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薄汚い卑怯者

 子供はほぼ全課で、四つん這いで、人の言葉を話さなかった。

 肌は不健康なほど真っ白で骨が肌を裂いて出てきそうなほどガリガリだ。

 特に肩の骨は突き出してしまって、肩甲骨から腕に向かう背中が角のようだ。

 片目が濁っている。

 頭に、黒猫のような耳がへにゃりとしおれてくっついている。


「見ない方がいいと言っただろう」

「はい、すみませんでした…」


 人が近付いてきたのを察するや獣のように言葉にならない声で威嚇した子供を見て、葵は自分の行為を恥じた。

 可哀想な子を慰めてあげたいだなんて考えた自分が浅はかだった。自分にやれることは何もないとすぐにわかった。この子を見たいと言ったのは好奇心も混ざっていただろう。子供は艦のようなものに入っていて襲われることもないのに、恐ろしさを感じるほどの迫カのある見た目でもないのに、動悸が激しい。

 暗闇の中、リネに手を引かれて葵はすぐに薄い明かりの灯る廊下に戻っていった。

 先頭を歩くユノーはそのまま操舵室へ入っていって、やがて機体が緩やかに動き出すのを足の下の地面が教えてくれた。


「暗いままの場所でいいのかな。明かりをつけてあげた方が」

「目の色素が薄くなっているようでしたから、あまり強い光はおそらく怖がるか痛がると思います。天井についている人工灯はつけない方がむしろいいのでしょう」


 悲惨な状況は葵の想像の及ばない被害をもたらしていたようだ。

 そんなことはちっとも思いつかなかった自分が再び恥ずかしかった。しかしそれよりも、リネの声が冷静で同情らしい揺らぎが含まれていないことが、空恐ろしかった。さも当然の常識を語っているだけの様子だが、葵にとっては未知の世界の理を聞いているようだ。


「目が覚めたら…」


 機体が風を切っていく音が遠くでごうごうと鳴る以外、静かな廊下でぽつりとリネが話し始めた。


「アレの目が覚めたら、縛ったまま放り出しましょう」


 何を言っているか理解できず、葵はとりあえず操舵室の扉をコンコンと叩いた。

 くぐもった声であちらから「どうした?」とユノーが応じたので、「リネがおかしい」と返したが、特にそれ以上は反応が返ってこなかった。いつも通りと思われた。いつもがおかしい分、いつも以上におかしくなったら手が付けられないというのに。


「あ、あの、男の人のこと?」

「あそこでエビ反りになっているアレです」


 リネは指で示すことも目をやることもなかったが、間違いなく議員の用心棒をしていると言った男のことだろう。

 目の前の壁をじっと見つめたまま微動だにしないリネがとにかく繋がる手に力を込めてくるので、葵はもう一度操舵室の扉を強めに叩いた。反応はなかった。そりゃ操縦している人に助けを求めるのも無茶を言っていると分かっているけれど、指を千切ってでもこいつと離れたい欲望が心臓から沸いてくる。


「いろいろ考えたのですが、姉さまの前で切ったり取ったりは見苦しいでしょうし、痛みというのはいずれなくなるものですし、耐えられる人間もいますし、抗えない恐怖に放り込まれる方が、姉さまの目にも優しいですし、落ちている間中姉さまに手を出したことを後悔し続けることで罪を償うことに繋がりますし、最適かと思いまして」


 どうしてそういう発言に至ったのか、その経緯をつらつら話し始めた。

 あなたのために考えたことです、と主張する言い分が、あなたのせいでこれからこの男がこれだけ苦しみます、と言われているようで、胸に針を刺す。巻いてくれた包帯に広がる血のシミが一層大きく広がっていくようだ。じんわりと吸い付いて痛みを誘う。


「あ、でもこの高さで落としたら即死かな…?」


 出来ることは目覚めないことを祈ることだけだ。

 ギリギリと握りしめられているせいでぴくりとも動かない右手の代わりに、風穴が空いている左腕を持ち上げて、葵は心臓のあたりをぎゅっと掴んだ。エルロイの薬のおかげか痛みはさほど強くないが、指先が痩れているような感覚がある。体は苦しみを訴えているのかもしれない。


