穴は波乱に通じる
凄まじい風の中、頼りなく細いワイヤーに引っかけただけに見える紐に捕まって飛行機から飛行機へ飛び移り、側面の入り口を破壊し侵入する。
葵の人生であるまじき行いだ。命綱なんて意味を成していないように見える。
しかし足が笑おうと厳に固辞しようと、ユノーとリネにしっかり担まれてとても安定した状態で空を横切りあっという間にグライダーの中に入っていた。
一瞬にして終了した恐怖に呆然としたが、入り込んで早々に新しい恐怖が待っていた。
すぐの部屋は電気が付いておらず、ユノーを先頭にゆっくりと歩を進めたが、突如として開いたクローゼットから手が出てきて最後尾にいた葵をあっという間に拘束してしまった。後ろから風船の破裂するような音が聞こえて、リネに繋がれていた腕を何かが貫通していき、痛みを覚えるより先に後ろに引っ張られて倒れ込み、羽交い締めにされた。
何が起こっているか全く分からなかったが、手の平を流れていく生温い赤い川を見て、急に左腕に鋭い痛みを覚えた。骨を直接トンカチで殴られているような衝撃が絶えず繰り返されていく。その衝撃に合わせて腕に空いた穴から血がどくどくと出ていく。
こめかみに冷たい鉄が当てられるような感触があって、葵は上げようとした悲鳴を抑えた。
確かに、不本意ながらリネがいれば危険に巻き込まれる前に危険を排除してくれるだろうという甘い考えはあった。密閉された危険地帯に足を踏み込む覚悟が足りなかったと言えば間違いない。
しかしこういった出来事がまったく想定されていなかったわけでもない。
暴れず黙って、背後の人間か、ユノーの指示に従う方が良いに違いないと判断した。
「姉さま!」
「葵、動くな。暴れるなよ」
ユノーは即座に葵に近付こうとしたリネを後ろに突き飛ばして、銃と電灯を構えた。弦しさに目が弦む。この部屋に入ってもう間もなく暗闇に目が慣れるというところだったが、この強烈な光の向こうは漆黒だ。リネやユノーの表情も見えない。背後の人物からも彼らは見えないだろう。
「明かりを降ろせ」
右耳のすぐ後ろで、低い声が聞こえてきた。
喉に引っかかる乾いた声だ。
「彼女を解放するのが先だ」
「…」
「きゃあっ!」
「姉さま!」
男の声に間髪入れず応えたユノーの言葉に、男は一瞬葵のこめかみから銃口を離して足元を撃った。
足の間のスカートが揺れて地面に小さな物が激しく叩き付けられたような音がした。太股のすぐ近くの床から細い煙が肌を撫でる。
幸い、銃弾が肉体に当たることはなかったようだ。
「暗いから次は当たるかもしれんぞ」
「姉さま、姉さま! 大丈夫ですか。今殺します、今、殺します。ユノー退いてください!」
「黙ってろ、リネ!」
今までにない激しさでユノーはリネを叱りつけると、すぐに明かりを落とした。
心臓の音と自分の呼吸音があまりに激しく体を響かせる中、葵の耳に鳴き声が聞こえてきた。高く何度も跳ね上がる小さな声だ。
(…犬がいる)
それどころではないのは分かっていたが、葵は深呼吸を繰り返しながらそんなことを思った。
「どこから来た」
「警察だ。この機体を追って別の機体から乗り込んだ」
「姉さま、姉さま、姉さま…、殺してやる。殺す、殺す、殺す」
「黙ってろ。葵が先に死ぬぞ」
不穏な言葉が暗がりから聞こえて、葵は泣きそうだった。
目のすぐ横に感じる丸い鉄の感触が鋭い。穴の空いた腕の痛みに勝る冷たさだ。全ての神経がそこに集中しているかのようだ。首を押さえつける太い腕はさほど大したことではなく思えてくる。この男の指先一つで自分の人生は儚く終わるとじわじわ理解が広がってきて、祈るような想いが募ってきた。
「逃走用の機体を用意しろ」
「この飛行機から出たい」
「お前、これを議員から盗んだんだろう。これが逃走用の機体だろう」
「違う。俺は議員に雇われた犯罪者上がりの用心棒だ。これが盗まれた時に入り込み息を潜めていたが、盗人はプロらしい。下手に手を出すよりこれを取り戻すのを諦めて逃げるしかねえ」
「分かった。用意させる。彼女は警察官ではなく、一般人だ。手を出すな」
「嘘こけ。一緒に乗り込んできて一般人なわけあるか」
尤もだ。
葵はちょっとアーヴィンを恨んだ。
この痛みも恐怖も彼のせいだ。
