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もう一匹にも粥

 私は可哀想だ。

 よく知りもしない犯罪者に拉致されて監禁されて良き姉を強要されて暴力を見せつけられて色々なことに巻き込まれて頭のおかしい人間どもにこちらの思考回路まで破壊されようとしている。

 こんなに哀れなこともない。

 それなのに、追い打ちをかけてくる奴らがいる。


『リネと仲良くしてください』

「私は今まで人を殴りたいと思ったことはありますが殺意は抱いたことがありませんでした」

「ふうん。で?」

「殺したい」

「あなた一人の努力で一人の少年の命が救われるのです。あなたは今までに人命を救ったことがありますか? ヒーローになれるとしたら今ですよ」

「やだ!」

「こら! 小さい子が増えたからって子供返りするんじゃありません!」

「お母さんみたいなこと言う!」

「葵、あなたにしか頼めないんです」

「いやったらいや」

「こう頼めば絆せると書いてあったのに…。おかしいですね…」


 アーヴィンのノートに受け入れがたい言葉が書いてあり、葵の精神年齢が突発的に下がった。

 耳の良すぎるトントを危恨して文字での遣り取りを始めようとしたが、葵はアーヴィンの膝元からノートを取り上げて不快な言葉が書かれたページをビリビリに破いてしまった。残りのまっさらな部分はきちんと畳んで戻した。

 インターネットや啓発本から仕入れた人を絆す会話の仕方はほっぽって、アーヴィンは自分の言で綴った方が早いと決めて再びノートにペンを走らせた。


『リネが少年に危害を加えるとしたらあなたからの愛情不足による不信感が引き金です』

「愛情というのは意識的に生まれるものではないのよ、アーヴィン」

『あなたがリネを誰よりも愛していると分かれば悪いようにはしないはずです』

「実際愛していないから分かりようがないわね。仕方ないわね」

「はあああ~…。見せかける努力もしない。あの少年が亡くなったらあなたも共犯です、葵」

「ひ、ひどい言い方しないでよ」


 頑固な態度だった彼女がたじろぐのを見て、アーヴィンはこれだと確信した。

 そして葵の態度がいかに少年の危機を呼んでいるかを事細かに説いた。

 見下ろしていた彼女がみるみる身を縮めて壁際のジャックの背に隠れていく姿に、背徳的な悦びを覚えていた。


「ふええ、アーヴィンが虐める」

「ふふふ。見ましたか、ユノー。あなたじゃなくても人心掌握などお手の物です」

「これじゃあ人心掌握じゃなくて人心破壊だよ、ボス」


 まるでかつての自分を見るようで、ジャックは葵に心底同情した。

 普段は影の薄い彼だが、今ほど居てくれて良かったと思わない時はない。この部屋でアーヴィンと二人きりだったら葵の心はぽっきり逝っていただろう。


「リネとトントが戻ってくるまでに、覚悟を決めてください」

「そうは言っても、愛情表現って一体何をしたら」

「褒めるとかどう? 褒められたら嬉しいよ、きっと」

「いい案です、ジャック。帰ってきたらリネを目一杯褒めてください」

「ほ、褒めるのね。分かった。頑張るわ」


 その後三人で一体何を褒めるべきなのか頭を寄せ合って絞り出した。

 褒め言葉の語彙も絞り出した。

 でも結局葵のためになる案はほとんどなかった。この二人に期待を寄せたのが間違いなのだ。葵は結局武装なしでリネに立ち向かう羽目になった。


「どっ、どっ、どうだった? 彼の様子は」


 まずは褒める前に会話の皮切りを探そうと少年の話を始めたが、視界の端でアーヴィンが呆れた顔をしているのが見えた。

 よくよく考えたら少年よりもリネを気にかけていると信じさせる作戦なのに、少年が気になりますから始めては意味がない。そのことに気付いてリネの返事も待たずに葵は頭を抱えてしまった。