「何かあったか」


 小さな操舵室への扉がガチャリと開いて、背の高いユノーは少し屈みながらそれをくぐってきた。

 そしてリネと葵に向き合うように反対側の壁の椅子に座ると、ふーっと一息吐いて疲れを落とした。


「操縦は大丈夫なんですか?」

「引っ張ってもらっているから水平を保つよう設定してあとは自動操縦にしておいた。しばらくは放っておいても大丈夫だ」


 おまえらの仲間が置いていってくれたみたいだ、と付け加えて、ユノーは小さな缶を一つずつ葵とリネに渡した。

 常温になってしまっているが、コーヒーのようだ。


「あの男の処分について話し合っていました。姉さまを撃ったことについてきちんと反省してもらわなければなりませんから」

「処分はこちらで決める」


 ユノーはばっさりとリネの言葉を切り捨てて、缶を一気に飲み干した。

 やけ酒のごとくだ。疲弊が窺える。


「僕が殺します」

「それはいけない。罪を重ねるな」

「わかりました…。じゃあ、事故ということにしましょう」

「何をわかったんだ、お前は」


 缶を開けたいものの、リネに手を繋がれていてままならない葵を見かねて、ユノーは葵の分の缶を開けてやった。ほんのり酸味のきいた苦いコーヒーだ。かにゃんも梁も好みそうにない。グライダーを操縦する梁の眠気覚ましだったかもしれない。リネは缶に見向きもしていなかった。

 細く高い震えるような声が聞こえてきて、三人は同時に暗い部屋を向いた。怯えるような弱々しい声だった。

 葵の目には暗いだけの部屋で特段変わりないように見えたが、ユノーはすぐに立ち上がって足早にそちらへ向かっていった。リネは、何度か「ここにいてください」と繰り返して、なかなか姉から離れようとしない自分の指を一本ずつ無理矢理葵の腕から剥がしていって、それからようやくユノーを追いかけて行った。なぜ自分の手なのに剥がさないと離れないのか理解できなかったが、理解する努力を葵はやめた。

 二人のものと思われる話し声が聞こえてきたが、どこかこもっていてなかなか聞き取れなかった。

 どうしても気になってしまって、葵はその部屋に足を進めていった。陰から様子を見て、そしてすぐに元に戻ろうと思っていた。

 しかし暗間にきらんと光る切っ先が見えて、つい悲鳴を上げて、明かりのない部屋に飛び込んでしまった。


「な、な、何してるの!」

「姉さま! 動いてはいけません。傷が悪くなります」


 ナイフを振り上げているのはリネだった。

 足元でごろごろと転がる縛り上げられた男はがっちり目を見開いており、睨み付けるようにして葵の存在を確認した。


「おい、女! 助けやがらねえとお前の親も兄弟も皆殺しにしてやるからな!」

「待っていてください。今、殺しますから」

「俺が刑務所にでも入ってみやがれ。お前の母親から殺してやるからな。お前の目の前で殺してやるからな!」

「やめろ。それ以上余計なことを喋ると本当に殺されるぞ。リネに」


 恐ろしい言葉に足が疎んだが、暴言を吐いてくる男は縛られているし抵抗らしい抵抗は出来ていない。

 ユノーがなんとかリネの前に体を置いて凶行が行われないように阻んでいるようだ。ナイフの切っ先よりも鋭く光るような空色の瞳が、男に対する憎悪を燃やしているようにきらきらしている。


「や、やめなよ、リネ。この人のことはユノーたちに任せよう」

「いけません。刑務所に入ったところで、大して罪の意識なんて持ちません。三食用意されて寝床があって屋根があって、羨ましいくらいの環境なんですから」

「ドーラ号にいる人間を全員入れることも出来るんだぞ。気持ちはわかるが、ここは引け」

「嫌です。せめてコレの左腕だけでも魚の餌になる程度に切らせてください」


 耳元でこっそりと、「うまくいけば失血死させられますよ」と囁かれたが、何の話なんだ。

 秘密話のように言われたがしっかりユノーにも聞こえている。彼の溜息は自分を貴めているようにも聞こえて、葵の左腕は痛みを増した。

 とにかく目の前で人が死ぬなんてごめんだ。

 ましてや腕を千々に分けられるところなんて画質の悪いブラウン管越しでも見たくない。

 自信と表現するのはおかしいが、リネを止められるのは自分しかいないと思い、葵は縛られた男の前に立ってリネと向き合った。


「罪人の処罰は個人で決められることじゃない。アーヴィンたちに預けて、法執行機関に任せよう」

「もちろん処罰は警察にして頂きます。それはそれ、姉さまの傷を付けた罰は罰です」


 理路整然とした説明をしているかのような顔をしているが、まったく意味が分からない。

 葵は隣のユノーに目配せして助けを求めた。

 ユノーは目をそらした。彼との間に築いた絆にヒビが入る音を葵は聞いた。


「死んじゃったら警察は処罰できないよ」

「死人にも罰は与えられます。財産差し押さえとか、罪人の名簿に載せるとか」

「そんなの死体蹴りじゃない。やむなく死んでしまった場合の措置でしょう? 殺しちゃったのでそのようにしてくださいは通じないよ」


 同意を求めて今度こそユノーを見てみると、今度は大きく額いて同意してくれた。

 よかった、彼はやはり頼りになる存在だ。


「私は私を怪我させたことに対する処罰は行政にしてほしい」


 葵は後ろで転がる男をチラリと見て、すぐに逸らした。


「リネの手による処罰は望んでいない」

「でも、こいつは姉さまに謝罪するべきです! 姉さまの前でみすぼらしく泣き喚いて後悔するべきです!」

「私はそんなの見たくない」

「…まさか。このままでは姉さまの溜飲が下がらないはずです」


 リネの顔からは確固たる確信を持っていることがありありと伝わってきた。

 これは何を言っても無駄な時の顔だ。この頭のおかしい人間を言葉で説得しようとするなんて、自分はなんて学習しないんだと葵は心の内で自省した。


「とにかく、私は、もう特別怒っていないから、必要ない。適切な法的処罰を望んでいる。不足があっても過剰があっても不満。腕を、こ、細々にするとか、空に放り投げるなんて、過剰反応すぎる。そんなただの暴力は見たくない」