彼への憤怒で恐怖が多少霧散したのか、腕の痛みが強まった気がする。血の出ていく感覚を覚える度に指先の感覚が薄くなっていく。髭面の男と泣きそうな葵が映るユノーの視界に、何かが降りてきた。
明るい栗色の髪の毛の束が、ゆっくりと上から下がってくる。その先に人差し指を唇に添えた派手な女の顔が続いてやってきて、その女性は逆さまのまま男の背後から糸を投げて男の腕に巻き付けたかと思うと、それを思いっきり後ろに引いた。突然の出来事に男は引き金を引いた。銃口から飛び出た弾丸は葵の髪を掠めて天井に当たり、背後の男は葵から腕を離して倒れ込んだ。
距離を取りたかったが、痛みと恐怖からか、突然の銃声に丸めた体は動かなかった。
すぐにユノーが近付いてきて葵を片手で軽々持ち上げるとリネの方へひょいっと投げ捨てた。
リネは葵を受け止めるとすぐに傷跡を布できつく縛った後、謝りながら葵を遠慮のない力で抱きしめた。
元いた場所では、ユノーと見覚えのある明るい彩りの女性が、横たわる男と乱闘していた。
「葵、リネ! まさかあんたたちだったなんて。大丈夫? びっくりしたわ」
「かにゃん! どうしてここに」
「これを盗んだの、私たちなのよ。侵入者がいるなんて気付かなかったわ。怖い思いをさせたわね」
男の腕を引いた後、何かの薬品をかがせたのか、男を気絶させたのはかにゃんだった。
ドーラ号に住む団員の一人だ。貴重な女性団員。
なんだかいやに懐かしくなって、張り詰めていた葵の涙腺はぶっつり切れてしまった。
ぼろぼろと涙が溢れてきた葵を、かにゃんはリネごと抱きしめて「泣くなー」と笑っていた。
「ドーラ号の仲間か」
「そうよ。あんた誰?」
「特対だ。糸で腕を引くなんて危険だ。頭を撃っていた可能性がある」
「他にどうしろって言うのよ。捕まっているのが葵って分かっていたらもうちょっと慎重にやったかもしれないけど」
「かにゃん、殺してしまいましたか? 俺が殺します。俺に殺させてください。なるべく苦しめて殺したい」
「何か悪化したわね、あんた。何されたのよ」
かにゃんはようやく葵の腕の傷に気が付いて、そして葵もリネもユノーもようやくリネの腕も銃弾に抉られていたことに気が付いて、大慌てで手当てした。操舵室の方へ走っていったかにゃんが、自分の物の他にもう一つ、救急セットを用意してくれて、「梁も来ていて運転しているのよ」と教えてくれた。
「痛いですか? 痛いですか? 痛いですか?」
「ものすごく」
「安心してください。更なる痛みを与えて殺しますから」
誰を、とは言わなかったが、皆リネの言動を追求することはなかった。
刺激しては駄目なタイプのリネだ。目が据わっている。
「葵、これ飲んどきなさい。痛み止めになるってエルロイが言ってた薬」
「ありがとう」
「俺は良いです。痛みを忘れると恨みが薄れます」
「飲め」
かにゃんは細いヒールをリネの肩に刺して床に押し付け、口に薬をねじ込んだ。
疲れたような、呆れたような顔のユノーが、二人のやり取りを溜息交じりに観察していた。
葵はかにゃんについてユノーに簡単に紹介し、警戒の必要はないことを説いた。ユノーは携帯端末で何かメッセージを送ったようで、おそらくアーヴィンに情報を共有したのだろうと推察された。
『特対かよ! ドーラ号に戻れねえじゃねえか』
かにゃんの腕に付いた連絡機から、梁の声が聞こえた。操舵室で一同の会話を盗み聞いていたようだ。
「この船はそのままドーラ号本船に向かうのか」
「やーな」
『やべ』
ドスの利いたかにゃんの声に、梁はブチッと通信を切った。
「葵とリネだけなら是非そうしたかったところだけど、余計な人が付いてきちゃったわねえ」
「どちらにせよ特対の飛行船が追跡していますから、ドーラ号に戻るのは危険ですよ」
壁を背に自分とかにゃんの間に葵を置いて、怪我をしていない方の手を取ってぎゅうぎゅうに距離を詰めていた。リネはその状態が一番安全な場所と判断したらしい。その三人と向き合うようにュノーも腰掛けて、慎重に彼らを観察していた。
「何故この飛行船を盗んだ?」
手当も済んで一息ついたかにゃんに、ユノーが話しかけた。
上に大きく手を伸ばしてストレッチしていたかにゃんはぱっと姿勢を戻して、長い足を組んでから葵にちょっと体を傾けた。