「どうしましたか? 姉さま。頭痛ですか?」

「いいえ! 大丈夫。心配してくれてありがとう!」

「えっ、いえ……」


 勢いよく顔を上げた姉にリネは戸惑っていた。

 お礼を言えばさぞ喜ぶだろうと思ったが、ちょっと顔を上げる時に弾みを付けすぎたようだ。葵は反省した。


「あー、えっと、リネって、あの、そうね…、料理! できるのね。すごいわ」

「えっ、いえっ、そうでしょうか。特に難しいものではないですし、姉さまが朝作られたというおかゆの方が美味しかったに決まっています。僕のものなんて…。あの少年に食べさせようと思っていたのに、姉さまに泥水を食べさせてしまったようなものです」


 つまりあの子には泥水を食わせるつもりで作ったということなのか? 

 募る不信感がリネの言葉を様々に曲げて解読させていった。

 確かに肉じゃがって泥水かかっているような色合いだけれど、リネの作ったものは普通に美味しかった。確かに毒が入っているかもという気持ちから食べさせてもらったわけだけれど、そんな悪意が込められていたなんて。


「お、美味しかったわよ」

「本当ですか?!」

「ええ! リネって料理が上手なのね~! 知らなかった! 私、自分が料理できないから、料理できる人って尊敬しちゃう!」

「そ、尊敬…。う、嬉しいです! 姉さま! ありがとうございます!」


 ちょろい。

 アーヴィンはニ人に目を向けないようにして耳だけに神経を集中させて様子を窺いつつ、そう思った。

 作戦会議など無用だった。

 ここぞとばかりに態度を変えて褒めちぎる葵に違和感を抱かないなんて、アーヴィンにとっては思考が停止しているとしか思えない愚直さだった。


「ボクもちょっと食べたよ」

「え、そうだったの、トント」

「うん、持って行く途中で、一ロだけ。とっても美味しかったね。ネエサマちゃんのふるさとの郷土料理だよね」

「そうよ。本当はもうちょっと味が濃いんだけど、あの子のために薄めにしてあって、リネって気も利いちゃうのね!」

「ね、ね、ね、姉さま…!」

「ネエサマちゃんもそこまで感動しちゃうなんて! ご褒美にキスしてあげなよ!」

「いいんですか?! 姉さま!」

「いいわけないだろ。調子に乗るな」


 あんなに敵がちょろいのに、味方が脆すぎる。

 横槍に刺された程度で折れる決意なら最初から矢面に立たないでほしい。立たせられる者は他にいないが。

 アーヴィンは葵にアピールするつもりで、先ほど葵がしたように手元のノートを音を立ててビリビリと破いた。

 リネは落ち込んだ。

 トントには出来たキスが弟には出来ないなんて、やはり愛されていないと嘆き始めた。

 葵は怒りを込めてそもそもトントにキスした事実などないと否定した。

 リネは姉の怒りを受けてますます落ち込んだ。

 トントはそんな可哀想なリネを優しく慰めた。

 悪しき流れを目の当たりにして、アーヴィンはどうしてこんなことになるのか理解できずにさじを投げそうになった。

 後で再びリネとトントが少年の部屋に向かった際に葵にどうしてそうなったか自省を促したが、リネの思考回路がおかしいのであって自分は何も悪くないと主張された。むしろ努カを誉めてほしいくらいだそうだ。結果を出していないのに過程を誉めろなどという神経が理解できず、それを望む葵の心も理解できず、アーヴィンは熱を出した。


「ボスううう、死んじゃやだ! こんな変な奴らの中に俺を置いていかないで!」

「ちょっと、ジャック! それって私も入ってるの?! 私はとっても普通でしょう!」

「うるっさ…。うるさいです…。ただの知恵熱です。すぐ下がります」


 アーヴィンの自室は少年に渡してしまっているため一時的に男子部屋のユノーのベッドに寝かせて様子を見た。

 濡らした布巾と保冷剤を額において軽く団扇で扇いでいたら大分良くなったらしい。真っ赤になっていた顔色は戻っていった。アーヴィンはすぐに起き上がろうとしたが、大事を取れと葵が拒否してしばらく寝かせることになった。