「姉さまはこいつを許したんですか?! 姉さまの腕を撃って、傷付けて、苦しめて! あ、そうだ。あの小さな子供だって、こいつらに苦しめられたのです! どうです、生かしてはおけないでしょう」

「でも、私たちが罰していいわけではない」

「………信じられません…」


 リネはようやくナイフを下ろして、戸惑ったように目を彷徨わせた。

 まだ油断はならないが、一段落はしたようだ。

 納得はしていないにせよ、今すぐこの場で殺戮が行われることはなさそうだ。暴力的行為を見ずに済んで、葵はほっとした。


「あんな犬っころ一匹のために血気盛んなこった」


 ようやく穏やがな方向に進もうというときに、足の方から汚い声がした。

 からからに乾いた喉から吐き出された痰を絡むような低い声だ。


「なあ、あの犬を旦那に返せば俺たちは大金持ちになれるぞ。あの国では五本の指に入るくれえの有権者なんだ。取り戻してきたとわかれば見たこともねえ大金を投げるようにくれるぜ」


 男の提案を提案として呑み込めなかった。

 何を言っているのかよく理解できず、葵は首を傾げた。

 後ろの方からュノーが肩に手をかけてきて、男から距離を取るように促してきたが、やっぱり何故そうされるのかすぐには分からなかった。


「犬ってなんのこと?」

「あんたも盗みに入った奴らも子供、子供言ってたが、あんなんもう人間じゃねえよ。頭を見たか? 本物の犬の耳を縫い付けられてるんだ。あれをやったのは、なんて言ったかな…、国際救助…なんちゃらっていうとにかく世界的な医学のお偉いさんからも表彰された我が国が誇る医者だぜ。超有名人ってやつだ。そんなやつも喜んで協力するような大物なんだよ、うちの雇い主は」

「姉さま、聞かなくていいです。こちらへ」


 男の瞳孔は開ききっていて、やけくそになっているような雰囲気だった。

 あの力なく折れた似つかわしくない黒い耳、葵はそれを思い出して、足元がふらりとよろけた。脳では何も理解していなかったが、本能が男を拒絶していた。背後のリネが肩を掴んでくれなければ危うく倒れていてもおかしくないほどだ。


「今頃死んでたっておかしくなかったんだ! それが八年も食わせてもらって逃げだそうだなんてあのガキこそ恩知らずだろ! 穴としてしか機能しない役立たずの犬っころが」


 勢いのまま吐き出される言葉が終わるのを待たずに、突如として黒い塊が男の頭を横から叩き付けて反対側の壁まで吹っ飛ばした。

 首から上が胴体から離れたんじゃないかと勘違いするほどの勢いだった。

 葵は反射的に「リネ!」と叫んでその腕を掴んだが、よくよく冷静になってみると吹っ飛んできた先はリネではなくユノーの方だった。

 まだ下がりきっていない状態のユノーの足を見て、葵とリネは揃って下から上からユノーの顔をマジマジと見返した。


「…………………すまない」

「い、いえ」

「姉さまの前で暴力的な行為はやめてください。殺してませんよね? こいつは落とすんですから」


 大きな手で広い額と目を覆いながら、ユノーは謝罪した。

 彼の行いに文句をつけることはできないと葵は思った。男がぶち当たってずるりと落ちていった壁に赤い後が付いている気がしたが、見なかったことにした。

 脳震遷でも起こしてしまったのか、再び意識を失ったような男を確認して、リネは心なしか残念そうな溜息を吐いた。


「あの国は、ちょっと国柄が悪いんだ。貧富の差が激しくて…、こんな奴が多い。もっと偉い、見識の深い人間でもそんなしなんた。気分を悪くさせたな」


 どうか、目が覚めるまでに、彼を引き渡せる国に着いてほしい。

 恨んでいないわけでも、命を奪うほどではないと思っているわけでも、どちらでもない。願わくば苦しめられた子供の100倍苦しんで死んでほしい、私の目の届かないところで。

 それは、少なくとも自分の手を汚そうとしているリネよりも、卑怯な願いだとわかっているから口にできない。

 葵は今すぐに、この船から逃げ出したくて仕方なくなった。

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