犬に粥
部屋に戻るとリネがアーヴィンの胸倉を掴んでいるところだった。
葵を見つけてばっと手を放し、机にお尻を打ち付けたアーヴィンは尻尾を踏まれた猫のような声を上げた。
「姉さま! 大丈夫でしたか」
「何が?」
「子供に食事を届けに行ったって、今聞きました。ついさっき。アーヴィンを窓の外に投げたらすぐ行くつもりでした」
リネは葵の周囲をぐるぐると回った。そして左腕の包帯を見て悲鳴を上げて、何をされたのか聞いてきた。
昨日のことを話した。
肩から力が抜けたようにリネはすとんっと真っ直ぐになって、照れ臭そうに「ちょっと慌ててしまいました」と目を逸らした。
「どうでしたか?」
大部屋を去った時と変わらずアーヴィンは台所近くの机に座っていた。葵を小さく手招きして、報告を要求してきた。
「隙間で丸くなってた」
「食事は食べたのですね」
葵が持っているお盆の上の皿を覗き込んで、アーヴィンはうんうんと領いた。
その上からトントも覗き込んできて、離れたところにいたジャックも身を乗り出してこちらの様子を窺っているようだった。みんな、あの子供が気にかかっているみたいだ。
「お水とか置いといたほうが良いんじゃない?」
「名案です。そうしましょう」
「ペットボトルじゃなくて、お皿に張ったほうが良いと思いますよ」
「リネ、犬じゃないんだから」
「あ、あ、その、犬扱いじゃなくて、おそらくそれ以外の飲み方は知らないだろうと思って…、…すみません」
小さく「自分がそうだったので…」と言い出すので、葵はそれ以上口答えしなかった。
トントが横から手を出してきて大げさな調子でリネを慰めだしたが、葵は何も言わないでおいた。
「リネの言うことも尤もです。下手にペットボトルや縦長のコップを使っては彼の矜持を傷つけるかもしれません」
「じゃあ…、せめてこれで」
葵は飲み口の広いシチュー皿を棚から見つけ出してそこに水を入れた。
奥ごと顔を突っ込んでも遮られないだろう。皿よりは汁物を入れるのに違和感が少ない…と思う。
背後からリネに見守られながら、葵は再び彼のいる部屋に入室し、低い姿勢で部屋の真ん中に水を置いた。少年は葵が部屋を立ち去るのを待たずにそれを確認して、ロをつけていた。
「よかった、飲んでいるみたい」
「姉さま、あれのお世話は僕がしますから、姉さまはもう近寄らないでください」
「大丈夫だよ。何もされなかったし。同じ人が入った方が彼も安心かもよ」
「いえ、僕がやります。姉さまは怪我をしているのに、四つん這いになったりしたら悪化します」
その発言には他の者も同意していったので、葵の手から少年は離れていった。
少し、心配だったが、アーヴィンの指示はそれ以降リネにいくようになったので、仕方なくその動向を外から見守るしかなかった。
「リィネくん、かわいいね」
「はあ、そう」
トントにそう語りかけられるのも慣れてしまった。
いちいち反論していられない。
「リィネくんって犬だったの?」
「知らない。私と知り合ったのは最近のことなんだってば」
「ふうん。同じような扱いだったのかなあ。可哀想だね」
「そうかもね」
これだけ小分けにリネの過去を明かされれば、繋ぎたくなってくるのだが、自ら積極的にそれを聞いていくのも忍びない。リネを気にかけているようでみっともないし、人の過去をずけずけ探るのも不作法だ。
いつもどういう仕事をするよう指示を出してくるユノーが不在ゆえ、葵とトントは手持ち無沙汰だった。
アーヴィンは周りに仕事を振らずに自分のことをしているようだし、ジャックは部屋の隅で膝を抱えているだけ。無意味に椅子を前後に揺らしたりパソコンの蓋を爪でカチカチ鳴らしたりしながら、葵は動き回るリネを見るしか他にやることがなかった。
目下、少年の活動を観察しているらしい。
扉を少しだけ開けてみたり盗み聞きしたりして、その結果をアーヴィンに報告しているのだが、あんまり有益そうな情報はない。
たまに水を飲んでは棚と壁の隙間に戻っていくの繰り返しのようだ。
自称耳のいいトントが付き添って部屋の様子を聞いてみたが、「息遣いが聞こえてくるだけ」とのことでお役御免となった。
「もうちょっとやらせてくれたらいいのに。ボク、役に立つのに」
「信用ならないんでしょう」
「ネエサマちゃんまでそんなことを。うう~ん、アーヴィンちゃんは手強い」
彼が嘘吐きかどうかは定かではないが、勘違いを呼ぶ発言は何度か聞いている。
アーヴィンとしては彼に滅茶苦茶な報告をされて場を荒らされるのは避けたいのだろう。
「信用させるために一回目は真実を話しますが二回目以降はいつ嘘を吐くかわからないタイプです」
そう言ってトントは一回きり少年の部屋へ近付いたきり接近禁止にさせられたのだった。
もちろんトントはそれを否定し抗議したが、
「あなたはあの少年を好ましく思っているでしょう」
「もっちろん! すっごくカワイイよね!!」