「葵、私はここまでです」

「さっきまで活動を再開しようとしていた人間が何を」

「リネとトントのことはあなたに任せました。あなたの肩にあの小さな少年の命が掛かっています。あの子がもし今以上に不幸になったり傷ついたり苦しんだり命を落とすようなことがあれば、あなたが全部悪いのです」

「ふええ」

「葵! 泣かないで!」


 心にダメージを負っただけで泣いてはいなかった。しかし隣のジャックはもらい泣きでもするように泣いていた。なんだか彼の涙を見ていると冷静になれる気がして、葵は悲しみから立ち直った。


「アーヴィン、ほら、おかゆを作ってあげたわ。リネはきっと自分も姉の手料理を食べたことがないのにあの子が先に食べたって言うのが気にくわないんじゃないかと思ったの。だからもう一度作って、リネにあげようと思って」

「素晴らしい案です、葵。すごい自意識過剰であると同時に考える脳みそがあったことに私は驚いています」

「今アーヴィンは病人だから、アーヴィンにもあげるわ」


 病人は布団の上で体を起こしてから、おかゆの入った器の匂いを嘆いで、中身を目をこらしてよおく見て、部下に味見をさせた。


「何でよ」

「私は今腹痛を覚えている場合ではないんです」

「大丈夫そうだよ、アーヴィン」

「では食べてあげます」


 そしてレンゲで一口食べてすぐ、「うっす」と悪態を吐いた。

 私とてこいつに心を壊されている場合ではない。儚い命を背負っているのだ。

 葵はそう考えて文句を言いつつも食べ続けるアーヴィンを尻目に部屋を出た。

 大部屋に戻ってみると、トントもちょうど部屋に着いたところだった。リネと一緒に少年の部屋へ水を替えに行ったと思ったが、一人で戻ってきたのか。


「リネは?」

「まだ部屋だよ。中からタオルを持ってきてほしいって言われたから取りに来たの」

「そうなんだ、これ使って」


 葵は朝に漂白して干しておいた布巾を渡した。

 それを受け取りながらも、トントの視線は台所の隅に置かれた器に集中していた。


「コレなあに?」

「おかゆよ」

「あの子の分?」

「あー、アーヴィンが疲れが溜まっちゃったみたいでダウンしちゃって」

「…………ふ~ん」


 真正直にリネに婿を売るためとは言えないし、すぐにバレるかもしれないけどこれがリネの分だとも言いたくなくて、葵は適当にはぐらかした。トントはすぐに指先に絡めた布巾をぶんぶん振り回しながら去って行った。

 葵は食器棚からスプーンを取り出してほんの一ロおかゆを舐めてみて、確かに味がしないと思った。


 ***


 戻ってきたリネは涙を流しながらおかゆを食べた。

 差し出した際は感想など一言も発せず、ただ目を見開いて姉と皿を見比べて、涙を流しながらとにかく「美味しい」と繰り返して大事そうに食べていた。

 大分姉の愛が身にしみたに違いない。

 ついでにただのお湯と米を食べさせられていることを哀れんで醤油を添えてやったが、彼はそんなものは不要だと主張して全て綺麗に平らげた。


「…姉さまは僕のことなんて可愛くないんだと思っていました」

「え、そう、…そんなことないわよ」


 もちろんそうだと肯定しそうなところを、自分で自分の足を踏みつけて自制した。

 危うくガラスの鎧が崩されるところだった。


「僕は姉さまにまともな食事を頂いたこともないのに、同じ犬扱いされた見ず知らずの男に施しをして、僕は叩かれて見下されていたのに、あいつは気遣いを受けて…、ずるいずるいと思っていました」