「議員が悪い奴だったからよ」
「どう、悪い人間だったんだ?」
「依頼主の子供を連れ去って虐待していたのよ。葵にはとても聞かせられないような酷い扱いをしていたの」
葵の右側から手が伸びてきて、耳をがっしり塞がれた。カが尋常じゃない。もはや手加減の類を全て脳から失っている。
「八年前、お子さんが二歳の頃に誘拐されたそうなの。依頼主は何の権力もない田舎の夫婦よ。一生懸命お金を貯めて、私たちとは別の探偵事務所に行方を捜させたら、議員のところで地下室に幽閉されて虐められていたの。それで私たちのところに取り返して欲しいって依頼が来たのよ。探偵事務所には手出しできないと断られたそうで、警察も頼りにならなかったそうよ」
「じゃあ、その子供をこのグライダーに乗せて飛び出してきたのか」
ユノーは内部をぐるりと見回した。
四人が固まる廊下の端っこの方で手足を縛られて転がっている男以外、暗間の先はよく見えない。
「いるわよ。ちょっと…、そうね、葵とリネはここで待ってて」
かにゃんは立ち上がり、葵の肩をぽんっと軽く叩くと、ユノーと一緒に男を跨いで奥の方へ進んでいった。
気にはなったが、落としては無抵抗とは言えあの男に近付くのは避けたいし、特に身じろぎもしていないのにリネが足を強く押さえつけてくるので、大人しくしていた。
そう時間はかからずに、二人は戻ってきた。
ユノーは大変神妙そうな顔をしていて、かにゃんも何となくバツが悪そうだった。
元通りの位置に腰掛けると、ユノーは再び端末を操作していた。葵やリネに持たせている無線機とは別の、もっと小型の物だ。
「…議員の家で放火騒ぎがあったらしい」
自分の首に手を置いて、小さな端末を覗き込みながら、ユノーが静かに話した。
グライダーの元の持ち主の家から出火、議員本人とその妻、息子たちに被害が及んだらしい。家の者たちを世話する数名の使用人たちは偶然にも皆屋外での業務を言いつけられていて、不在にしていたそうだ。
「ヘえ~、そうなの」
『うまくいったみたいだな!』
「梁…」
「梁………」
思わず葵の口からも溜息が漏れた。かにゃんとリネが自分の名を残念そうに呟くのを聞いて、梁は再び通信を切った。
ユノーも頭を大きく下げて、全ての疲れが口から出て行ってしまうことを願うような大きな溜息を吐いた。
かにゃんは腕に付いた連絡機をごんごんと拳で叩いていた。ドーラ号に戻って梁と顔を合わせた時のことを想像してみただけで、ぼろ雑巾のような姿が簡単に浮かび出されてくる。葵はちょっと同情した。自業自得なのだろうが。
「だって、子供を取り戻しただけじゃ、遊び道具がなくなった程度にしか思わないじゃない、ああいう手合いは。何かしてやらないと気が済まないって元の夫婦も言っていたわ」
「依頼主の身元も議員は分かっているんだろう」
「そこはちゃんと、身を隠すように進言しているわ」
『浅はか極まりない。程度の低い考えで中途半端な同情から事態を悪化させる可能性を考慮しないから悪く言われるのです。義賊というのは大抵想定が足りない為に批難されることを自覚するべきです』
ユノーとリネと葵の腰から同時にアーヴィンの声が反響してきた。
三つのアーヴィンの声にかにゃんはちょっとたじろいだ。
「ドーラ号への依頼主より議員の方が金も手もある。その夫婦とやらの居場所などすぐ見つけてしまうだろ。取り戻すだけに留めておけばいいものを、余計な報復を生んで依頼主を危険に陥れただけだぞ」
言いたいことだけ言って無線を切ったボスの代わりに、ユノーが付け足した。
開き直っていたかにゃんはちょっと口をすぼめて、組んだ足をぶらぶらと揺らした。
「一応、猶予は与えたのよ。どろぼうしたのは昨日じゃない? 今日の正午までに自分のしたことを公表して然るべき処割を受けろって。でも動きがなかったので、しなかったらこういう目に遭うわよって予告したことを実行したまでなのよ」
「家族にまで手を出す必要があったのか?」
「夫婦は共に虐待をしていたし、今年大学を卒業する長男も荷担していた。次男は動画を撮って裏ルートで過激性癖を持つ人を対象に売っていたわ。あそこの家族は全員共犯よ」
