはならないと覚えることが出来ます。あなたが()()()()()という子供も、謝ることは出来ました。あなたは犬以下です」

「はっ、はっ、は、はあ??!」

「このゴミ畜生が」


 妻がバッタのように飛びかかってきて、葵は押し倒された。

 髪を掴まれて引っ張られたので、髪を掴んで引っ張った。膝で裏腿を蹴られたので、肘で横腹を打った。あいにく彼女の足が葵の腿を押さえつけていたので肘が代打となったのだ。拳が額の少し上に打ち下ろされてきたので、葵は彼女の目の辺りを挙で殴った。

 彼女の頭が横にぐりんと伸びたのを見て議員は後ろから妻を引き剥がし、その腕に収めた。

 ござの毛が体中に付いていたのを手で払いながら、葵は髪を正しながら立ち上がった。蹴られた場所が、打ち堀えられた場所がずきんと痛む。でも、大したことはない。針の埋もれていく頭を思い出して葵は唾を飲んだ。

 まるで被害者のように泣きじゃくる妻を抱きながら、議員は怒り心頭といった表情をしていた。この部屋に来てから尊大で余裕な笑みを見せていたのが崩れているのを見て、葵の溜飲は下がった。下がったが、すぐにまた怒りが上ってきた。

 もう取り繕うのをやめたらしいトントが手を叩いて子供のように笑っていたからだ。


「何を笑っている!」

「何がおかしいのよ」


 議員と葵は揃ってトントを諫めた。


「あはははは! ごめん、ゴメンネ! だあって、ネエサマちゃん、うふふ、あははは、すごい! 殴り合いしちゃったよ!」


 リィネくんに見せてあげたかったなあ~とジャンプしながら足の裏でも拍手し始めたピエロぶりに、妻も涙を忘れて男の奇怪さに目を疑っていた。


「もう、もう最高。キミの泣く姿が見れるかもってちょっと期待したのに、んふ~、鞭似合うよ! 鞭、似合うねえ~~、この狐よりネエサマちゃんの方がよっぽど似合うよ!」


 トントは急速に距離を詰めてきて、葵の背中をばんばん叩いた。

 腿が蹴られた時より痛い。葵は鞭を持っている手でトントを振り払った。しなやかな鞭がトントの鼻先を擦めて、彼はますます満足げに笑った。


「心細くて不安で泣いていると思った」

「気丈な内にやれるだけやろうと思って」

「殺れるだけ、殺ろうと? ふふふふふふふふふふふふううう」


 笑いの終わりにトントは肺いっぱいに溜まった息を長く長く吐き出した。興奮したように何度も浅い呼吸を繰り返してはたまに長く吐き出し、また浅く繰り返した。その間にも笑いは止まらない様子だ。顔は天を向いていたがちょうど葵の目元にトントの上下する喉があって、葵はその息の熱さが伝わってくるような心地がしてますます不快感を募らせた。


「どういうことだ! お前ら、知り合いだったのか!」


 長持から持ち出したのか、議員はスタンガンのようなものを向けて大声を上げた。

 トントはまだ笑いながら苦しそうな呼吸をしている。葵の肩を抱く手は緩めず、むしろその力は強まるばかりだ。動きの制限された状態に葵は少し恐怖を思い出してしまった。葵は答えなかった。


「この裏切り者が! 殺してやっ」


「突撃!」


 議員が妻を放り出して葵たちに一歩大股で近付いたその瞬間、爆発音とも思える激しい音を立てて扉が吹っ飛んだ。

 重たげな鉄の扉は議員の腕の横をギリギリ通り抜けてトントの肩にぶち当たった後、勢いを失わないまま壁に当たった。天井からばらばらと土の粉が降ってくる。

 土煙の中でまず葵が見たのはユノーだった。構えた銃を一瞬だけ葵に向けた後、すぐに横に逸らして議員を見つけた。

 彼を乗り越えるようにして飛び込んできたのは、リネだった。


「姉さま!」


 私の口が悪くなるのも、手が早くなるのも、全部彼のせいだ。

 彼があんまり私にひどいことをするから、それに苛ついて気性が荒くなった。

 彼が必ず助けに来ると信じていたから、強気になれて、女性を二度もぶった上ゴミ畜生とか言った。

 扉と共に吹っ飛びながら離れていったトントに気を配る暇もなく、葵は近付いてくるリネをスローモーションで感じていた。


「リネ」


 張り詰めていた糸が切れるようにほろっと笑顔が零れてしまうのも、彼のせいだ。

次回で終わります。

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