「聞いたでしょう、葵。あなたはこの変質者を見張っていてください」
そうして彼の味方はいなくなった。
日頃の行いの報いだ。
部屋に入室できなくはなったが、何かできることを探して、葵はアーヴィンに度々相談や提案をした。
服が必要ではないかとか、昼の食べ物はもう少し食が楽しめるものにしようだとか、そういう拙いものだったが、アーヴィンは興味をもって聞いてくれた。
「お魚がお腹には優しいんだよ」
「生魚はないわよ」
「むしろ生は消化に時間かかるから焼いた方が良いんだよ。ネエサマちゃん、意外と物知らずだね」
窓にべっちゃり張り付いて外を眺めては飛行船の周囲の人々を恐怖させていたトントが、柔らかい声で二人の話し合いに参加した。相変わらず窓を舐めながらだったが、それなりに有益なことを教えてくれた。一言多いが。
「うどんもいいんだよ」
「冷凍の中にあるかも」
「この間お芋は食べたじゃない。お芋もいいよ」
トントは頭だけぐるんとこちらに向けて、小刻みに顔を上下させて笑った。葵は久しぶりにこいつは人間じゃなくて玩具だったとしみじみ考えた。部屋の隅で怯えるジャックがもういつ壁にめり込んでもおかしくないほどトントに恐怖していの。
「ボクが料理してあげる」
「何を入れるか分かりません。葵、頑張ってください」
「よ、よし、頑張るわよ」
あるだけの材料で作れるものをアーヴィンに探してもらって、葵は再び台所に立った。
そこにちょうど、リネが帰ってきた。
「……何してるんですか」
「昼食を、作ります」
葵は自分のこれからの努力を応援する意味を込めて宣言するようにリネに答えた。
朝のおかゆの時に比べてアーヴィンの期待値が高まっている気がする。なんだ、エスカベージュって。聞いたことないぞ。初心者が作れる料理なのか? 芋があればピザを作れますよね、とか言い出し始めたが、こいつこそ料理を分かっていない気がする。芋が乗っているだけで芋のみで作れるわけではないしそもそもピザのベースは芋じゃない。残念そうな顔をするな。
「僕が作ります」
「リィネくん、料理できるの?」
「姉さまほどうまくありませんが」
「つまりド下手くそということですか」
「おかゆは上手に作れたでしょうが! まだ始めたばっかりなんだから!」
両手に握りしめていた包丁とフライパンをリネに奪われたが、葵は台所から動こうとはしなかった。部屋には入れないけれど、少年のためにできることを自分なりに探してみれば、これくらいしかないのだから、横取りされたくはない。
葵はリネの死角に回ってフライパンを取り戻した。
「リネは部屋に行ってもらっているんだから、私がやる」
「姉さまの手を煩わせることでは」
「私がやりたいからやるの」
「僕がやります!」
「私がやる!」
「どうどう」
今にもフライパンで殴りかかりそうな姉と、包丁を持って応戦しそうな弟のきょうだい喧嘩を、トントの長い腕が間に入って止めた。
頑なになっていたことに気が付いて葵はちょっと頬を赤らめてー歩退いた。対してリネは血の気が引いたように青ざめた。
「何故赤くなっているんですか? トントと話したからですか?」
「私がトントを好きっていう設定やめてくれない? むしろ嫌いなのよ」
「うう~ん、ネエサマちゃんって本当に照れ屋!」
「その通り、姉さまは恥じらいを持った方です! つまり今のは嘘なんですね?!」
「アーヴィン」
「何故私に助けを求めるのですか? 無意味です」
両手に握りしめた包丁で今にも自分の首に埋めていきそうだ。
リネはぶるぶる震えて手元が覚束ない。でも本人はそれどころではなさそうだ。
これだけ誤解だと言っているのに何故自らそこまで追い詰めるほど思い込めるのか理解不能だ。
「あの子と直接顔を合わせるのは繊細な対応が必要なんだから、それ以外で出来ることはリネ以外がやるの。そうすべきなの。わかったら黙って座って休んでて」
「大丈夫です。姉さまこそ休んでください。そうだ、ほら、その腕で料理なんてしたら悪化します」
リネは同意を求めるようにアーヴィンの方を向いた。
彼としてはリネもそこまで信用に値する人物ではないんだろう。悩んでいるようだ。即断即決が好きそうなのに、今回ばかりはリネが料理場に立つのを快く思っていなさそうな雰囲気がありありと伝わってきた。彼にしては、少し珍しい様子に思える。
怪我を持ち出せば自分の意見が通ると思っているようで、いけ好かない。自分の身を気遣ってもらっていることはよく分かっていたが、葵はそんな理不尽な想いが浮かんできて、頑固な性質をますます堅くしていった。
「料理くらいなら大丈夫よ。え、えす、かベーじゅは分からないけど、肉じゃがくらいなら」
「葵…、肉じゃがは高等料理ですよ。初心者のくせに思い上がりです」
「で、出来るってば! 昔お母さんと作ったことあるし…」