『聞きましたか? ユノー。所詮この程度の考えですよ。我々が粉骨砕身して追いかけているものが幼稚なクソガキどもだなんて情けなくはありませんか。やはり違う部署への異動を申し出るべきなんですよ』
「なんなの、こいつ」
かにゃんは葵の腰から無線機を取り出して睨み付けた。
彼女の腕に付けた連絡機からも、似たような言葉が投げられてきていた。この連絡機は絶えず状況を本船に伝える役割も持っているので、梁に聞こえたのであれば、リーダやタールマギにも聞こえているのだろう。反応は無いが。
「すまない。うちのポスも少し頑固で偏っているところがあって」
『なんですか。文句ですか。敵前で上司の文句ですか。豪胆ですね。嫌いです』
「苦労してそうね」
「うん…まあ…、うん…………」
組んだ手に顔を隠すユノーを、葵は同情的に見た。
彼に任せておけば落ち着いてドーラ号の団員から情報を引き出せただろうに、アーヴィンが横から無駄に攻撃してくる。
「虐待を受けた子供の状態を見れば、第三者でも怒りが沸いてくるのは当然よ。依頼主からも復讐を要求されたんだし、殺さなかっただけマシだわ」
『そうは思いません。本人からの自供を恐喝によって促すなど悪手そのもの。証拠を集めて行政に提出すればそれなりの対処を求められたはずです』
「当時、依頼主夫婦は誘拐を警察に届け出たのよ! でも途中で捜査を打ち切られちゃったの。何らかの圧力がかかったとしか思えない動きだったわ。葵、葵は中立の立場よね。どう思う?」
「う、うん、そうね」
突然話題を振られて、かにゃんの熱量も横からありありと伝わってきて、葵はちょっと身構えながら自分の意見を探した。しかし思考がまとまるよりアーヴィンの言葉の方がずっと早かった。
『予測に過ぎません。警察に圧力をかけたという根拠はあるのですか』
「それは、ないけど、でも明らかに不自然な感じだったのよ。八年前だもの。証拠なんてないわ」
『諦めが早すぎますね』
「根拠を追い求めているから時間がかかるのよ! のんびりしている内に、誘拐された子供はどんどん苦しめられるわ」
『それは一理あります。誘拐された子供は24時間以内に発見出来なかった場合、死亡率は90%を超えます』
そこは同意するのか、と、かにゃんも含め黙って聞いていた葵とユノーはちょっと気勢が下がった。
『マリアンヌに次男がブローカーとして売った動画を洗い出してもらいました。悲惨な状況であることは認めます。被害者は長年の過酷な扱いによって自身を犬と信じ込み』
バンッと両耳に熱い手がぶち当たってきた。
かにゃんとその手の無線機を見ていて、後ろからの攻撃に全く気付かなかった。
一瞬眩暈がして、薬を飲んで以来麻痺したように痛みを失っていた左腕の穴がじくじくと痛んだようだ。
リネの姉を思いやった末の暴力的な耳栓はちょっと遅かった。葵はすぐに先ほどの甲高い鳴き声を思い出して、鳥肌が立つような寒気を覚えた。
『あなた方はもう少し、やり方を変えるべきだと思います』
『どう変える』
かにゃんの連絡機から梁の声とはまた別の、男性の声が聞こえた。
残酷な話は終わったのか、リネも手を下ろして改めて姉の足と腕の固定に励み始めたため、葵の耳にも鮮明にその会話は聞こえた。久方ぶりに聞く、リーダの声だ。
「誰だ?」
「えーと」
『リーダ! 俺余計なこといっぱい言っちゃったかも! ごめん!』
「リーダー? ドーラ号のボスか」
「ちが、違くないけど…、違うわ…。梁は……、梁は後で仕置きするわ」
覚悟を決めたように足元のヒールから隠しナイフを取り出してその切っ先を見つめるかにゃんの肩を、葵は労るように撫でた。
『頭と手法が足りていないのは認めざるを得ない。何か良い案があるならそれに越したことはない』
『暴力的なやり方がお好みなのでは?』
『んなわけねーだろ、しっつれいな奴だなあ』
途端に連絡機の向こうがどやどやと騒がしくなった。ミュートにしていただけで、団員たちの多くは向こう側で揃って話を聞いていたようだ。アーヴィンの言葉の数々が彼らを逆撫でして興奮状態としてしまったのは間違いないだろう。
「ボス、無意味な挑発はよせ」
ユノーはアーヴィンを名前ではなく役職で呼んだ。
『別に。挑発じゃないです。今までの行いを総合して考えるとそういう趣向だと推察できるだけです』