「リネにそんなことした覚えもないけど」

「忘れてしまったんですね。いいんです。僕を犬としていた姉さまはもう居なくなったんですもんね」


 力なく笑うリネはむしろこちらを気遣っているような様子だ。

 まるで記憶障害を失った人間を哀れんでいるかのようで、葵は些か気分を書した。あの神経がぶっ壊れているコーラとか言う女と自分を同一人物と認識しているような発言がある。それが最も気にくわない。


「犬のように振る舞っていれば姉さまが優しくしてくださるなら、僕は犬に戻ります。戻りたいです」

「何言ってんの……」

「姉さまも犬の方が好きですか?」


 リネよりは犬が好きだが好きなのは犬そのものであって犬になったリネではなくむしろ犬のリネなら犬じゃないリネの方がまだましというか、もう何が何だか分からなくなってきた。

 そもそも犬になったリネってなんだ。


「リネは人間だから犬にはなれない」

「そう! そうですよね! もちろんそうです! ふふぶ」


 満足そうな男の笑みが薄ら怖くて葵は手に持っていたお盆を力強くぎゅっと握った。

 ユノーもマリアンヌも戻ってこないし、いつも大部屋に鎮座しているアーヴィンは寝てしまっているし、ジャックもトントも彼の見舞いで不在だ。縋り付けるものはこの薄いお盆だけなのだ。

 やれるだけのことはやった。葵はこの場から立ち去ろうと思い、リネの皿をお盆の上に回収して立ち上がった。


「美味しくなかったでしょう。私、料理はできないのよ」

「美味しかったです! 今まで食べたどんなものよりも」

「無理しなくていい」

「姉さまは何でも出来る方です。素晴らしい聖人で、完盤な方で、誰もが慕う理想のお姉さまで」

「私はそんなんじゃないんだってば」


 押し付けがましい発言に葵はつい役目を忘れてつんとリネに背を向けた。

 シンクまで食器を持って行くと、料理に使った鍋やら放置されていたコップやらの洗浄を始めてリネから意識を逸らした。


「そう…、そうかもしれません」


 リネは立ち上がりはしたものの、食事を摂っていた机からは離れずにどこかをぼうっと見つめていた。

 背後からの声は背中を冷たく這うような空気を運んできた。

 反して左腕は熱を帯びて鼓動するのが感じられた。

 薬が切れたのだろうか。水仕事をして傷を刺激してしまったのかもしれない。それとも、何か、傷を挟るようなものが、目に見えない力を持って、包帯の下の穴を這いずり回っているのかも。


 ***


 かつん、と小さな音を立てて、レンゲが床を転がっていく。

 もしかしたらカトラリーが使えるかもしれない、使えなくとも、添えなければ侮辱していると思ってしまうかもしれないと、姉さまが親切心から添えてくれたものだ。

 彼女の優しさごと壁に投げつけたように見えた。

 いくら可哀想だからって、そんな態度はいけ好かない。

 それなら自分だってお前くらい可哀想だったのに、姉さまに食事を作ってもらったことも、そんな細やかな気遣いをしてもらったことも、同じ目線まで腰を下げて話しかけてもらったことなんてないのに。なんて傲慢な奴なんだ。


「ネエサマちゃんって犬を飼っていたんだって。犬が大好きなんだね」


 僕はもう犬じゃないから、新しい犬が出来たからそっちの方が好きになってしまったのかも。


「今度はアーヴィンちゃんのために、お料理手作りしていたよ」


 残り物でも、姉さまの手作りなら嬉しいけれど、僕のために作ってくれたならもっと嬉しかった。

 その喜びを、会って間もない二人が、俺より先に享受するなんて。

 アーヴィンは、まあ、もう、仲間だから、彼が体調を崩したのであれば、俺だって譲れるところはあるけれど、でも、それでも、こんなに、こんなに我慢しているのに。

 あいつが飲んでいる水だって、姉さまの優しさで与えられているのに。

 あいつが助かったのだって、姉さまのおかげだし、

 あいつが腹を空かせずに済んでいるのだって、姉さまの愛だし、

 姉さまの、姉さまの、姉さまの

 姉さまの、愛の行き場は、俺だけでいい。

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