フライパンをコンロの上に置いて、葵は意気込んだ。でもちょっと不安だった。母親に習ったのなんて10年以上前だ。そもそも肉じゃがにフライパンを使うかどうかすら暖味だ。もうそんなところからなのだ。
「姉さまが作ってやることなんてありません。レトルトのスープだってありますし、暖めるだけの麺類もあります」
とうとうリネは姉の肩を押して台所から物理的に離そうとしてきた。
ようやく葵はずいぶん彼も頑なになっていることに気が付いた。それはほんの少し違和感を覚えるほどだった。
「リィネくん、なんだかネエサマちゃんにはお料理してほしくないみたい」
そう、そんな感じよね。と、声に出そうになった。
トントの言葉にリネは慌てて否定して言い募っていたが、逆に怪しい。
「同じような境遇にいたから、僕に任せてほしいんです。姉さまに任せてはおけません」
言外に役立たず宣告を受けたように思えて、葵は打ちひしがれた。
だからふらふらと台所から離れる姉の心情など、普段彼女に対して敏感な弟は気にもせず、諦めてくれたことに心から安堵しているようだった。
アーヴィンは業務放棄を叱ってきたが、葵には届かなかった。仕方なくアーヴィンはジャックに台所のすぐ近くまで机を寄せて、その上に自分を乗せるよう指示して、事細かくリネの動向を監視するよう体制を固めた。
「リィネくん、わんちゃんに毒でも盛るつもりじゃない?」
葵と一緒に音もなく自席に戻ってきたトントが声を潜めてとんでもないことを言い出した。
即座に叱責したが、トントはいつにない神妙な面持ちで、台所に立つリネの背中を見ていた。
「ネエサマちゃんに世話を焼かれて嫉妬しているんじゃないかなあ」
「だからって、そんな馬鹿なことを」
馬鹿馬鹿しいと否定していたのに、なんだか有り得そうな気持ちになってきた。
だってあのリネだもの。
「お部屋で乱暴をしていないといいけれど…·。殴られたり、蹴られたりしても、元々ぼろぼろだから気付けないじゃない?」
「そうね…、腕を切られたり、皮を剥がれたりしても…」
「………君の中のリィネくんって大分暴力的だね…」
これまでのことを思い出して心臓が震えるような思いだった。
何かを煮込み始めたのか、リネがアーヴィンに鍋を任せて部屋を離れたのを機に、葵はアーヴィンにこの危惧を共有しようと近付いていった。
「見ていましたが、何かを仕込んでいる様子はありませんでした。」
「ほんと? あのね、リネが何かあの子の部屋で何か、悪いことをしていないか付き添いが必要じゃないかしら」
「ん…、しかし人が多いほど被害者の恐怖を煽ります」
アーヴィンもリネに対して思うところがあるようだ。ただでさえ気遣いとはほど遠い性質なのに、少年の対処について細やかな配慮をしようとする努力が見える。ジャックがそのことを後でユノーに報告してやったら涙を流して喜ぶだろうなどと呑気をかましていることは、精神的に逼迫している奏には気付けようはずもなかった。
「私が部屋の近くまでついていって、外から様子を窺うわ」
「一理あります。トント、リネが変な行いをしていないか、今、見てきてください」
「ボク? いいよ、分かった。アーヴィンちゃんからお願いされるなんてちょっと感激だなあ~」
「私が行くわよ」
「いいから」
トントは肩を左右に大きく振りながら、楽しげな様子でリネの後を追っていった。
少年の部屋に行ったかどうかは分からないが、一人で何かされるか分かったもんじゃない。人目があれば不審な動きはしないだろうと信じ、葵は安堵した。
「危慣するべきは別の人間かと思います」
なのに、アーヴィンは細長い背中を見送りながら不穏なことを囁いた。
驚いて隣の机に座るアーヴィンを見てみると、その手元に持っていたノートに大きく文字が書いてあった。
『朝、トントがリネを煽動するような言動をしていた』
膝に隠すように抱え込まれたノートから、そういう文字が浮かんでいた。
アーヴィンは廊下の角に消えていくトントから目を離さずに、一枚ペらりとそのページを捲った。
『彼の言葉を聞いてはいけない』
声を上げて子細を話すようアーヴィンに詰め寄りたかったが、すぐにトントがリネを連れて戻ってきたので、葵は慌てて青い顔を見せないように後ろを向いて、努めて冷静を気取って席に戻った。
トントの耳の良さを考えて文字で伝えてきたのだろう。
今、アーヴィンから得た言葉を表に出してはいけない。
分かるのは表に出してはいけないということで、それ以外はどういうことなのか、どうしたらいいのかよく分からない。
トントはすぐに葵の隣に戻ってきたが、葵の心の波はどうにも落ち着いてくれず、もう自分に出来るのはこれしかないと思い切り、リネの作り上げた料理を我先にと食べることで毒味役をかってでた。
とっても美味しい肉じゃがだった。
舌が痺れることもなければ苦しみにもんどり打つこともない。
自分の料理を真っ先に求めて舌鼓を打つ姉の葵は、ただ弟の喜びを生み幸せな食卓を彩っただけで幸いに過ぎていった。