「そういう決めつけはよくないよ」
葵もユノーに倣ってアーヴィンの名前を出さないよう気を遣った。
「ほらな、葵もこう言っている。今は敵対すべき時ではない」
『なんです、なんです。二人して私よりもドーラ号に味方するわけですか、そうですか。ふーん。構いませんよ。ええ、別に、ちょっと人手が減ったくらいのことですから。私は気にしませんから』
『あらまあ、ユノー、葵。ボスが拗ねたではありませんか。謝ってくださいまし』
無線機を堅い長椅子の上にこんっと置いて、ユノーは口を挟むのをやめた。
『そちらのボスはずいぶん若いんだな』
微笑ましさに笑みが零れた様子が見て取れるような、朗らかな声色だ。リーダも集団の団長にしては若い方だと思うが、リーダが言っているのは実年齢の話ではないだろう。
ますます我がボスの機嫌が悪化することを予感して、ユノーの眉間の皺が深くなっていった。
『我々は警察と敵対するつもりはないが、活動を停止するつもりもない。あなたたちが子供を保護してくれるのであればグライダーは手放してこの件からは手を引く。機内にいる団員の追跡はやめてもらいたいが、それを要求する権利はないだろう。かにゃん、頑張って振り切って戻ってきてくれ』
『警察と敵対するつもりはなくとも、警察の手を煩わせるつもりはあるのですね』
『すまないな。結果的にそうなってしまって』
飄々としているリーダを珍しがって興味深く二人の会話を聞いていたが、気が付いたらかにゃんが不安げに葵の手を取っていた。
怪我をした方の手だ。少し傾けられると風穴を綿棒でなぞられるような鈍痛が走る。でも葵は歯を噛み締めて耐えた。
『子供を人質に取られては仕方ありません』
『人質にしているつもりはないが』
『虐待を繰り返し受けた幼気な子供を盾に我が身を追うなとは全く義が聞いて呆れる悪者です』
『追うなとは言っていないのだが』
『あーあ、仕方ありませんね、マリアンヌ。子供を保護するためにはドーラ号は追えません』
『賢明で慈愛あふれる判断ですわ、ボス。その子供の安全のためにもドーラ号の追跡は一度中止するべきでしょう』
『そういうわけですので、さっさとグライダーから降りて立ち去ってください。ユノー、操縦できますよね?』
いつもより数段早口になっているアーヴィンの声を聞いて、葵は悪い性根が隠し切れていないと思ったが、口には出さないでおいた。
アーヴィンとしてはこの怠けた思考が相手にバレても問題ないが、自らそれを堂々と発するわけにはいかないのだろう。
「リーダ、子供は夫婦のところに返すんじゃないの?」
自分の腕についた小型の連絡機に顔を近づけて、かにゃんが疑問を呈した。
向こう側で何人かが同調し、抗議する声が聞こえる。
『あなた方より適切に対処できます。夫婦のポケットマネーではなく、公費で最も優秀な病院へ入院させることができます』
「心配ない。火事場強盗が誘拐した子供を奪還したことにして、元の夫婦の元へ戻す筋道を立てよう、こそこそする必要はない。その夫婦も堂々と子供を見舞い、共に帰ることになるだろう」
アーヴィンの言葉は自分たちのカを誇示しているように聞こえたが、ユノーの声は柔らかく優しげで、信頼に値するように聞こえた。
本船からの通信は一度切れて、10分ほどしてまたかにゃんの連絡機越しに改めて子供の保護の依頼が入った。
盗んだグライダーに搭乗する"ドーラ号の団員"は撤退することになったわけだが…。
「僕と姉さまも帰ります!」
『それはいけません。特待が乗り込むと同時に盗人はグライダーを捨てて逃亡した。我々は接触しなかった、犯人の人となりも見てはいない。いいですね?』
雲から現れたマーク号がグライダーの横にぴったりとくっついて、梁が催促しても、しばらくかにゃんは葵とリネの傍を離れようとしなかった。自分もついていきたい、牢屋でいい、と言ったが、アーヴィンが首を縦に振らず、かにゃんは自分の連絡機をユノーに預けて去って行った。名残惜しそうに手を振る彼女を葵もちょっと寂しげに見送ることとなった。
グライダーは特待の船にワイヤーで牽引されながら、三人と、縛られた男と、子犬を乗せて、要請のあった国へと戻っていった。




